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御霊神社(上御霊神社)
京都市上京区上御霊通烏丸東入上御霊堅町
祭神--崇神天皇(早良親王)・井上大皇后・他戸親王・藤原大夫人(藤原吉子)
橘大夫(橘逸勢)・文大夫(文屋宮田麻呂)・火雷神(以上六所の荒魂)・吉備大臣(吉備真備)

                                                                  2016.09.27参詣

 京都市営地下鉄烏丸線・鞍馬口駅の東約140m、駅から烏丸通りを南へ行ったすぐの角(御霊神社との標識あり)を東へ入った突き当たりに鎮座する式外社。

※由緒
 境内に掲げる案内には
 「祭神として崇道天皇(早良親王)・吉備真備・橘逸勢をはじめ、十三柱の神々を祀る。
 この地には、はじめ付近住民の氏神として創建された上出雲寺があったが、平安京遷都(794)に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代・平安時代初期に不運の内に亡くなった八柱の神霊が祀られたといわれ、その後明治天皇の御願により祭神五社が増祀され、現在に至っている。
 平安時代には、天変地異や疫病流行は怨霊の祟りであるとする御霊信仰が盛んで、怨霊をなだめるための御霊会が度々行われ、疫病除けの霊社として名を広めた。朝廷から庶民まで広く信仰を集めたが、特に御所の守護神として朝廷の崇敬が篤く、神輿や牛車など皇室からの寄付品を多く蔵している」
とあるが、

 御霊神社由緒略記(以下、略記という)には、
 「本殿八座の御鎮座年月は詳ならざるも、社記によれば、桓武天皇の御宇・延暦13年(794)5月、崇道天皇の神霊を現今の社地に祀り給ひしを始めとす。
 其後、仁明天皇(833-50)・清和天皇(858--76)両朝に至りて井上内親王・他戸親王・藤原大夫人・橘大夫・文大夫の神霊を合祀せられ、貞観5年(863)5月廿日神泉苑に六座の神座を設け、悪疫退散の御霊会を勅修あらせられたるは史上明らかにして、当社御祭神を勅祭し給ひし始めなり。
 後更に以上六座の荒魂・火雷神と吉備聖霊とを併祭されるに至り、俗に社号・八所御霊・八所御霊大明神と称え奉り、国家守護・皇居産土神・都民擁護の崇社として斯に長久に鎮座し給へるなり」
と、やや詳しく記している。

 しかし、管見した資料によれば
 ・日本の神々5(1986)
   「聖武天皇の皇女で光仁天皇の后であった井上内親王は、天皇を呪詛した罪で宝亀3年(722)大和国宇智郡に配流となり、その地で亡くなった。
 その霊を鎮めるために同地に霊安寺が建てられたが、平安遷都の折に、出雲氏の氏寺であった上出雲寺へ遷り、その鎮守となったと伝える。
 光仁天皇の第二皇子で桓武天皇即位により東宮(皇太子)となった早良親王(サワラ、後に崇道天皇と追号)は、藤原種継暗殺事件(785)に連座して淡路へ配流となり、その途上、自ら食を絶って没した。
 次いで皇太子となった安殿親王(後の平城天皇)の病や市中の疫病流行が、早良親王の怨霊によるものとされ、延暦24年(805、延暦19年の間違い)に崇道天皇(スドウ)と追号、井上内親王を祀る上出雲寺の鎮守社に合祀され、これが当社の起源という。

 ・神社と古代民間祭祀(1989)
   「上御霊神社は、宝亀6年(775)に毒殺された井上皇后(井上内親王)と他戸親王(オサベ、井上皇后の御子)の怨霊を鎮めるための祭祀を行っていた上出雲寺の鎮守社に、延暦4年(785)に自殺した早良親王を加えて御霊社としたのが始まりという」
として、少しずつニュアンスが違っている。

 これらをまとめると
 ・下鴨神社西の賀茂川西岸から鞍馬口にかけての一帯は、奈良時代には山城国愛宕郡出雲郷と称し、出雲から移住してきた出雲氏一族が居住し、その氏寺として上出雲寺(雲上里、奈良前期創建)と下出雲寺(雲下里、奈良中期創建)があった
 ・その上出雲寺に平安遷都の折、大和宇智郡の霊安寺から井上皇后(あるいは井上皇后と他戸親王)を遷座して鎮守としたのが当社の前身で
 ・その鎮守社に、早良親王(崇道天皇)を合祀したのが当社の始まり
 ・その後、藤原吉子・橘逸勢・文屋宮田麻呂を、更に、火雷神・吉備大臣を合祀し、現在に至る
となろう。

