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山城(愛宕郡)の式内社/貴布祢神社
貴船神社
京都府左京区鞍馬貴船町
祭神--高龗神
                                                       2011.08.15参詣

 延喜式神名帳に、『山城国愛宕郡 貴布祢神社 名神大 月次新嘗』とある式内社。
 社名・キフネの表記については、古くは“黄船”・“木船”・“気生根”・“木生根”・“貴布祢”・“貴船”などの表記があったが、明治4年(1871)の太政官達により“貴船神社”と決定し現在に至るという。

 京阪本線・出町柳(終点)から叡山電車(鞍馬行)に乗換えた貴船口駅の北約2km。駅から一本道、貴船川沿いの道(府道361号線)を北上した処に本社が(徒歩約30分・近くまで京都バスあり)、その約500m上流に奥宮が鎮座する。道路が狭く、本社前後の狭い道沿いには鮎の川床料理を出す料理屋(高価、他に一般の食堂なし)が軒を連ね、夏(避暑)・秋(紅葉)のシーズン時には人車混合で混雑する。

※由緒
 当社は平安のはじめから祈雨・止雨の神として知られるが、その創建年代は不明。

◎創建伝承
 “貴布祢総本宮 貴船神社要誌”(以下、“要誌”という)との小冊子には、
 「社記に、『国家安穏・万民守護のため、太古“丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻”に、天上より貴船山中腹・鏡岩に天降れり』とあり、
 又、『神武天皇の皇母・玉依姫命は、雨風の国潤養土の徳を尊び、その源を求めて、黄船に乗り浪花より淀川・鴨川を溯り、その川上貴船川の上流のこの地に至り、清水の湧き出づる霊境吹井を認めて、水神を奉斎す』とある。
 御社殿の御創建を銘記するものではないが、その年代は極めて古い」
とあるが、
 社頭に掲げる由緒には、
 「創建年代は明らかでないが、反正天皇の御代(南宋に遣使した倭王・珍とすれば、440年頃)、奥宮の水の湧き出すところに社殿を建てたという御鎮座伝承がある古社」
とある。

 要誌前半がいう“貴船神の丑年・・・丑刻降臨”は根拠不明で信ずるに値しない。
 要誌後半のタマヨリヒメ伝承と由緒にいう鎮座伝承を比べると、“涌水”の地に社殿を建てたという以外に共通点はなく、神武天皇(実在性の真偽は無視)と反正天皇とでは数百年の差があり、いずれも後年の創作であろう。
 ただ、当社が水神信仰を原点とすることからみると、由緒にいう伝承が史実に近いかとおもわれる(ただ反正期かどうかは不詳)
 また、この二つの伝承を一体化して、“反正天皇の御代に、黄船に乗ったタマヨリヒメが浪花からこの地に至った”との伝承があるという(ネット資料)、。

 この涌水にかかわって、奥宮社頭の案内には、「本殿下には巨大な龍穴があり」とある(今は水が涸れているという、実見不可)。この龍穴が、要誌にいう“清水の湧き出づる霊境吹井”、由緒にいう“水の湧き出す処”とすれば、上記伝承は、神祇史料(1871)に「曾ては現本社が遙拝所、現奥宮が本社であった」とあるように、貴船神示現の地すなわち当社創建の地が現奥宮辺りだったことを証するものといえる。

 なお、旧本社(奥宮)の現鎮座地への遷座は、近衛天皇・天喜3年(1055)のことで、旧社地が貴船谷の最低地にあったためしばしば水害に見舞われ、天喜3年の洪水による社殿流失を契機として現在地に遷ったという(百練抄との古書の天喜3年4月26日条に「貴布祢社水の為に流損、他所に移立」とある、という)

 なお、貴船の神が天降ったという貴船山(699m、当社の西に聳える)は今禁足地となっているため、神が降臨したという鏡岩は実見不能。
 ただ、この鏡岩は、貴船大明神の怒りに触れて追放された仏国童子が密かに帰ってきて、ここに“屈み居た”(カガミイタ)ために鏡岩というとの伝承(貴布祢双紙)もあるという。とすれば、黄船伝承と鏡石との関係は薄くなる。

