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今宮神社
京都市北区紫野今宮町
祭神--大己貴命・事代主命・奇稲田姫命
                                                              2016.09.27参詣

 京都地下鉄烏丸線・北大路駅の北を東西に通る今宮通りを西へ、約1.5km ほど進んだ先に「府社 今宮神社」との石標が立つ。駅から徒歩30分程度。

※由緒
 南楼門脇に掲げる案内(古くて字が擦れている)には、
 「大己貴命・事代主命・奇稲田姫命三柱を祀る神社で、正暦5年(994)に船岡より創立されたといわれ、疫病の神として信仰が厚い。
 一条天皇は疫病鎮めのために御霊会を修せられ、長保3年(1001)に初めてこの三柱を現地に勧請された。
 本殿は明治35年(1902)の再建で、その西にある疫神社は本社が鎮座される以前からあったといわれ、素戔鳴尊を祀る。
 今宮の名は、この古い疫神社に対し、新しい宮を意味する名称である」
と簡単に記すが、

 当社刊の「今宮神社由緒略記」(以下・略記という)は次のようにいう(長文のため要点抄記:*部分)
 *当社地には、平安遷都以前から疫神(素戔鳴尊)を祀った社があったといわれ、続日本紀・称徳天皇宝亀元年(660)6月23日条に「疫病を防ぐ神を京の四隅と、畿内畿外の堺十箇所で祭った」とあるように、往古から疫病や災厄を鎮めるため疫神を祀る習わしがあった
 --宝亀元年疫神祭が行われた神社名の記述なく、当社(前身)が含まれたかどうかは不明。

 *平安遷都以後の都では疫病や災厄が屡々おこったので、都の各地に疫神を祀って疫病を鎮めるための御霊会が神泉苑・上・下御霊神社・八坂神社の御霊会などが盛んに営まれた
 --神泉苑御霊会・・・貞観5年(863)
    祇園御霊会・・・天禄元年(970)

 *一条天皇の正暦5年(994)、疫病が都で猖獗をきわめ、本朝世紀には4月頃には洛中洛外に病者の行き倒れが多く、6月になると洛中を疫神が横行するという流言で、家々は門戸を閉じて通行する人も見られなくなったとある。
 --正暦5年という年は疫病が猖獗したようで、本朝世紀(1159)には
  「 5月20日 去三月以来外国京洛の間に病死の輩道路に繁し
   6月10日 去三月京滋外国に疫癘滋く、病死際無し。或は奇夢を恐れて門を閉じ、或は物怪と称して出仕せず
   6月16日 今日疫神横行との妖言あり。郷人の子女出行せず」
他の記述があり、朝廷では社寺仏閣へ種々の祈祷をおこなうも効果はなかったとある。

 *そこで、同年6月27日、朝廷では神輿二基を造らせ、当社の地に古くから祀られる疫神を神輿二基に斎いこめて船岡山に安置し、神慮をなぐさめ奉って疫病鎮めを祈り、人々はこぞって疫災を幣帛に依り移らせて難波江に流したという。
 このことは日本紀略にも記され、これが紫野御霊会であり今宮祭の起源である。
 --日本紀略(11世紀末から12世紀初頭)には
  「正歴5年6月27日丁未、 此日、疫神の為に御霊会を修せしむ。木工寮修理職が神輿二台を造り、北野船岡の上に安置。先ず僧侶をして仁王経を講せめ、城中の伶人音楽を献ず。会集の男女幾千人を知らず。幣帛を捧げ、礼了りて神輿を難波海に流す。此は朝議に非ず、巷説より起こる也」
とあり、船岡山(H=111.7m・当社の南約650m・現船岡山公園)に於いて疫病退散の祈願がなされ、多くの庶民も参加して幣帛を捧げ、終了後、神輿を難波海に流したという
 難波海に流すということは、幣帛に依り憑かせた疫神の御霊を海の彼方の他界に流しやって、この世から消却せしめるという信仰による。

