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山城(乙訓郡)の式内社/久何神社
久我神社
京都市伏見区久我森の宮町
祭神−−別雷神・建角身命・玉依比売命
                                                        2011.09.19参詣

 延喜式神名帳に、『山城国乙訓郡 久何神社』とある式内社。社名・久何は“クカ”又は“コガ”と訓む。
 延喜式には“久何”とあるが、今、当社では“久我”と表記し、“コガ”と訓んでいる。

 阪急京都線・西向日駅の東約2.5km、住宅密集地の中に鎮座する。当社の南東約500mに式内・神川神社がある。

※由緒
 社頭に掲げる由緒によれば、
 「当社は8世紀末、平安遷都に先立ち、桓武天皇が長岡に遷都された頃(784・延歴3年)、王城の艮角(ウシトラノスミ・北東−鬼門の方角)の守護神として御鎮座になったものと伝えられる由緒深い延喜式内社である」(秘伝神書抄-年代不詳-によるものらしいが確認不能)
とある。

 しかし、ネット資料等を参照すれば、異説として
 @北山城一帯に盤踞していた久我氏が、その祖神・輿我萬代継神(コガ ヨロヅヨツグノカミ)を祀ったのが当社の創祀で、久我氏衰頽後、賀茂氏がこれに代わってその始祖を祀ったのではないか。
 A山城国風土記にいう賀茂氏が、大和から木津川を経て、この久我国(葛野・乙訓地方の古称)に居をすえ祖神を祀ったのが当社で、更に賀茂川を北上して今の賀茂の地に鎮まった。
がある。

 @にいう輿我萬代継神とは、三代実録(901)
 ・貞観8年(866)8月14日丙戌山城国正六位上輿我萬代継神に従五位下を授く
 ・貞観16年(874)潤4月7日乙丑山城国従五位下輿我万代継神に従五位上を授く
とあり、山城国に坐したことは確認できるが、その出自・神格など不明。また、それを当社祭神とする確証もない(式内社調査報告・1982は、“輿我萬代継神は、或いは当社のことかもわからない”と疑問符を付けている)
 また、この神を氏神とするという久我氏も、新撰姓氏禄にその名が見えない。
 ただ、先代旧事本紀(天神本紀)によれば、ニギハヤヒの降臨に供奉して天降った神々の中に
 「天神立命(アメノカムタチ)−−山代久我直等の祖 或云、天背男命
 「天世平命(アメノヨムケ)−−久我直等の祖」
の2神あり、久我氏が、この後裔とすれば物部氏系の氏族となる。
 この両氏に何れが当地の久我氏に連なるのかは不明だが、当社末社に神立命を祀る“歯神社”があることからみると前者かもしれない。とすれば天神立命を祀るのが順当と思われ、異説@にいう祖神・輿我萬代継神とは平仄があわない。

 久我氏が盤踞したとされる久我国は、山城国風土記にみえるだけで他の資料では確認できない。古い地名で、鴨川上流の上賀茂・西賀茂付近とするのが通説で、愛宕郡・乙訓郡の広い範囲にわたっていて当地付近も含まれたともいうが(ネット資料)、真偽不明。

 ただ、平安時代、当地付近には村上源氏の祖・師房(臣籍降下した村上天皇第7子・具平親王)の荘園・久我荘があり、その孫・源雅実(太政大臣)が当地に別荘・“久我の水閣”を営んだことから(1020頃)、その子孫は久我氏と呼ばれたともいう。
 とすれば、当地に久我との地名があったことは確かのようだが、それは平安時代のことであり、曾ての久我国に連なるかどうかははっきりしない。

 Aにいう山城国風土記(逸文)には、賀茂氏の移動経過地について、概略、
 「賀茂氏は、その本貫地・大和の葛城から南山城の岡田(現木津川市付近)に入り、次いで桂川(旧名:葛野川)と鴨川の合流点付近(当地付近)を経て、鴨川を溯って久我国の北の山基(現上賀茂社付近)に定着した」
とあり、通説では、その途上、経過地(拠点)となった地に社を建てて祖神を祀ったという。

 異説Aは、その経過地・桂川鴨川合流点付近に建てたのが当社であるというもので、同じ経過地である南山城の岡田の地に岡田鴨神社(木津川市加茂町北)があることから、当地にもあった蓋然性は高いが確証はない。
 また、賀茂氏の山城進出は雄略朝から清寧朝の頃(5世紀後半)とされ、とすれば、当社の創建は長岡京遷都(8世紀後半)を大きく溯ることとなり、既にあった賀茂氏系の当社に長岡京の守護神の役割を加上したとも解される。

 なお、上賀茂神社には“久我神社”(クガ、北区紫竹下竹殿町、式内社・祭神:賀茂建角身命)との境外摂社がある(別稿「上賀茂神社/摂社」参照)
 風土記にいう“久我国の北の山基”に祀られたとされる社で、上賀茂神社が皇室の崇拝をうけ、その祭祀も官弊によることとなったため、別社を設けて一族の私的な祭祀をおこなったのではないか、ともいう。
 しかし、“古く乙訓郡にあり、桓武天皇の京都遷都時に下賀茂の地に遷した”とする説もあり(鳥邑県纂書)、とすれば、乙訓の久何神社(当社)は上賀茂の久我神社の元宮なるが、確認はできない。


※祭神
 社頭の由緒には、
 「別雷神(ワケイカヅチ)・建角身命(タケツヌミ)・玉依姫命(タマヨリヒメ)の三柱を祭神とし、賀茂両社と同体であり、古来、鴨森大明神とも称し、・・・」
とある。
 いずれも古代の豪族・賀茂氏が祖神と仰ぐ神々で、ワケイカヅチは現上賀茂神社の、タケツヌミ・タマヨリヒメは現下鴨神社に祀られており、系譜的には
  タケツヌミ(祖父)−−タマヨリヒメ(母)−−ワケイカヅチ(御子)
となる。

 長岡京の鬼門・艮方の守護神である当社に、賀茂の神々を祀る由縁は不詳だが、曾ての賀茂神社が伊勢神宮に次ぐ地位を占め、伊勢の神が皇室の祖先神であるのに対して、賀茂の神が皇室の守護神とされていたからとも考えられる。。

※社殿等
 南側参道入口に立つ朱塗りの鳥居(神額には久我神社とある)参道を進み、小川(大井手川)に架かる小橋(森乃そり橋)を渡って境内に入る。
 境内正面に入母屋造の割拝殿があり、その奥に一間社流造の本殿が鎮座する。

久何神社/鳥居
久何神社・鳥居
久何神社/拝殿
同・拝殿
久何神社/本殿
同・本殿

◎末社
 社殿の左右、簡単な覆屋のなかに末社5社(小祠)が鎮座する。
 ・社殿左−−春日神社・稲荷神社
 ・社殿右−−八幡宮・天満宮・清正社(加藤清正・勧請由緒不明)

 また、境内に入ったすぐ左手(西)、小さな基壇の上に小祠一社がある。
 社名などの表示はないが、式内社調査報告にいう“歯神社”(天神立命)であろう。祭神・天神立命とは上述のように物部氏の祖神・ニギハヤヒに扈従して天降った神々のなかの一柱で、山代久我直の祖神というが、詳細不明。
 当社が異説@にいうように、久我氏(山代久我直か)がその祖神を祀ったものとすれば、この神が本来の祭神で、賀茂系の神を祭神としたために脇に追いやられたとも解される。

久何神社/末社−1
久何神社・末社群−1
久何神社/末社−2
同・末社群−2

同・末社(歯神社か)

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