 また、奥宮社殿左手の高所に“船形石”との石囲(長10m・幅3m・高1.5m)があり、皇母・玉依姫が乗ってきた“黄船”を石を囲んだものというが(当社要誌)、黄船伝承にもとずいて後世に造られたものであろう。
貴船神社/奥宮・船形石
船形石(要誌より転写)

 当社創建時期を推測する資料として、諸社根元記(1540頃)に、
 「造東寺長官藤原朝臣伊勢人が勅を奉じて東寺を造営した時、吾も私寺一宇を建てたいと念じた。ある夜、夢のなかに洛陽の北に一深山が見え、そこに現れた齢八十余の翁が『汝この地を知るか』と問うた。伊勢人が『知らず』と答えると、翁は『この地は天下一の勝地にして、道場を建立するに最も適した地なり。我は王城鎮守の神・貴船明神なり』と告げた」
との伝承がある。

 この伝承そのものは鞍馬寺建立の縁起だが(鞍馬寺・参拝の栞には「延歴15年-796-・藤原伊勢人堂塔伽藍建立」とある)
 ・藤原伊勢人(759--827)とは藤原南家の出身で(南家の祖・武智麻呂の曾孫)、延歴15年(796)に造東寺長官に任命されていること(東寺では延歴15年建立と伝える)
 ・大鏡(平安末期)・水鏡(鎌倉初期)にも、「貴布祢大明神の御夢託によって鞍馬寺建立す」とあること
などからみて、8世紀以前から、鞍馬・貴船の地主神としての貴船大明神なる神が広く知られていたことを示すといえる。

 この伝承には当社社殿の有無は記されていないが、正史上での初見である、日本紀略(11世紀後半以降)・嵯峨天皇・弘仁9年(818)5月辛卯条に、
 「山城国愛宕郡貴布祢神を大社と為す」
との記事があり、その年次が伊勢人の鞍馬寺建立から20年ほどしか経っていないことからみて、伊勢人の頃(8世紀末)には創建されていた可能性が高い。
 ただ要誌によれば、
 「天武天皇・白鳳6年(678)には、社殿造替との社伝がある」
とあり、天武期以前の創建を示唆するが、その確証はない。

 当社への神階授与としては、嵯峨天皇・弘仁9年(818)6月の従五位下(日本略記)授叙を嚆矢として順調に昇階し、崇徳天皇・保延6年(1140)には正一位の極位に叙せられている(二十二社註式)

 これは、当社が祈雨止雨に霊験があるとして朝野から篤い信仰を得たためといわれるが、当社への祈雨祈願記事としては、弘仁9年7月条の
 「山城貴布祢神社・大和国室生山上龍穴等に遣使、雨を祈る」
を嚆矢とし、以降、延喜式祈雨神祭85社の一社として祈雨止雨祈願の記録が数多く残されている。

◎雨乞い
 古代にあって、順調な四季の循環・特に祈雨(旱天での雨乞い)・止雨(長雨止め)のための奉幣祈願は、為政者がなすべき重要なマツリゴトとして、奈良時代には主に大和の丹生川上神社に対しておこなわれていたが、平安遷都以降、新たな祈願社として賀茂川の上流に鎮座する当社が選ばれ、たという(日本の神々5収載・貴船神社・2000)

 要誌によれば、当社への祈雨止雨に際して
 「祈雨に際しては黒馬が、止雨には白馬が特に添えられた」
とあり、奉幣祈願に際して馬の首が奉献物して捧げられたという。
 ここで黒馬は雨雲を、白馬は白雲を表象するといわれ、黒馬を捧げることで雨雲すなわち雨を呼び、白馬で白雲すなわち晴天を求める感染呪術といえる。

 古来から、雨乞いに際して牛馬を殺して水神に捧げることは洋の東西を問わず広く見られた習俗で(土地によって供儀動物は異なる)、わが国でも、書紀・皇極天皇元年条に
 「6月から日照りが続いた。7月、群臣が語りあって、村々の神官の教えに従って、牛馬を殺して諸社の神に祈り、市を別の場所に移し、また川の神に祈ったが、雨乞いの効き目はなかった」
とあり(続いて、仏に祈ったが験なく、最後に、天皇が川上で天に祈ると大雨が降ったとある)、その後も、雨乞いの際に牛馬を殺して神に捧げたとする記録が数多く残っている。