 *この紫野御霊会から数年も経たない長保3年(1001)、またも疫病が流行し人々を悩ましたので、同年5月9日、朝廷ではご霊夢によって疫神を船岡山から現在の地に奉遷し、新たに神殿三宇・瑞垣および神輿を造らせて、大己貴命・事代主命・奇稲田姫命の三柱の神を創祀し、それまであった疫社とともにこれを今宮社と名付け、勅使を派遣して東遊走馬を行い盛んに御霊会を営まれた。
 このときも、都の衆庶上下を問わず御霊会に集まり祭事を賑わしたという。
--日本紀略・長保3年5月9日庚申条に
  「紫野に於いて疫神を祭り、御霊会と号す。天下の疾疫に依る也。
   是日以前、神殿三宇・瑞垣等木工寮修理所造る所也。又神輿内匠寮之を造る。
   京中上下多数此の社に集会す。之を今宮と号す」
とあるように、改めて紫野(現在地)に神殿3宇・瑞垣などを整えて疫神を祀り、その社を今宮と称したもので、これが当社の始まりという(霊夢云々との記述はない)

 ただ、略記には“大己貴命・事代主命・奇稲田姫命三柱を創祀し”というが、紀略には祀られた神の神名は記されていない。
 この時造られた新しい社殿等は、略記が“疫神を祀り”というように、船岡山に坐した疫神を遷座させるための神殿等とみるのが自然で、そこに、何時の頃かに、得体の知れない疫神より著名な神である大己貴以下の三神が持ち込まれ、その時期を長保3年の遷座時に付会したものと思われる。

 今の当社は大己貴命以下の三柱を祀る本社と、素戔鳴尊を祀る疫神社(摂社)が並んで鎮座しているが、この2社体制になったのが何時の頃かははっきりしない。

 ただ、江戸中期の都名所図会(1780)に本社・天王社と記した社殿2宇がみえ(右絵図)、略記所収の神社抄史にも「安永9年(1780)10月 本社・疫神社等の修復」とあり、この当時既に2社体制であったのは確かといえる。

 

都名所図会・部分

 当社での疫神祭を紫野御霊会という。
 通常の御霊会は、政争の敗者など非業の死をとげた特定個人の魂が、怨霊となって祟りをもたらすとして(これを御霊という)、それを鎮め和ませるために行われた朝廷主宰の祭を指し、どちらかといえば、怨霊が祟る相手は政権側の人々だったが、
 当社の御霊会は、特定個人の怨霊というより、疫病・天変地異をもたらす諸々の疫神を鎮め和ませるための祭典で、その分、疫病の流行を畏れる一般庶民の願望を取り込んだ民衆参加形の御霊会といえる(その名残を残すのが4月第2日曜日の“やすらい祭”という)


※祭神
  大己貴命(オオナムチ)・事代主命(オオナムチの御子)・奇稲田姫命(オオナムチの母神)

 疫神を祀るとされる当社が、大己貴命以下の3座を祭神とする理由は不明。
 強弁すれば、
 ・大己貴(大国主)の別名という大物主命(オオモノヌシ)が奈良三輪山(大神神社)に坐す祟り神(疫神)であること、
 ・あるいは、大国主命が少彦名命(スクナヒコナ)とともに医療の神とされること
などから、これを持ち込んだとも推測されるが、としても、御子・事代主命と后・奇稲田姫命を合祀する理由はない。
 多分に、日本紀略に神殿3宇を造営したということから、祭神を3座とすべく持ち込まれたものであろう。

 今、当社は大己貴命以下を祀る本社と素戔鳴尊を祭神とする疫神社から成り立っているが、元々の当社が疫神祭祀の神社であることから、大和岩雄氏は 「疫神社の祭神が本来の今宮の祭神である」 という(神社と古代民間祭祀・1989)