◎創建年次
 社頭の案内および由緒略記は延暦13年(794、平安遷都年)、日本の神々は延暦24年(805)というが、正史(続日本紀・日本後紀)には当社創建を示唆する記事はみえず、当社にかかわる記事として次のものがある。
 ・宝亀3年(772)3月2日、皇后・井上内親王は呪詛の罪に連座して、皇后の地位を廃された
 ・宝亀4年(773)10月19日、井上内親王が難波内親王を呪詛した。
               天皇は詔して、井上内親王とその子他戸親王を大和国宇智郡にある官に没収した邸宅に幽閉した
 ・宝亀6年(775)4月27日、井上内親王と他戸親王がともに卒した
 ・宝亀8年(777)12月28日、井上内親王の遺骸を改葬し、御墓と称して墓守一戸を置いた(以上光仁紀)
 ・延暦4年(785)9月23日、藤原朝臣種継が賊に射られて薨じた
           10月8日、勅使を天智陵・光仁陵・聖武陵に遣わし、皇太子(早良親王)を廃した事情を告げさせた
 ・延暦13年(794)      平安遷都
 ・延暦18年(799)2月15日、勅使を淡路国に派遣・奉幣して崇道天皇の霊に謝罪した
 ・延暦19年(800)7月23日、故皇太子早良親王を崇道天皇と称し、故廃后井上内親王を皇后に戻し、
                  二人の墓を共に山稜と改称した。(崇道陵:淡路国津名郡、井上皇后陵:大和国宇治郡)
 ・延暦24年(805)1月14日、崇道天皇のために、寺(霊安寺と称す)を淡路国に建てることとした
           2月6日、一棟の小倉を霊安寺(奈良五條市霊安寺町)に造り、稲三十束を納めた。
                 井上内親王と他戸親王の霊を慰めるため也
           4月5日、諸国に命じ、崇道天皇のために小倉を建て、天皇に準じて国忌扱いとして奉幣するこことした
                 崇道天皇の怨霊に謝罪するため也
           4月11日、崇道天皇を淡路国から八島陵(奈良市八島町)へ改葬する臨時の官司を任命した(以上、桓武紀)
 ・貞観5年(863)5月20日、神泉苑で御霊会を修す。
                  御霊とは崇道天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使・橘逸勢・文屋宮田麻呂等是なり

 崇道天皇八島陵の造営年次は不詳だが、三代実録・天安2年(858)12月9日条に『崇神天皇八島陵 大和国添上郡に在り』とあり、それまでに造られたと思われる(今の八島陵は明治18年の御陵整備の際に円墳として整備されたもの)
 ただ、資料(天皇陵総覧・1994)によれば、崇道天皇・八島陵は山稜ではなく御廟(八島寺・延暦25年創建という)であって、そこには崇道天皇社との社があった(いずれも今はない)というから、あるいはこの社から勧請されのかもしれない。

 これらの資料からみて、当社の創建時期としては、
 ・早良天皇に崇道天皇号が贈られ。井上内親王が皇后に戻された延暦19年というのも一つの見方だが、
 ・諸国に命じて崇道天皇を祀る社を建てさせたという延暦24年以降が有力かと思われる
 しかし、その傍証となる史料はみえず、当社創建年次は延暦末から大同初年頃(800年代当初頃)かとは推測されるものの、実年代は不明とするのが妥当であろう。

[付記]
 上出雲寺--奈良時代前期の創建で、現上御陵神社の辺り(上御霊町・馬場町・相国寺門前町の辺り)にあって、金堂・講堂・食堂・鐘楼などを有した大寺だったというが、平安時代には次第に衰退し、代わって鎮守社であった上御陵神社(御霊堂)が隆盛となり、その寺格も当社の神宮寺へと逆転し、何時の頃かに廃寺になったという。
 烏丸通りに立つ当社案内表示には、「御霊神社 上出雲路旧蹟、応仁の乱東陣跡、松尾芭蕉句碑」とあり、上出雲寺は当社境内にあったというが、境内にそれらしき痕跡は見えない。

※祭神
 由緒略記には
 [本殿八座]
  ・崇道天皇   光仁天皇第二皇子 早良親王
  ・井上大皇后  聖武天皇第一皇女
  ・他戸親王   光仁天皇第四皇子
  ・藤原大夫人  藤原吉子命
  ・橘 大夫    橘逸勢命
  ・文 大夫    文屋宮田麿命
  ・火雷神     以上六座の荒魂
  ・吉備大臣   吉備真備命  
 相殿五座
  ・三社明神   四座
  ・和光明神   一座
とある。