 旱魃の雨乞いに際して、牛馬など動物の死体やその首、あるいは糞尿などの汚物を、水神が坐すという川の渕・滝壺・池・井戸などに投入するのは、一般には、穢れた物・汚物を投入することで水神を怒らせ、雨を降らせようとする呪法といわれる。
 しかし、怒った神は人々に災いは与えるものの、人々の願いを叶えてくれるはずはないとして、
 ・“神が坐すあの世は全てこの世とは逆さまになっており、神を穢すことは神を冒涜することではなく、神を喜ばせ活性化すること”であり、
 ・雨乞いに際して馬の首を水中に投入するのは、それによって神を喜ばせ、活性化することで、その結果として、神は人々の願いである雨を降らしてくれる、
という説もある(穢れと聖性・2002)

◎賀茂別雷神社との関係
 当社は延喜式にいう名神大社として独立した神社のはずだが、何故か、明治初年まで賀茂別雷神社(上賀茂神社・京都市北区・当社の南約7km・ただし貴船川は賀茂川に連なる)の摂社とされていた(当社要誌・由緒には記載なし)

 当社が上賀茂社の摂社となった由縁・時期ははっきりしないが、
 ・寛仁元年(1017)の上賀茂社への天皇行幸の際、河合・片岡両社(上賀茂社摂社)と貴布祢社の3社が正二位の神階に叙せられ、この3社が同格とされていたこと(ただし、上賀茂社の境内摂社に貴布祢社-正式社名・新宮神社-があり、これに対する授叙かもしれない)
 ・貴布祢社本社の現在地への遷座に際して(1046)、それを神に報告する奉幣使が当社とともに上賀茂社にも派遣されていること
 ・嘉永元年(1106)の上賀茂社火災・天永3年(1112)の下鴨社の火災に際して、そのご神体を水神を祀る当社に移していること
などから、11世紀初頭頃から上賀茂社の支配下にあったと推測されるという。

 この摂社化は、朝廷の特別な庇護のもとでの賀茂社の勢力拡大によるものだが、延喜式の名神大社という由緒をもつ貴布祢社にとって、上賀茂社摂社という社格に甘んじることは不本意なことで、両社の間で紛争が続き、幾度となく摂社からの離脱を求める訴訟が起こされるが認められず、寛文4年(1664)6月、徳川幕府から“貴布祢社を上賀茂社の摂社とする”との最終採決が下ったという。

 その後、明治3年2月、新政府のもとで貴布祢社が勅祭社となり、同4年貴船神社と改称して官弊中社に列せられたことによって、上賀茂社からの独立が果たされ、現在に至るという。(以上、日本の神々5)

※祭神
 本社・奥宮ともに、祭神は“高龗神”とするが、異説もある。
 ・本社--高龗神(タカオカミ)
    異説--罔象女命(ミズハノメ・水の女神)--諸社根元記(1540頃)・二十二社註式(1469)
 ・奥宮--タカオカミ神
    異説--闇龗神(クラオカミ)・ミズハノメ命・国常立神(クニノトコタチ)・玉依姫--出典不明
          クラオカミ神・タカオカミ神・タマヨリヒメ命・神武天皇・ウガヤフキアヘズ尊・クニノトコタチ神・ミズハノメ命
                                              ・スサノヲ尊・オオナムチ命--黄船社秘書

 当社の主祭神・タカオカミ神とは、火神・カグツチを生んだために身を隠したイザナミの死を悼み、イザナギがカグツチを斬ったときに生成した神で、カグツチを三つに斬ったときにタカオカミが、指の間から滴り落ちた血からクラオカミが化生した神(書紀)。
 オカミ・(雨カンムリに□4箇、下に龍)とは“水を司る龍”を意味する古語で、タカは断崖の高所、クラは断崖下の峡谷を指し、両神とも山中の高所から峡谷を流下する水に関係する神。

 異説にいうミズハノメとは、古事記によればイザナミがカグツチを生んで病臥したとき、イザナミの尿から成った神で、書紀にはイザナミが亡くなる前に生んだ水神という。いずれも水を司る女神。

