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山城(宇治郡)の式内社/許波多神社
A:京都府宇治市五ヶ庄古川
祭神−−正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊・天津日子火瓊瓊杵尊・神日本磐余彦尊(神武天皇)
B:京都府宇治市木幡東中
祭神−−正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊・天照大御神・天津日子命
            
                                         2012.05.16参詣

 延喜式神名帳に、『山城国宇治郡 許波多神社三座 名神大 月次新嘗』とある式内社だが、上記のように、宇治市五ヶ荘(A)と同木幡(B)にある2社が論社となっている(以下・A:五ヶ庄の神社を許波多社とB:木幡のそれを木幡社と記す)。社名は、いずれもコハタと読む。

 許波多神社−−京阪宇治線・黄檗駅(JR奈良線・黄檗駅)の西北西約900m、駅の北を東西に走る府道245号線を西へ約600mほど行った北側に一の鳥居が立つ。
 木幡神社−−京阪宇治線・木幡駅の東約250m、駅南の道路を東へ、京都中央信託銀行の角を左折、北へ進んだ右側(東側)に一の鳥居が立つ。許波多社の北北東約1.2kmにあたる。

※由緒
 当社に関する古資料として、釈日本紀(鎌倉末頃に成立した日本書紀の註釈書)が引用する山城国風土記・逸文(716)に、
 「宇治の郡木幡の社(祇っ社) 名は天忍穂長根命である」(異名同神の天忍穂根命とする史料あり)
とあるのが唯一だが、神階授叙記録としては、三代実録(901)・貞観元年(859・平安前期)正月27日条に
 「従五位下・・・許波多神・・・並びに従五位上に叙す」
とあり、8世紀初頭に実在していたのは確実。
 なお、許波多社由緒には、「永禄12年(1569・室町後期)正一位宣叙」とあるが、出典史料不明。

 両社ともに式内・許波多神社と称しているが、その創建由緒(両社配付資料)として、
 ・許波多社
  「孝徳天皇・大化元年(645)、右大臣蘇我倉山田石川麻呂の奏上を聞食(キコシメ)され、皇祖の御神霊を奉祀するため、中臣(藤原)鎌足に詔して、山背国兎道郡(ウジノコホリ)許畑(コハタ)・柳山に神殿を造営し、祭祀を掌らしられめた。
 当神社は、創建当時、許波多神社あるいは木幡神社と号していたが、柳山に鎮座の故に、後に蝟セ神と通称され、、明治9年、許波多神社と復称」

 ・木幡社
  「皇極天皇は夢の中で、『吾、天神故に下土に神陵なし、吾が霊を祭祀し給へ』との大神のお告げに恐懼され、藤原鎌足公に詔して木幡荘に神殿を造営し、大化元年9月16日(西暦645)奉遷し、式内・木幡神社(許波多神社)と尊称さる」
とあり、
 大化元年、藤原鎌足に詔して創建したというのは同じだが、細部には異同がある。

 大化(645--50)の年号は、皇極4年6月、孝徳天皇即位(大化改新により即位)に際して定められた年号であり(年号の始まり)、当社創建が木幡社由緒にいう9月16日であれば、孝徳天皇の御代(645--54)というのが正しい。ただ、大化元年創建を証する史料はない。

 許波多社由緒によれば、式内・許波多神社は宇治郡木幡の五ヶ庄柳山にあったとあり、諸資料ともに旧社地は柳山という。
 旧社地・柳山の所在地は不詳だが、黄檗山万福寺の東南方(大駐車場の南)に隣接する黄檗公園(宇治市五ケ庄三番割・許波多社の東南東約1.5km)附近にあったようで、公園で出合った方の話では、数年前、許波多社の宮司さんは「黄檗公園・隣の京大グランドを含む広い範囲(由緒には、神領地・“東西六町・南北八町”とある、一町=約109m)が当社の境内だった」と話されていたという。

 許波多社の現在地への遷座理由・時期はついて、許波多社由緒に
 「明治8年(1875)、陸軍火薬庫建設につき社地全域の無償上地仰せつけられ、同9年、何らの補償もなく、御旅所だった現在地に移転、同時に神社名を柳神社から許波多神社と復称した」(大意)
とあり、明治初年まで柳山にあったという。

 今、黄檗公園の西側道路端に、旧火薬庫の防御土塁の一部と火薬庫(建物)へ入るトンネルの入口が残されている。
 傍らの説明板に載る写真(航空写真・撮影時期不明)によれば、樹木に囲まれた広い範囲に火薬庫らしき白い建物が点在している(赤い矢印・赤丸−トンネル入口跡)
 上記の遷座理由及び50ha弱という社域からみて、写真に写っている全域が式内・許波多神社の社地であったと思われる。
宇治火薬庫・入口のトンネル跡
火薬庫入口のトンネル跡
宇治火薬庫全景写真
当時の写真(白い建物が火薬庫か)

 一方の木幡社由緒は“木幡荘に神殿を造営し奉遷”とあるが、宇治市史(1973)によれば、
 「古文献にみる木幡の領域は、現代の宇治市木幡よりも広い地域を指しており、伏見深草から宇治市五ヶ庄におよぶ」
とあり、許波多社鎮座の五ヶ庄・木幡社鎮座の木幡ともに木幡荘内で属し、木幡社由緒からその創建時の場所は特定出来ない。