 今、疫神社の祭神は素戔鳴尊というが、都名所図会には現疫神社の社殿に“天王社”とあることから、本来は牛頭天王(ゴズテンノウ)であったと推察され、神殿3宇には牛頭天王とその后・婆梨采女(ハリサイジョ)及び御子神・八王子の3柱を祀っていたとみるべきかと思われる。
 それが江戸時代以前の何時の頃かに、記紀等に登場する著名な神である大己貴命以下の登場によって、本来は消え去るはずの牛頭天王が当社成り立ちの由緒から摂社として脇に祀られたと推測される(本来の祭神が新来の著名な神によって脇にやられた事例は多い)

 牛頭天王とは、備後国風土記・疫隅の国社(エノクマノクニツヤシロ)の項に
 ・南の海神の娘への妻問いに出た北海の王・武塔天王(ムトウテンノウ、牛頭天王の別名)が、往路の宿を貸さなかった古単将来を怨んで、帰路、往路で貧しいなか宿を貸して饗応した蘇民将来のもとへ立ち寄り、自分らを粗略に扱った古単将来一家を皆殺しにした
 ・その時、蘇民将来に対して、
   「我は速須須佐雄(ハヤスサノオ)の神である。
    後の世に疫病が流行ったら、蘇民将来の子孫だといって、茅の輪を腰に着けた人は免れるであろう」
といった(大略)とあることから、牛頭天王は疫病除けの神として広く信仰されたもので、素戔鳴尊が疫病除けの神とされるのも之による。
 なお、平安遷都直前の都・長岡京の発掘現場から“蘇民将来之子孫也”と記した木簡が出土している(2001)ことから、牛頭天王信仰・蘇民将来信仰は平安京遷都以前から広まっていたと思われ、当社祭神が牛頭天王であってもおかしくはない。

 牛頭天王が、明治の神仏分離によって邪神として排斥されたことから、備後国風土記で牛頭天王の別名とされる素戔鳴尊に代えられたと思われる。

※やすらい祭
 当社での著名な祭礼として、陽春の4月第2日曜日(元は旧歴3月10日、後に4月10日)、疫神社の祭りとして行われる“やすらい祭”(夜須礼祭・安良居祭・安楽祭とも書く)がある。

 この祭は、通称“やすらい花”として知られているが、その訳は、踊りにあわせて唄われる歌詞に
  や とみくさのはなや やすらい花や (富草の花や ・・・)
  や とみをせばみくらの山へ やすらい花や (富をせば御倉の山へ ・・・)
とあるように、各節の末に“やすらい花や”との一句がリフレインされるからという。

 “やすらい花”とは、
 ・桜の花が散るのを疫病の前兆とみて、「花よ やすくあれ」・花が長く枝に留まっていてほしいという願いを込めた
 ・桜の花を疫神の依代とみて、この花に留まる疫神をそのまま異界へ送りかえした
など諸説があるが、略記は  
 
やすらい祭(略記より転写)

 ・昔、疫病というのは春の花の飛び交う頃に、疫神が分散して病を与え人を悩ますものと信じられ、これを鎮めるために奈良朝の昔から鎮花(ハナシズメ)の祭儀を行っていた。
 ・一方、人々は疫病除けの神として疫神を祀り、これを崇めこれに詣でて鎮疫安穏を祈願する習わしがあった
 ・当社で紫野御霊会が修せられるようになった頃を契機として、鎮花祭の儀式に擬した形で風流を凝らし歌舞することによって疫神を浮かれさせ厄疫を鎮め、あわせて意気消沈した人たちの心を引き立たそうとする祭として盛んに行われるようになった
 ・すなわち、やすらい祭とは、疫神を鎮めるための鎮花祭と、厄疫を祓うための御霊祭が結びついた民衆のなかから生まれた花の祭である
という(大略)