 タカオカミ・クラオカミ・ミズハノメはいずれも水神であり、水神信仰を基調とする当社の祭神としては妥当だが、それ以外の神を祭神とする理由は不明。

※社殿等
【本社】
 道路西脇に朱塗りの大鳥居が立ち、傍らには“総本社 貴船神社”とある。両側に朱塗りの燈籠が並ぶ参道の石段を登った上に神門があり、境内に入る。
 境内左手の石積基壇上に拝殿(入母屋造切妻向拝付・銅板葺)が、その背後、透塀に囲まれた中に本殿(流造・銅板葺)が鎮座する。

 要誌によれば、天喜3年の遷座以降式年造営がなされていたが記録紛失のため詳細不明。文久3年(1863)までに36回余の造替がおこなわれ、大正11年(1922)に大修理、平成17年(2005)に大造替がおこなわれたという。

貴船神社/本社・鳥居
貴船神社/本社・大鳥居
貴船神社/本社・参道
同・参道
貴船神社/本社・神門
同・神門
貴船神社/本社・拝殿
同・拝殿
貴船神社/本社・拝殿(資料転写)
同・拝殿(要誌から転写)
貴船神社/本社・本殿
同・本殿

【奥宮】
 本社の北約500m。二股に別れた左(西)側道路入口に立つの朱塗りの鳥居をくぐり、思い川に架かる朱塗りの橋(思い川橋)を渡り、杉並木の参道を進んだ先の朱塗りの神門(棟門・銅板葺)から境内に入る。
 広い境内の北奥に拝殿(入母屋造・銅板葺、舞殿兼用)が、その奥、拝所の両側に伸びる透塀に囲まれた神域内に本殿(流造・檜皮葺)が南面して鎮座する。

 現在の本殿は文久3年(1863)造営の建物で、その後幾度となく修理を重ね、昭和52年(1977)に大修理がおこなわれたという。

貴船神社/奥宮・鳥居
貴船神社/奥宮・鳥居
貴船神社/奥宮・参道
同・参道
貴船神社/奥宮・神門
同・神門
貴船神社/奥宮・拝殿
同・拝殿

貴船神社/奥宮・本殿
同・本殿

【結社】(ユイノヤシロ)
 本社の北約300m辺り、道路に沿った西側山腹の小高い処に鎮座する末社で、朱塗りの鳥居の奥に拝所・社殿が並ぶ。
 結社はムスビノヤシロとも読めることから、境内にある和泉式部の歌碑(後述)とともに、縁結びの神として参詣する若人・特に女性が多いという。
 本社と奥宮の中程にあることから“中宮”ともいう。
  祭神--磐長姫(イワナガヒメ)

 祭神・イワナガヒメとは、オオヤマツミの娘で、日向・笠沙(カササ)の御前(ミサキ)で皇孫・ホノニニギが美人・コノハナサクヤヒメに求婚したとき、ヒメの父はその姉・イワナガヒメを共に差し出したが、イワナガヒメがあまりに醜かったので、ニニギは畏れて帰してしまう。
 オオヤマツミがイワナガヒメを差し出したのは、ニニギの寿命が石のように恒久であることを念じてのことだが、ニニギがこれを断ったことで天皇の寿命は短くなったと(古事記)、また姫は帰されたことを恥じ恨んで、ニニギの子孫は木の花のように移ろい衰えるだろうと呪詛したために、人間の寿命が短くなったという(書紀)

 これは“バナナ型”とよばれる“死の起源神話”の一つで、バナナ型とは、昔、人々が神が贈り物(食物)として下した石を嫌って受けとらずに代わりを要求し、次ぎに降りてきたバナナを喜んで食べたため、人の寿命が石のように永久ではなく、バナナのように短くなったというもの。

 後世になると、逆にイワナガヒメを祀ることで長寿を得られるとの俗信が生まれ、当地にあっては、帰されたことを恥じたイワナガヒメが「我長くここにありて、縁結びの神として、世のため人のため良縁を得させん」と誓って、この地に鎮まられた、との伝承があり、当社のイワナガヒメは縁結びの神として広く知られるという。

