トップページへ戻る

山城(綴喜郡)の式内社/咋岡神社
付−−咋岡神社(草内)
京都府京田辺市飯岡東原
祭神−−宇賀乃御魂神・菅原道真
                                                           2012.01.18参詣

 延喜式神名帳に、『山城国綴喜郡 咋岡神社 鍬靫』とある式内社。社名は“クイオカ(クヒオカ)”と訓む。
 ただ京田辺市内には、当社の他にも“咋岡神社”と称する神社があり(草内宮ノ後・下記)、資料上では、両社間で混乱がある。

 JR学研都市線(片町線)・JR三山木駅(近鉄京都線・三山木駅)の北東約1.5km、駅北側を東西に走る府道65号線を東進、木津川に架かる玉水橋の西詰めの堤防道路を左折・北上、道なりに進んで飯岡集落に入り、二股になった分岐点を右に進んだ小道の左側(西側)高台(飯岡山・H=67mの山麓)に残る鎮守の森の一画に鎮座する。分岐点から前方に鎮守の森が見える。

※由緒
 社頭に掲げる案内(京田辺市教育委員会)には、
 「宇賀乃御魂神(ウガノミタマ)と菅原道真をまつり、天神あるいは天神宮と呼ばれていたが、明治8年(1875)、式内社・咋岡神社として認定された。
 木津川の氾濫により、江戸中期の元禄8年(1695)に現在地に移され、その際に菅原道真が新に祭神に加えられ整備されたことが、文書と石燈籠銘文から判明する。
 元の位置は、飯岡の北端で木津川と普賢寺川の合流点の箇所であったと口伝されている」
とあるが、当社の創建由緒・年代についての記述はない。

 当地は、東側を迂回しながら北流する木津川と西側山間部にはさまれた狭隘な平野部(曾ての氾濫域か)で、当社は、旧社地を含めて、その東側・木津川近くに位置する。
 当社近傍に飯岡古墳群(西約200mに桜井古墳が、約500mには飯岡車塚古墳が残る)があり、東側の木津川には“飯岡の渡し跡”が、南西方には古代の“山本駅跡”(駅鈴制度における中継地点)があるなど、古くから開けた土地で、古代交通の要衝だったという。

 これらの立地からみて、当社は、この辺りに盤踞した豪族あるいはその後裔氏族が、食物の神・ウカノミタマを奉祀したのが始まりと推測されるが、当社に対する神階授与などの記録はみえず、創建時期を示唆する確たる史料はない。

 なお、当社の旧社地は、当社の北約1.2km付近の2河川合流地点付近にあったといわれ、山城綴喜郡誌(1908・明治後期)には、
 「本社は元当字の北境宮ノ森に鎮座ありて、当所外2部落の総社なりしが、永享年間(1429--41)、洪水のため被害ありしを以て、各部落に分離したるに際し、当社は其の宮元なるにより、尊像・稲倉魂神(ウカノミタマ)を奉迎し、現今の地に勧請奉祀せしものなり」
とあるという(式内社調査報告・1979)
 今、普賢寺川の北側、木津川との合流点近くに“草内宮ノ森”との地名があり、この辺りかと思われる。

 ただ、郡誌がいう永享年間と、案内にいう元禄8年とでは約250年余の隔たりがあり、現在地への遷座がいずれとも判断しがたいが、いずれにしろ、木津川の氾濫・洪水によって被災したため、飯岡山山麓の高台に遷座したのは確からしい。

 当社に関する資料は少なく、創建(又は遷座後)の経緯は不明だが、江戸時代には天満宮あるいは天神宮と呼ばれ、菅原道真が祭神と考えられていたという。

 それを証するものとして、境内の手水鉢には“天神宮”(1719奉建−江戸中期)とあり(右写真)、また、神社明細書(時期不明・明治前期か)には、
 「当社は延喜式内の社なるを、中古、誤りて天満宮と称す」
とあり、一の鳥居(1720建立)にも“天満宮”との刻文があるという(式内社調査報告)
咋岡神社/手水鉢

 天満宮(天神宮)から式内・咋岡神社への社名変更時期については、案内には明治8年(1875)とあるが、当社と何らかの関係があると思われる草内の咋岡神社では明治26年(1893)とある。いずれにしても、明治に入ってのことと思われる。