 この祭礼の始まりを示す確たる資料はないが、梁塵秘抄(巻14・1169)
  「久寿元年(1154)3月の頃、京ちかきもの男女紫野社へ風流の遊びをして、歌笛太鼓すりがねにて神あそびと名付けて群がり集まり、今様にてもなく、乱舞の音にてもなく、早歌の拍子どりにも似ずして歌ひ囃しぬ。
 傘の上に風流の花をさし上げ、わらはのように童子にはんじり着せて、胸に鞨鼓をつけ、数十人拍子に合わせて乱舞のまねをし、悪気と号して鬼の形にて首に赤きあかたれをつけ、・・・」
とあるように年々華美に行われたようで、百練抄(1259頃)
  「久寿3年4月 近日京中の児女 風流を備え鼓笛を調べて紫野に参る 世に之を夜須礼と号す 勅有りて禁止」
と、その行装が華美に過ぎるとして禁止されたという。
 その後も、幾度となく禁止再興を繰り返すものの応仁の乱で中断、近世になって再興されて今に至るという。

※社殿等
 当社正門は境内の南側に建つ楼門だが、地形上、今宮通り突き当たり(今宮通りがS字に曲がっている)に立つ「府社今宮神社」との石標から東参道を通り、突き当たりの東門(元禄期の遺構という)から境内に入る人が多い(東門の手前に“あぶり餅”を商う茶店2軒あり)

 境内に入った左に当社正門である朱塗りの重層楼門(大正15年建立)が聳え、その正面に数本の樹木が密集する一画があり、略記掲載の新撰京都名所絵図(1965)には「旧本殿跡」とある。
 旧本殿跡を過ぎた先に拝殿(入母屋造)が建ち、その奥離れて本殿域となる。

 廻廊で区画されたで本殿域には、右に大己貴命以下三座を祀る本社(三間社切妻造)、左に素戔鳴尊を祀る疫神社(摂社、入母屋造)が南面して並び、それぞれの本殿前に唐破風付き向拝を有する拝所と弊殿が建つ。

 本殿は、両社とも外からは大屋根がみえるのみで社殿の様子ははっきりしないが、廻廊の隙間から覗いたところでは、その正面はほぼ同じ造りとみえる。
 なお、本社の右側に神楽殿がある。

 
今宮神社・東側入口
 
同・東門
 
同・楼門(南入口)

旧本殿跡 

同・拝殿(側面) 
 
同・本殿域正面
(左:疫神社、右:本社)
 
疫神社・本殿(屋根のみ)
 
同・本殿正面
 
本社・拝所と本殿(屋根のみ)
 
同・本殿正面

◎末社
 当社の末社は境内左手(西側)に集中してあり(「 」内は略記からの転記)、北側から
*織姫社--栲幡千々姫命(タクハタチヂヒメ)
   「タクハタチヂヒメとは高皇産霊尊の娘でアマテラスの御子・天忍穂耳尊の后で天孫・瓊々杵尊の母。
   栲(タク)とは梶の木の皮から採った繊維で織った白色の布を、幡(ハタ)は織物を指し、千々(チヂ)が織物の精巧さを指すことから、織物の祖神とされる」
   「この女神は、昔、堀川のあたりで絹などが織られていた頃から織物の祖神として祀られていたといわれ、江戸期に入って西陣の機業家によって当社に祀られるようになった。
   その後、社殿が大破した際、御旅所内に遷されていたが、天明8年(1788)の大火(西陣焼け)により焼失、寛政4年(1792)本社境内に戻し再建、戦後現在の地に遷された」
とあり、織物業のメッカ・西陣の人々の崇敬が厚いという。

*八社合祀殿
   北から大国社(大国主命) ・蛭子社(エビス、事代主命) ・八幡社(誉田別尊・比売神・息長帯姫命) 
   ・熱田社(日本武尊、尾張熱田神宮から勧請) ・住吉社(住吉四神) ・香取社(伊波比主命:イワイヌシ、下総香取神社より勧請)
   ・鏡作社(石凝姥命:イシコリトメ、大和鏡作坐天照御魂神社より勧請) ・諏訪社(建御名方命・八坂刀売命、信州諏訪神社より勧請)
   これら8社の勧請由緒・時期は不明。