貴船神社・末社/結社・参道
末社/結社・参道
貴船神社・末社/結社・鳥居および拝所
同・鳥居および拝所
貴船神社・末社/結社・社殿
同・社殿

※末社
 上記・結社以外に次の末社があるが、その鎮座由緒・年代・社名の由来などは不明。
◎楫取社(カジトリ)
 貴船川と鞍馬川が合流する貴船口に鎮座する(貴船口駅の東側・府道38号線と361号線の分岐点付近)
  祭神--宇賀魂命(ウカノミタマ・穀神)
   異説--梶取大神(カジトリ)
      タマヨリヒメが乗ってきた黄船の舵を操った神。社名・伝承からみて、こちらが本来の神だろう
◎本社周辺の末社
 ・白髭社-猿田彦命(サルタヒコ)
   本社大鳥居の脇に鎮座する小祠(貴布祢社神域へ侵入しようとする邪神・悪霊を遮る塞の神、貴布祢道の安全を守る道祖神としての鎮座が前身であろう)
 ・祖霊社-社人・氏子
   本社本殿下の石垣裾部に鎮座する
 ・牛一社-木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)
 ・川尾社-罔象女命(ミズハノメ)
 ・鈴鹿社-大比古命(オオヒコ)
   本社境内の北側出口(神門)の西側高所に鎮座する
◎奥宮境内の末社
 ・日吉社-大物主命(オオモノヌシ)
 ・吸葛社-味鉏高彦根命(アジスキタカヒコネ)
 ・鈴市社-五十鈴姫命(イスズヒメ)
◎結社周辺の末社
 ・私市社-大国主命(オオクニヌシ)
 ・林田社-少名彦命(スクナヒコナ)  2社合祀殿
◎府道361号線沿い
 ・白石社-下照姫(シタテルヒメ)--貴船川の対岸(東側)疎林の中に鎮座
 ・梅宮社-木花開耶姫命--道の途中・梅宮橋(朱塗)近く、道路東側の高所に鎮座

貴船神社/末社・白髭社
白髭社
貴船神社/末社・祖霊社
祖霊社
貴船神社/末社・牛一社
牛一社
貴船神社/末社・川尾社
川尾社
貴船神社/末社・鈴鹿社
鈴鹿社
貴船神社/末社・日吉社
日吉社
貴船神社/末社・吸葛社
吸葛社
黄船神社/末社・鈴市社
鈴市社
黄船神社/末社・私市社・林田社合祀殿
私市社・林田社合祀殿
黄船神社/末社・白石社
白石社
黄船神社/末社・梅宮社
梅宮社

※貴船神社にかかわる説話
 当社にかかわる説話のうち、著名なものとして次の2説話がある。

◎和泉式部
 結宮の境内地(社殿北側)の疎林に中に、和泉式部の歌
  物思へば 澤のほたるも 我身より あくがれ出る玉かとぞみる
を刻した歌碑が立っている。

 この歌について、古今著聞集(1254頃・鎌倉時代の説話集)には
 「和泉式部が、夫・藤原保昌との仲が疎遠となったことを悩んで貴布祢社に参詣した時、 貴船川の川面一面に蛍が飛び交うのをみて、
  物思へば 澤のほたる(蛍)も 我身より あくがれ出る玉(魂)かとぞみる
   (あれこれと思い悩みながら川面一面に飛び交う蛍をみると、私の魂が身体を抜け出して飛んでいるようにみえる)
との歌を詠んだら、社の中から忍びやかな声で
  おく山に たぎりておつる瀧つ瀬の 玉ちるばかり ものな思ひそ
   (飛沫を上げて飛び散る奧山の瀧の水玉のように、魂が抜け出して飛び散るなど、そんなに深く思い込まないように)
との歌(神からの返歌)が聞こえた」(意訳)
とあり、この貴布祢参籠の結果、夫の仲が元に戻ったと伝えている。 
貴船神社/和泉式部の歌碑
和泉式部歌碑