 しかし諸資料によれば、当社もまた五ヶ庄柳山からの遷座(社伝に応保年間-1161--63・平安後期-遷座とあるという)といわれ、木幡社由緒にも
 「大海人皇子(後の天武天皇)が近江京から吉野へと逃避する途中、当神社前で乗馬が進まなくなったので、鞭とされていた柳枝を瑞垣の傍らの土中に挿しこみ神明の加護を祈ったところ、馬が進み出し無事に吉野に着かれた」(大意)
と“柳”との関連を記しており、木幡社もまた五ヶ庄柳山にあったことを匂わせている。

 木幡社の遷座時期については、応保年間(1161--63・平安後期)とするのが通説だが、
 「現社地の南東方700〜800mの地(宇治郡五条七条上提田外里17・18坪)に“社”が所在」(山城国宇治郡司解・847・平安初期)
との資料もあり、ここでいう“社”が当社の前身であれば、平安初期には木幡東部の丘陵端に鎮座していたことになるという(日本の神々5・2000)
 この五条七条云々の比定地として、現在地の東南約700−800m木幡南山の南西部付近(南山畑附近か)ともいわれるが確証はない。ただ御堂関白記(1021)の長保6年(1004)2月条の、藤原道長が木幡三昧堂(淨妙寺)の立地を定めた時の記録に、
 「山辺に至り、鳥居より北方河に出、其北方に平地あり」
とあり、この鳥居が上記の“社”即ち旧木幡社の鳥居ではないかと推測されている。
 なお、道長創建の木幡三昧堂跡は現堂の川北岸の木幡小学校ともいわれ(発掘により堂舎跡とおぼしきものが出土したという)、上記・社が木幡南山の西方・現南山畑付近にあったすれば、御堂関白記の記述と地形的には一致し、木幡社は柳山から南山近傍に移り、そこから現在地に遷ったのかもしれない。

 これらの史料から、宇治市史は
 「柳明神(柳大明神)と称された許波多神社は、もと柳山の旧地に三座が祀られていた。その後、宇治郡司解に記される場所を経て、木幡村の許波多神社として一座が分祀され、もとの旧社地にあった許波多神社は、そのまま残っていたものと推定できる。
 五ヶ庄許波多神社が旧社地から現鎮座地へ移ったのは、旧社地が明治8年陸軍省火薬庫建設のために上地となったためで、同9年10月御旅所であったところ(現在地)への遷座を余儀なくされたものであった」
という。

※祭神
  今の祭神は、上記のように
 ・許波多社−−正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサヤアカツカツハヤヒ アメノオシホミミ)・天津日子彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコ ホノニニギ)
           神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコ・神武天皇)
 ・木幡社−−正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊・天照大御神(アマテラスオオミカミ)・天津日子根命(アマツヒコネ)
と、両社ともに3座を祀るが、主祭神・アメノオシホミミは同じものの他の2座は異なっている。

 これらの神神々は全て記紀皇統譜において
  アマテラス−−アメノオシホミミ−−○−−○−−カムヤマトイワレヒコ
と連なる神で、“高天原系天つ神”即ち皇統譜の主流であり(アマツヒコネはアメノオシホミミの弟神)、由緒がいう“皇祖の御神霊を祀ったという由緒と一致する。

 なお、許波多社由緒によれば、アメノオシホミミを奉祀する式内大社は当社のみで、釈日本紀には
 「許波多神社に坐す神は、宗廟の神として他と異にして尊崇すべし」
とあるという。

 式内・許波多神社の後継社に論社2社あることにかかわって、
  「(祭神三座のうち)二座今の木幡村に在り、一座五ヶ庄大和田村に在り、通して柳大明神という」(大日本史神祇志−1873・明治初期)
との資料があり(江戸中期の古書・山城志-1734-も同じという)、江戸期から明治初期にかけて二座・一座に分祀されていると認識されており、これを以て、明治10年(1877)6月、京都府は許波多・木幡の2社を共に式内社と裁定したという。
(これに対して、明治40年-1907-許波多社社司から、「延喜式に何座というのは、同一社に祀られている複数の祭神を指し、これを数社に分祀したのを包括して、何神社何座という例はない」との異議申し立てがあったが、無視されたという)
 ただ、柳山にあった式内・許波多神社が、祭神を一座・二座に別けて分祀された理由は不詳。

 なお木幡社祭神のうち、アマテラスとアマツヒコネは合祀されている田中神社の祭神といわれ(日本の神々5)、とすれば、同社祭神はアメノオシホミミのみとなり、古資料にいう木幡社祭神二座とは整合しない。
 また、田中神社の合祀由緒・時期など不明。田中を称する神社は各地にあるが、例えば、伏見稲荷大社に合祀されている田中大神が農耕にかかわる神と推察されるなど、祭神は一定しない。

