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山城(久世郡)の式内社/石田神社
A:京都府八幡市岩田大将軍
祭神−−五十日足彦命・天照大神・大山咋命
相殿−−饒速日命・惟喬親王
B:京都府八幡市岩田里
祭神−−不詳(磐裂神か)
C:京都市伏見区石田町(天穂日命神社)
祭神−−天穂日命
     相殿−−天照大神・大山祇神
                                                                 2012.06.26参詣

 延喜式神名帳に、『山城国久世郡 石田神社 大 月次新嘗』とある式内社だが、上記3社が論社となっている。
 社名は“イワタ”と読む。

A:石田神社・大将軍
 JR学研都市線・大住駅の北約3.3kmに鎮座するが、大住駅からの交通機関なく、近鉄京都線・新田辺駅前から京阪バスを利用する(京阪・八幡駅前から新田辺行きでも可)
 新田辺駅前から、岩田経由京阪八幡行(75C系統、時間1本)にて西岩田下車。すぐ南の西玉造交差点を西へ(府道282号線)、ふたつめの信号(押しボタン式)の角を右(北)へ曲がった突きあたりに鳥居が立つ。
(資料では、当社鎮座地を“岩田・茶屋の前”とあるのが多いが、ネット地図で見るかぎり岩田・大将軍が正しく、社頭の社標にも「岩田大将軍鎮座」とある)

B:石田神社・里
 上記・西玉造交差点を南下(府道22号線)、東岩田の信号を東へ、集落のはずれに広がる田圃の左手(北)に“石田社”と刻した石燈籠2基が立ち、参道(地道)が北へ延びる。大将軍社の東南東約700mに位置する。

C:石田神社・伏見区石田−−天穂日命神社
 京都市営地下鉄東西線・石田駅の西約150mにある。

 なお、石田神社・大将軍の北方の木津川左岸近く(流れ橋の西)にも石田神社があるが、その社名(イシダ)・由緒・祭神からみて式内・石田神社とは無関係ととれる。


【石田神社・大将軍】

 当社社頭に「式内 石田神社」(側面に、岩田大将軍鎮座とある)の石柱が立つのみで、境内に祭神・由緒・創建時期などの表示なく詳細不明。また当社に関する資料も少なく、以下、式内社調査報告(1979)による。

※由緒
 式内石田神社明細帳(1889-明治中期、当社神職・和田氏が鎌倉以降の諸史料に記す当社縁起をまとめたもの)には、
 「延暦6年(787・奈良末期)3月11日に、山階の石田神を久世郡石田荘に遷座するようにとの神託があり、ついに当地へ勧請した」
とあるという。
 この縁起によれば、当社は奈良末期・山階(山科)からの遷座となるが、当社に対する神階授叙の記録などなく、確認不能。
 また“山階の石田神”が何処の神なのか不詳。神名帳考証などがいう伏見の石田神社(現天穂日命神社、下記)ともとれるが、今の伏見区に石田と称する神社はみえない。

 なお、当社主祭神を五十日足命(イカタラシヒコ)とすることから、時代不詳ながら、命の後裔氏族・石田君がその祖神を祀ったのが始まりとも推測される(下記)

 当社創建後の経緯は不明だが、山城名跡巡行記(1754・江戸中期)
 「御霊社 同村(岩田村)民居の北に在り。社南向。当社石田社歟(カ)。延喜式に云う久世郡石田神社 是郡相違ふ。
 又神祇拾遺(1663・江戸前期)に載る綴喜郡御霊歟、祀るは文太夫霊神文屋宮田丸と号す、御霊八座の一也。当村産沙神也」
とあり、また山州名跡志(1711・江戸中期)
 「御霊社 同所(岩田村)民居北林中に在り。鳥居南向木柱額御霊大明神堅額 拝殿南向 社同」
とあるように、近世の頃には“御霊社”と称し、祭神・文屋宮田麻呂とされていたという。

 巡行記にいう文屋宮田麻呂とは、平安時代の朝野で畏れられた御霊神八座の一で、承和10年(843)謀反の罪で伊豆国に流され、その地で没。死後、無実だつたことがわかり神泉苑御霊会で慰霊された(貞観5年-863)人物だが、この宮田麻呂が何故当社に祀られたかは不明。