 このうち、本殿八座とは所謂御霊として畏れられたもので、続日本紀・日本後紀等によれば
 ・井上大皇后(717--75、井上内親王ともいう)
   宝亀元年(770)、光仁天皇の皇后として立后
   同3年(772)、光仁天皇を呪ったという大逆の罪で皇后の地位を廃され、
   同4年、光仁天皇の姉・難波内親王呪殺事件に関与したとして大和国宇智郡に幽閉中に逝去(毒殺という)
 ・他戸親王(オサベ、761--75、井上皇后の御子)
   宝亀元年、光仁天皇即位とともに立太子
   同3年、母井上皇后の天皇呪詛事件に連座して廃太子、
   同4年、母が関与したとされる難波内親王呪殺事件により母とともに幽閉中に逝去(毒殺という)
 ・崇道天皇(750--85)--実名:早良親王
   天応元年(781)、桓武天皇即位にともない皇弟・早良親王が立太子
   延暦4年(785)、造長岡京使・藤原種継の暗殺事件に関与したとして皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉
   無実を訴えるために絶食し、淡路国への配流途中、河内国高瀬橋付近(現守口市)で憤死、遺骸は淡路国に埋葬
   その後、皇太子・安殿親王の発病や桓武天皇・早良親王の生母・高野新笠の病死、疫病の流行などが早良親王の祟りとして鎮魂の祭儀が行われるなか、延暦19年(800)、崇道天皇を追号される。(以上、続日本紀)

 以上3座は、桓武天皇即位にかかわる政争の犠牲者であり、それらを怨霊として当社に祀ったのであろう。

 ・藤原大夫人(?--807、藤原吉子ともいう)
   桓武天皇の夫人で伊予親王の母(藤原南家出身)
   大同2年(807)、藤原北家の宗成の讒言によって謀反の疑いがかけられた皇子・伊予親王とともに川原寺に幽閉され、飲食を絶って憤死(日本後紀)

 藤原吉子は、桓武というより次の平城天皇即位時の政争にかかわるものだが、同時に憤死した桓武の皇子・伊予親王が祀られず、母・藤原吉子のみが祀られる理由は不明。
 因みに、同じ御霊社といわれる神泉苑御霊会および下御陵神社では、井上内親王と他戸親王が外され、代わりに藤原吉子と伊予親王が祀られている。

 ・橘大夫(橘逸勢-タチバナノハヤナリ、橘奈良麻呂の孫、782--842)
   延暦23年(804)、最澄・空海等とともに渡唐、大同元年(806)帰朝後朝廷に仕え官位は従五位下、書に秀で、空海・嵯峨天皇とともに三筆と称される。
   承和9年(842)、嵯峨上皇崩御の時、恒貞親王を擁して陰謀を企てたとして捕縛(承和の変)、無罪を主張するも仁明天皇より謀反人との詔勅が出され伊豆国へ配流、その護送途中、遠江板築(浜松市)で病没。

 ・文大夫(文宮田麻呂-フミヤノミヤタマロ、?--843)
   仁明朝に仕えた中級官僚(従五位下)
   承和10年(843)、左遷を怨んで謀反を企てたとして伊豆国に配流され、その地で死亡したという。
   罪に問われた事情は不詳で、承和の変にかかわるとも、瀬戸内交易にかかわる藤原北家とのトラブルともいわれ、詳細不明。

 この2座は、無実の罪で亡くなったことから御霊といえば御霊だが、正史などには御霊怨霊として祟ったという記述はみえず、当社に祀られる理由は不明。
 ただ、神泉苑御霊会で御霊として祀られていることから、神泉苑御霊会(863)以降、当社に勧請されたかと思われる。

 ・火雷神(カライシン)
   略記は“崇道天皇以下6座の荒魂”というが、その荒魂が何故当社祭神に加えられたかは不明。
   (神霊には和魂・荒魂の2面があるというが、御霊・怨霊とは荒魂と思われ、その荒魂を別神として改めて祀るというのは理解できない)
   火雷神とは神名からみて雷神として、これを雷神として畏れられた菅原道真とする説もあるが、道真が天神として祀られたのは10世紀であり、時代が合わない。

 ・吉備大臣(吉備真備-キビノマキビ、695--775)
   位人臣を極め(正二位・右大臣)中央官僚としての一生を送った真備を怨霊として祀る理由はない。
   一時(750)筑前守・肥前守に任じられたことから左遷とも思われるが、翌年には復帰して遣唐副使として渡唐しており、怨霊というにはほど遠い。
   真備が陰陽道の大家とされることから、陰陽道の呪力によって御霊を鎮圧してほしいという願望からともいうが、牽強付会の説であろう。
   また、神亀6年(729)、左道を以て国家転覆を謀ったとして自殺に追いやられた長屋王(天武の子・高市皇子の御子)の后・吉備内親王(天武の子・草壁皇子の皇女)とする説もあるが、長屋王が怨霊化したとは伝わらず、吉備という御名からの付会であろう。