 また、式内・許波多神社本来の祭神についても、
 ・現許波多社と同じ
 ・アメノオシホミミ・アマツヒコネ・天穂日尊(アメノホヒ−アメノオシホミミの弟神)−−大日本史が引用する社伝
 ・アメノオシホミミ・ホノニニギ・栲幡千々姫命(タクハタチヂヒメ−アメノオシホミミの后)−−元要記
などがあり(宇治市史)、また、
 ・山城国風土記・逸文−−名は天忍穂長根命(アメノオシホミミの別名)
とことからみて、当社祭神については、古来、諸説があったことが知られ、風土記・逸文を引用する釈日本紀に
  「先師申し云う、本縁昔より存知の人無き如し」
とあるように、鎌倉時代には正確な所伝が失われていたとみなければなるまい、という(式内社調査報告・1979)

 今の当社には、皇統譜の主流となる天つ神(アマツカミ)を祀っているが、風土記逸文には“祇っ神”(クニツカミ)との注記があり、平仄があわない。
 この疑問について、宇治市史は、
 「木幡の名義を“許の国”(コノクニ・宇治の古名)の端つまり“許端”(コハタ)とすれば、許の国(宇治郡)の木幡地方の土着神として、とりわけ農耕の守護神として尊崇されるにいたった神といえよう」
と、古くは、水神・農耕神といった素朴な神々が祀られていたのではないかと推測している。
 アメノオシホミミは国っ神の中心に位置する神だが、“忍”(オシ)が“神妙なる威力のあること”、“穂”が“稲穂であること”から農耕神的神格をもつともいえ、そこから、古代の自然神である農耕神にアメノオシホミミの名を付会し、延喜式に三座とあることから、アメノオシホミミに連なる神々の名を加えたのかもしれない。

※社殿等
◎許波多社
 道路脇に立つ一の鳥居をくぐり、樹木にはさまれた参道を入った先に二の鳥居(木造)が立つ。
 やや狭めの境内奥に拝殿(入母屋造割拝殿・瓦葺)が、その奥、朱塗りの拝所(切妻造・銅板葺)と木柵で区切られた神域内に大きな本殿(三間社流造・檜皮葺)が鎮座する。
 神域正面ががっちり固められているため、本殿の全体が見えず詳細は不明だが、正面は祭神一座毎に別れていると見える。式内社調査報告がいう“永禄5年(1532)の造営”であれば、柳山の旧社殿を移築したものとなる。国の重要文化財。

許波多社/一の鳥居
許波多社・一の鳥居
許波多社/二の鳥居
同・二の鳥居
許波多社/拝殿
同・拝殿
許波多社/拝所
同・拝所
許波多社/本殿大屋根
同・本殿大屋根
許波多社/本殿(東端部)
同・本殿(東端部)

・末社
 本殿の左右に末社(小祠)数祠があるが、遠目では祠数・社名不明。

許波多社/末社(本殿左)
同・末社(本殿左)
許波多社/末社(本殿右)
同・末社(本殿右)

◎木幡社
 道路脇の一の鳥居から民家に挟まれた参道を進んだ先に二の鳥居が立ち境内に入る。
 境内中央に切石を敷きつめた拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥、拝所から左右に伸びる透塀のなかに2棟の本殿が、いずれも西面して鎮座する。
 本殿は、いずれも一間社流造(銅板葺)で、右側のそれがやや大きい。内陣は、両側に本殿2棟が並び、その間が樋で連なり、その下は緞帳を吊した拝所となっている。

 拝所の左右に石燈籠があり、右側のそれには“木幡神社”と、左のそれには“田中神社”と刻してある。
 この銘刻からみると、右の本殿が木幡社本殿で、左のそれは合祀されている田中神社とみられるが、不詳。

木幡社/一の鳥居
木幡神社・一の鳥居
木幡社/二の鳥居
同・二の鳥居
木幡社/拝殿
同・拝殿
木幡社/拝所
同・拝所
木幡社/本殿(左側)
同・本殿(左側)
木幡社/本殿(右側)
同・本殿(右側)

◎末社
 境内左手(北側)に末社・4祠が南面して並ぶ。いずれも一間社流造で瓦葺。
 右から
  ・合祀殿−−市杵島姫社・稲荷社・愛宕社
  ・八幡社
  ・天照皇大神宮
  ・春日社
 いずれも、勧請由緒・時期など不明。
木幡社/末社
同・末社(左から春日・天照・八幡・合祀殿)

※宇治陵
 木幡社二の鳥居前(西側)に“宇治陵”(ウジノミササギ)と称する墓所がある。

 コンクリート柱を立て並べた瑞垣の中が少し盛りあがり、数本の樹木が繁茂するだけだが、北側参道脇の入口に「宇治陵 宮内庁」との石標が立ち、宮内庁管理であることを示している。石標・瑞垣がなければ墓所とは見えない。

 宇治陵とは、宇治市木幡から黄檗にかけて点在する小さな墓所で、藤原氏出身の皇室関係者17陵3墓を中心に、藤原氏・特に北家出身者の墓を加えた37墓所を指すというが(明治10年宮内庁が調査し定めたという)、まとまった資料なく実態不明。
 当宇治陵もそのひとつだが、被葬者名は不明。
宇治陵
宇治陵

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