 また、巡行記は、延喜式がいう久世郡石田神社とは属する郡が違うという。これは、近世の頃の当地が綴喜郡に属していたことからの疑問だが、遅くとも平安時代末までは久世郡に属していたことは確実という(東大寺続要録-鎌倉中期-に久世郡との記述ありという-久御山町史・1986)

その後、明治6年(1873)に村社に列し、同22年(1889)に御霊社から石田神社へ改称したという。

 これらのことから、式内社調査報告は
 「当社こそ式内・石田神社であったことは確実である」
という。残された資料等からみると当社が式内社であった可能性は強いが、石田神社・里にかかわる資料が皆無のなか、断定できるかといえば逡巡せざるをえない。 

※祭神
 今の境内に祭神名の表示はないが、式内社調査報告他の資料には
  祭神−−五十日足彦命(イカタラシヒコ)・天照大神・大山咋命(オオヤマクヒ)
   相殿−−饒速日命(ニギハヤヒ)・惟喬親王(コレタカシンノウ)
とある。

 当社の主祭神・イカタラシヒコ命は、垂仁天皇と山城の苅幡戸辺(カリハタトベ)の間に生まれた皇子で、日本書紀・垂仁34年条に
  「五十日足彦命、是子石田君の始祖なり」
とあり、石田君なる氏族がその始祖を祀ったのが当社の始まりと解される。
 ただ、神饌姓氏禄(815)他の史料に石田君の名はみえず、その実態および当地との関係など不明。ただ、命の母が山城国出身であることから、その子孫が当地に住んでいた可能性はある。

 天照大神・大山咋命を合祀する由緒・時期は不明。

 相殿神・饒速日命については、
 ・元治元年(1185)−−源頼朝に仕え軍功があった伊豆三島の住人・物部公宗が久世郡箕里荘を給わり、石田里に来住、
 ・建久2年(1191)−−遠祖・ニギハヤヒを祀る社を建立し、降宮と称した。
 ・明徳3年(1382)−−物部公經が石田神社境内に別殿を造立して遷座。
 ・天文16年(1547)−−石田社本殿再建に伴って相殿として祀った。
という(大意)。なお、当地・岩田と内里(当社の西約700mほど)との境に降宮址があったというが、現状不明。

 同じく惟喬親王については、
 ・東岩田の小字玉造に惟喬親王の栖寓地があり、親王没後の元慶3年(879)、その子が遺命により父の調度品を埋めて造ったと伝える塚があった(位置不明)
 ・暦応3年(1340)−−在地土豪の物部公實が石田神社境内に別殿をたてて遷座
 ・天文16年−−石田社本殿再建に伴って相殿として祀った。
という(大意)
 惟喬親王(844--97)とは文徳天皇の第一皇子だが、皇位を異母弟・惟仁親王(清和天皇)が継いだことから、悲運の皇子として、各地に親王にかかわる伝承がつくられており、この伝承も、下記する大将軍塚伝承とともに同じ類であろう(上記の元慶3年には親王は生存している)

※社殿等
 境内中央に拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥、白壁に囲まれた神域内に本殿(一間社流造・銅板葺)が南面して鎮座する。

石田神社・大将軍/鳥居
石田神社・大将軍/鳥居
石田神社・大将軍/拝殿
同/拝殿
石田神社・大将軍/本殿
同/本殿

◎末社
: 境内右手に末社・水神社がある。
   祭神−−速秋津彦命(ハヤアキツヒコ)・速秋津姫命

 式内社調査報告によれば、
 「境内の左に隣接して大将軍塚と呼ばれる小丘があり、塚上に大竜王宮社と称する小祠があった。
大将軍塚は惟喬親王の御霊社(ミタマシャ)址と伝え、旱魃の時にはこの塚の周りを回って雨乞いをした。
 明治8年(1875)に塚上の小祠を境内に移し、水神社と改称した。昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊し、今はあとかたもない」
という。大将軍塚の現状不明。
 今、境内に鎮座することは、その後再建されたものであろう。
 なお、ハヤアキツヒコ・ヒメとは、イザナギ・イザナミ双神が生んだ子神で、水戸(津)・河口の守護神であることから水戸神とも呼ばれ、ハヤアキツヒメは祓除の神として六月晦大祓の祝詞に登場する。
石田神社・大将軍/末社・水神社
同/末社・水神社