 この2座を当社に祀る理由は不詳。
 因みに、神泉苑御霊会では祀られていない。

 [相殿五座]
 ・三社明神 四座
   略記には4座の神名なし。
   資料によれば、小倉実起・小倉公連(実起の子)・典侍局(実起の娘、霊元天皇の皇子・一宮の母)・小倉季伴(実起の子)という。
   小倉一家は、霊元天皇(1663--87、江戸前期)後の皇位継承に際して、五宮(後の東山天皇)への継承を望む天皇に反対して我が娘・中納言典侍が生んだ一宮(後に出家して済深法親王)を押し、江戸幕府を巻き込んだ騒ぎになるなか、勅許に反したとして、将軍綱吉によって実起・公連・季伴が佐渡島へ流され、実起・公連はその地で亡くなったという。

 ・和光明神 一座
   略記には神名なし。資料によれば、菅原和子(1782--1811)という。
   菅原和子とは光格天皇(1779--1817)の后で、臨月の頃、御所の縁側から転落(蝋が塗ってあったという)母子ともに死亡。
   その後、この辺りに乳飲み子を抱いた長髪白衣の幽霊があらわれるとして畏れられ、現場に霊社が設けられた。
   明治になって、皇子の誕生はあるものの無事成長されないのは、この霊社(菅原和子)の祟りとして上御陵神社に合祀されたという。

 この5座の勧請について、案内は「明治天皇の御願により・・・」というが、よくわからない。

※社殿等
 西面する鳥居を入り、参道を進んで楼門(入母屋造・重層)を入った先が境内。
 境内中央に四方吹き放ちの拝殿(入母屋造)が、その奥、透塀に囲まれたなかが本殿域。
 正面透塀中央に唐風破風向拝を有する拝所が、その奥、弊殿に続いて本殿(入母屋造)が西面して鎮座する。
 本殿は屋根がみえる程度で細部はみえない。

 社殿について、由緒略記は
 「神殿  古くは左右両殿に岐れたりしが、応仁の戦乱(1467-77)以後合して一社となる。
 神殿は近古より造営の都度、賢所御殿を御寄進あらせられるを例とし、現在の神殿は享保18年(1733)御寄進の賢所御殿(旧神殿)の由緒ある遺構を、近代建築技術により復元、昭和45年(1970)竣工し以て現在に至る」
というが、古くは左右両殿に分かれていたというのはよくわからない。


上御霊神社・鳥居 

同・楼門 

同・拝殿 

同・拝所 

同・拝所内陣 
 
同・本殿

◎末社
 境内左奥に神明神社が西面して、左前に厳島神社・末社合祀殿2宇・八幡社が南面して並ぶ。

 
神明神社・鳥居
 
同・社殿
 
厳島神社
 向かって右側(東側)の合祀殿-1(略記には長宮三十社とある、右写真)の神額には、
 右から
  鴨社・賀茂社・八幡社・松尾社・春日社・平野社・大原社・大社・石上社・大和社
  ・広瀬社・龍田社・住吉社・日吉社・吉田社・広田社・八坂社・梅宮社・丹生社
  ・貴船社・猿田彦社・厳島社・多賀社・熱田社・愛宕社・熊野社・今宮社・稲葉社
  ・荒社・春原社
とあり、著名な神社のほとんどを網羅しているが、勧請由緒等は不明。


合祀殿-1(長宮三十社)
 向かって左の合祀殿-2は、横長の覆屋の中に小祠6宇が収まり、

 左から 
  白鬚神社・粟島神社・大舞神社・
    ・天満宮社・多度神社・貴船神社
と並ぶ。

 その左少し離れて、花御所八幡宮が鎮座する。
 

合祀殿-2・覆屋正面

花御所八幡宮 
合祀殿-2・覆屋内の小祠6宇

白鬚社・粟島社 
 
大舞神社
 
天満宮社・多度社・貴船社

◎応仁の乱勃発地・石碑

 正面大鳥居の右脇に、「応神の乱勃発地」との石碑が立つ(右写真)

 応仁の乱とは、応仁元年(1467)から約10年間続いた全国的な戦乱で、全国の有力守護大名等が室町幕府管領・細川勝元と同侍所所司の山名宗全をそれぞれの統領として戦った戦乱で(将軍職の継承争いに大名内の内紛が絡むなど複数の原因によるという)、この戦乱によって主戦場となった京都は灰燼と化し、時代は戦国の世に突入したという。

 その応仁の乱が勃発したのが当地だといわれ、脇の案内には
  「文正2年正月17日(3月に応仁と改元)深夜、畠山政長(マサナガ)が、この付近すなわち御霊の森(上御霊神社境内)に布陣。翌朝、政長と家督を争っていた畠山義就(ヨシナリ)が兵3000を率いてこれを攻撃。義就方には山名宗全の命をうけた山名政豊が加勢したが、政長方は頼みとした細川勝元が動かず、まる一日の合戦の結果、政長方が敗れ退去した。 これが応仁の乱最初の合戦である(以下略)
とある。   

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