 この説話は綺麗事に終わっているが、すこし後に出た沙石集(1283)には、
 「和泉式部が保昌から疎遠にされたので、愛を取り戻すべく貴布祢の巫女に敬愛の呪法を行させた。老いた巫女が赤い御幣を立てめぐらし行を修した後、鼓を打ち、着物の前をめくりあげて陰部を三度叩きながら、「そなたも、このようにせよ」と云った。
 それを見た式部は顔を赤らめ、しばらく思案したのち
   ちはやふる神の見る目も恥ずかしや 身を思うとて 身をやつすべき
との歌を詠んで、老巫女の言を拒絶した。
 神社の木陰に潜んでこれを見ていた夫・藤原保昌は、式部のいじらしい姿に感じ入り、姿を現して式部を伴って家に帰り、その後は夫婦圓満に暮らした。
 もし式部が、自分の品格を下げて老巫女の言に従っていたら、夫と復縁したいという願いも遂げられなかったであろう」(意訳)
とあり、面白く脚色されている。

 ここでの貴船神は、男女の仲をとりもつ神として登場している。その意味では、今、縁結びの神として知られる結社境内に式部の歌碑があるのは当を得たことといえる。
 “物思へば云々”の歌は後拾遺和歌集に収録されているから、式部が貴船で詠ったことは確かだろうが、沙石集にいう話は創作だろう。

 和泉式部(976頃--没年不詳)とは、平安中期の著名な女流歌人(勅撰和歌集には総数・246首の和歌が収められている)だが、恋多き女性として、結婚した橘通貞・藤原保昌をはじめ為尊親王・敦道親王など多くの男性との恋愛遍歴は、藤原道長から「浮かれ女」と、紫式部からは「恋文や和歌は素晴らしいが、素行は感心できない」と評されるなど評判は良くなかったらしい。
 上記・復縁祈願の相手・藤原保昌とは30歳を超えてからの再婚だが、結局は離婚したともいう。

◎宇治の橋姫
 奥宮境内の東側に“貴船と鉄輪(カナワ)伝説”との説明板が立っている。そこには
 「当社は古来より水の神として崇敬され、・・・心願成就信仰としての“丑の刻詣”(ウシノコクモウデ)で知られている。
 むかし宇治の橋姫が丑の刻(午前2時)詣でをして男に呪いをかけた伝説があり、これをもとにつくられたのが謡曲・鉄輪で、・・・」
とある。

 橋姫伝承とは、源平盛衰記(剣の巻)に収められている物語、
 「嵯峨天皇の御代(809--25)、嫉妬にとらわれた公卿の娘が、貴船神社に7日間籠もり、『妬ましい女を取り殺したいので、私を生きながら鬼神に変えてくれ』と祈った。貴船神は哀れに思って、『鬼になりたければ、姿を替えて宇治川に21日間浸れ』と告げた。
 都に帰った女は、髪を五つにわけて5本の角にし、顔に朱をさし身体には丹を塗り、逆さに被った鉄輪(五徳)の3本の足に燃える松明を結びつけ、両端に火を付けた松明を口のくわえ、真夜中のころに宇治川まで走って21日間浸り、終に生きながら鬼女となった。これが宇治の橋姫である。
 鬼女となった橋姫は、妬んでいた女・その縁者・相手の男の親類を取り殺し、終いには誰彼なく次々と殺していったので、京中の人々は丑の刻以降になると外出せず、訪れた人も家に入れなくなった」(大略)
というもので、この後に、渡辺の綱が一条戻橋で橋姫と出会い、その腕を切り取ったという話が続く。

 この話しを元にして作られたのが能・鉄輪(カナワ)で、
 「後妻に夫をとられて嫉妬に駆られた女性が、貴船明神に丑の刻詣りを重ねて鬼女となり、後妻と夫を取り殺そうとするが、それに気づいた陰陽師・安倍清明の調伏祈祷に敗れ、『また会うときもあるだろう』との言葉を残して姿を消す」
というのが粗筋。(橋姫の全体像については、別稿・橋姫神社参照)

 なお説明板には、「橋姫が頭にのせた鉄輪を置いた鉄輪掛石が、貴船口駅の傍らにある」とある。謡曲にいう丑の刻詣りに橋姫が頭にかぶった鉄輪を置いた岩とされるが、社務所の言では、今は行方不明という。

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