【石田神社・里】
 当社参道入口に「石田社」と刻した石燈籠2基(奉納時期判読不能)があるのみで、境内には由緒・祭神等何らの表示もない。

 当社に関する資料少なく、式内社調査報告は、
 「特選神名牒は東岩田の社(当社)を本社とみなし、そこより勧請したのが西岩田(大将軍)の社とみなしたが、式内社がいづれであるか定めがたしと指摘した」
というが、当社を式内・石田神社とみなした根拠不明。
 当社に関する資料が皆無で、由緒・創建時期など不詳のため、当社が式内・石田神社であるかどうか判断不能。

※祭神
 祭神不詳。
 ただ、当社に関する唯一のネット資料には『磐裂神』(イワサク)とあるが、出典元不明で確認できない。
 イワサク神とは、イザナミが亡くなり、イザナギが、その因をなしたカグツチを切ったとき、刀の先から滴った血が多くの岩に飛び散り、そこから化生した神というが、その神格については諸説があり、また、この神が当社に祀られた由緒も不明。 

※社殿
 石燈籠が立つ参道(地道の農道)入口から北へ40mほど進んだ鎮守の森入口に鳥居が立ち、柱裏面には「山城綴喜郡岩田村」・「寛永三年(1626・江戸前期)九月吉日」とある。鎮守森の周囲には田圃が広がる。
 綴喜郡岩田村とあるのは、鳥居建立時、当地が綴喜郡に属していたことからのもの。

 鎮守の森入口の鳥居をくぐり短い参道を進んだ先の境内に、拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥、漆喰塀に囲まれた神域内に本殿(一間社流造・銅板葺)が、南面して鎮座する。

 境内左手に小祠があり、ネット資料では“若宮八幡宮”というが、社名表示なく確認不能。
 また、境内右手には、低い玉垣に囲まれた中に天照皇大神・神武天皇・孝明天皇と刻した自然石があるが、何の説明もなく詳細不明。


石田神社・里/鳥居

同/拝殿

同/本殿
石田神社・里/末社
末社(若宮八幡宮か)
石田神社・里/石碑
石碑


【石田神社・伏見区石田−天穂日命神社】
 当社を式内・石田神社とする資料として、山州名跡志(1711)・神名帳考証(1733)があるが、その根拠は不明。
 また、現伏見区石田附近には“石田”(イワタ)と称する神社はみえず、天穂日命神社のみが鎮座する(別稿・「天穂日命神社」参照)

 天穂日命神社は、延喜式に「山城国宇治郡 天穂日命神社」とある式内社に比定されており(明治10年-1877)、別名・田中神社とはあるものの、石田神社とする資料はない。
 ただ、上記したように、石田神社・大将軍に残る縁起に、“山科の石田神を久世郡石田に勧請した”とあり、古く、山科の地に石田神を祀る神社があったともとれるが、当地にあった歌枕・石田の社(イワタノモリ)を石田社(イワタノヤシロ)と誤読したものと思われる(下記)

 この地には、古来から、歌枕として有名な“山科の石田の社(イワタノモリ)”があり、万葉集では“石田社”と記して“イワタノモリ”と読んでいる。これを“イワタノヤシロ”と読んで、石田神社があったとしたのかもしれないが、ここでの“社”は“モリ”であって“ヤシロ”ではない。ただ、モリには神霊が宿す聖地との意があり、その意味では神社に通じるといえる。
 (万葉集・1731−−山科の石田の社(モリ)に弊(ヌサ)置かば けだし我妹(ワギモ)に直(タダ)に逢はむかも
       ・2856−−山背の 石田の社(モリ)に 心鈍(オソ)く 手向したれや 妹に逢ひかたき)


 また、この地は古くから山城国宇治郡であって久世郡に属したことはなく、当社を式内・石田神社とするのは疑問がある。

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