*社名不明社
   八社合祀殿の南に隣する小祠だが、社名等の表示はない。

*大将軍社--牛頭天王・八大王子(ゴズテンノウの御子8柱)
   「昔、平安京の四方に大将軍社を建て祀り、都の鎮守としたが、その一つ大徳寺門前に祀られた社を遷座したもの」
   社殿神学には“紫野”とあり、社頭に“紫野大将軍社”との石標が立つ。

*日吉社--大山咋大神(オオヤマクヒ)・大物主神
   「祭神は近江・日吉神社の祭神。明治初年、当社産土の地の上野村に鎮座していた上ノ御前・下ノ御前の両社を合祀したもの」

*斎院(サイイン)・若宮社
   「天皇即位にあたり加茂神社に奉仕せしめられた未婚の内親王または皇女を斎王(イツキノミコ)と称したが、
   大徳寺の北大宮の杜(または雲林院村)に座所がおかれたため(加茂)斎院、またその側を流れる川を以て有栖川とも称した
   若宮とは大きな神格(ここでは加茂斎院)の支配下に斎い込められた激しく祟る霊をいう。
   また若宮社は、昔鷹ケ峯にあった愛宕社を現在の愛宕山に遷したとき、ここに相殿社として祀られたと伝えられる」
   切妻屋根二つを頂く社で、社頭に掲げる神額には、右から斎院・若宮神社・若宮とある。

 
末社・織姫社
 
同・八社合祀殿

同・社名不明 

末社・大将軍社 

同・日吉社 
 
同・斎院若宮社

 境内南西隅、緩い石段を上った上に月読社があり、石段下の北側奥に地主社がある。
*月読社--月読尊
   「伊勢神宮の別宮・月読宮(月夜見宮)の祭神・月読尊を分祀した社」
   毎年4月11日に礼祭が行われているから特別な社らしいが詳細不明。

*地主社
   「当社地の守護神として生国地主の守護神、倉稲魂大神(ウカノミタマ)・猿田彦大神を祀る」
   地主社と称するのはサルタヒコを祀ることからの呼称だろうが、社頭に朱塗りの鳥居が並び立つことから、ウカノミタマを祀る稲荷社が表に出ているようにみえる。  

 
末社・月読社鳥居
 
同・社殿
 
同・地主社鳥居

 斎院の前(東側)に低い石垣を積んだ一画があり、その上に稲荷社3宇が南面して並ぶ。
   右:稲荷社--宇迦御魂命(ウカノミタマ)
   左:織田稲荷社--「信長の墓所・阿弥陀寺の移転跡地・西陣元伊佐町にあった織田稲荷社を昭和62年に遷したもの」
   中央の1宇も稲荷社と思われるが、社名等の表示なし。


末社・稲荷社 
 
左:織田稲荷社、右:稲荷社
(中央は不明)
 境内東南隅、楼門の東に樹木に囲まれて宗像社が東面して鎮座する。
 「筑前宗像大社の祭神、田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命の三女神の分祀。
 別名弁財天社ともいう」

 南側の台石に長さ60cmほどの鯰(ナマズ)の姿彫りがある。
 「この社は俗に“弁天さん”と呼ばれ、鯰はその使者として彫られたものと伝える」 

末社・宗像社
 
鯰の台石

 傍らの案内には
 「元禄7年(1694)桂昌院(お玉の方)造営時の社殿である。元禄建築の特徴と異なる部分を残しており、創建当時の古い様式を伝えている」
とある。
 桂昌院(1627--1705)とは3代将軍家光の側室で5代将軍綱吉の生母。生地が大徳寺付近といわれることから、当社を寄進したのであろう

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