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小 督 塚
京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場 3-47
                                                       2020.12.08訪問

 嵐山・渡月橋北詰から川沿いの道を西へ、最初の角を右(北)へ入ってすぐの左側(西側)、竹矢来と植え込みに囲まれた五角形の玉垣の中に五輪塔一基が鎮座する。
 塚の北隣に福田美術館があり、角の植え込みの中に美術館への案内表示がある。

 高倉天皇(80代・在位:1168--80、平清盛全盛時代の天皇)の寵愛を受けたという小督局(コゴウノツボネ)の旧跡とされる処で、
 当地に立つ案内には
 『謡曲「小督」の旧跡』
 「小督局は、桜町中納言・藤原成範の娘で、宮中で美人の誉れ高く、高倉天皇の寵愛を一身に集めていた。
 しかし、平清盛の娘・徳子(建礼門院)が中宮であったため、平家の圧迫をおそれて、この地・嵯峨野に身を隠した。
 その時の仮住居が、この「小督塚」辺りであったといわれている。

 謡曲・小督は、天皇の命により、小督を探しに当地を訪れた弾正大弼・源仲国が、秋霧の間に微かに聴える琴の調べを便りに、遂に局の居所を探し得たという物語である。

 今でも、渡月橋の北詰にある石橋は、琴聴橋とも駒留橋とも呼ばれ、仲国が想夫恋(ソウフレン)の曲を聴いたところと伝えられている。京都謡曲史跡保存会
とある。


小督塚・全景 
 
小督塚(正面)

小督塚(側面) 

 平家物語(巻6)・小督の段には
 源仲国が、帝の仰せによって小督の仮屋を尋ねてまわるさまを、
 「嵯峨のあたりの秋の比(コロ) さこそはあはれにもおぼえけめ 片折戸したる屋を見つけては 此内にやおはすらんと聞きけれども 琴ひく所なかりける・・・(中略)
 何処(イズコ)尋ねんとおもふほどに 亀山のあたり(天龍寺辺りとされる)近く 松の一叢(ムラ)ある方に かすかに琴をぞきこえける
 峯の嵐か松風か 尋ぬる人の琴の音か おぼつかなくはおもへども 駒を早めて行くほどに 片折戸したる内に 琴をぞ弾きすまされたる 
 控えて是をききければ 少しも紛ふべきもなき小督殿の爪音なり 楽は何ぞとききければ 夫をおもふて恋ふとよむ想夫恋といふ楽なり
 ・さればこそ 君の御事おもひ出しまいらせて この楽を弾き給ひけるやさしさよ ありがたふおぼえて 腰より横笛抜き出して ちっと鳴らして 門をほとほととたたけば やがて弾きやみ給ひぬ(以下略)
と語っている(要点抄記)

 その後の小督は、帝のお側に連れ戻され、やがて姫君を生むが、それをみた清盛は、わが娘・中宮(後の建礼門院)より先に子を産むとは何ごとかと怒り、小督を無理矢理に出家させて宮中より追放したという。

 ただ、平家物語は平清盛を悪者にしたてた記述が多く、この小督説話も実話かどうかは疑問という。

 なお、都林泉名勝図会(1799)には、満月の夜 枝折戸のある仮屋の中で琴を弾じる女性(小督局)と、遠く馬に乗って近づいてくる仲国を描いた絵図があり(右絵図)

 上部の詞書きには
 「小督局は桜町中納言の女にして 宮中第一の美女也。
 平相国清盛に襲れ 嵯峨野に隠れ 愁にしずみ 琴の音色も微かに曇りながら 想夫恋の曲を弾じ給ふ。
 
 官人仲国は 帝の仰せを承て 月の清きに 局の樓を横笛を奏で尋出けるは 師曠(シコウ)が琴を鼓して神明に通じ 白鵠の翔るにも比せんや」 
とある。
 (末尾にいう師曠とは、中国春秋時代 晋の平公に仕えた楽人で琴の名手で、琴を弾じると南から鶴が集まってきた、風曲を弾けば風が吹き荒れ、雨曲を弾けば雨が降ったとの伝承があり-Wikipedea 、これに因ったものであろう)

 この小督説話に関係する遺構として
 渡月橋北詰の東に「琴きき橋跡」との石柱があり(未見)、北詰を西へ入った車折神社嵐山頓宮前に「琴聴橋」との小さな石橋が架かっている(川はなくモニュメント的な小橋)

 小督の仮屋を訪ねる仲国が、現渡月橋北詰めの辺りで、現天龍寺の辺り(北約100mほど)から洩れてくる微かな琴の音を聞いたというが、今と異なり人家が稀で静かだった平安の頃には聞こえたのかもしれない。


車折神社嵐山頓宮・正面 
 
琴聴橋・全景

琴聴橋・親柱 

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