※祭神
 当社の主祭神・ウカノミタマは食物の神で、これに関連する資料として、特選神名牒(1876)が引用する式社考徴に、
 「上古は今の飯岡即ちクヒオカなり。飯岡と書るは食物故に借りたるを土人(庶民)ら字のままに伊乃乎加(イノオカ)と唱ふることになれるより、咋岡は飯岡村の一地の名と成はてたる也」
とあるという(式内社調査報告)
 文意が理解しがたいところもあるが、大略、クヒオカの“クヒ”は食物を指す語で、食物を“イヒ”と呼ぶことから、クヒオカが訛ってイヒオカとなったと解され、これからみてもウカノミタマを祭神とするのは妥当であろう。

 なお、京都府京丹後市にも式内・咋岡神社があるが、その祭神は保食神(ウケモチ)あるいは豊宇賀乃売(トヨウガノメ)という。この2神も食物の神であり、当社祭神と同じといえる。

 配祀の菅原道真については、上記の通り。

※社殿等
 道路の左手(西側)・低い石段の上に鳥居が立ち境内に入る。
 境内正面に横長の拝殿(割拝殿・間口五間・奥行二間・瓦葺き)、その奥に本殿(一間社流造・方一間・銅板葺)が東面して鎮座する。
 案内には、本殿について
 「移設後明治に至るまで数度の改修が行われたとみられ、当所の建築様式を留めていないが、慶長6年(1601)・元和3年(1617)・寛永13年(1636)などの棟札が残され、その経年の歴史が判明する」
とある。
 社務所は無人。

咋岡神社/鳥居
咋岡神社・鳥居
咋岡神社/拝殿
同・拝殿
咋岡神社/本殿
同・本殿

◎末社
 本殿の左右に、末社・皇太神宮(アマテラス)・八幡宮(ホムタワケ)・厳島神社(イチキシマヒメ)の3社があるというが、社名札の墨色が薄れていて判読不能。


同・末社−1

同・末社−2

 拝殿内に軒下に、額の中に穀物を計量する舛(マス)を飾った絵馬が数多く奉納されている。すべて米寿(88才)の人からの奉納で、草内の咋岡神社でも同じことから当地の風習らしいが、米寿の“米”と社名・咋岡の“咋・クヒ”とが食物を指すことからかもしれない。


【咋岡神社(草内)】
   京都府京田辺市草内宮ノ後
   祭神−−ウカノミタマ・菅原道真

 JR学研都市線・同志社前駅の北東約1km、草内集落の南端、草内小学校の東隣の鎮守の森内に鎮座する。普賢寺川をはさんで飯岡の咋岡神社の北西約1kmに当たる。

※由緒
 参道入口に掲げる案内(同上)には、
 「創祀年代は建治年間(1275--78・鎌倉後期)といわれ、応仁年間(1467--69・室町中期)、永正年間(1504--1521・室町後期)に戦火により焼失したが、天文3年(1534)に再建されたと伝える。
 古くは天神社と称したが、明治26年(1893)柞岡神社と社名を改めるとともに、それまでの主神菅原道真を配神とし、倉稲魂神(ウカノミタマ)を主神とした」
とある。

 この由緒によれば、当社は鎌倉時代の創建であって、延喜式制定時には実在せず、式内社ではないのは確かだが(当社も、式内社とはいっていない)
 ・神名帳頭注(1509・室町後期)に、「(式内)咋岡神社 草内村に在り」とあり、当社を式内社とみていること
 ・山城綴喜郡誌に、
  「初め天神社と称し菅原道真を祭りしが、明治26年(1893)10月本社旧記を発見し、咋岡神社支流たるを確め、
   社号及び祭神訂正の許可を得て、現今のものに改めたり。菅原道真公を配祀す」とあること
などからみると、式内・咋岡神社と何らかの関係があったとも考えられる。

 憶測すれば、当社地が式内・咋岡神社の旧社地(宮ノ森)に近いこと(約600〜700m)、綴喜郡誌に“咋岡神社支流たるを確め”とあることからみると、郡誌がいう、永享年間の洪水によって、それまでの奉祀部落が分散したとき、旧咋岡神社の分霊を当地に祀ったのかもしれない。ただ永享年間とは、当社由緒にいう建治年間の約150年ほど後であり、年代的には説明がつかない。

 案内によれば、“この神社地には、もと草路城(クサジジョウ)と呼ばれる城郭があり、その名は山城一揆にも出てくる”という。
 山城一揆とは、文明17年(1485・室町中期)、山代南部の久世郡・綴喜郡・相楽郡の国人や農民等が、守護大名・畠山氏を排除したもので、その後8年間自治をおこなったという。
 そこに草路城が出てくるのをみると、室町の頃、当地(城内あるいは近傍)に当社があったのかどうか、換言すれば建治年間の創建が史実かどうか、疑わしいともいえる(城郭の鎮守としての存在は比否定きないが)

※祭神
 飯岡の咋岡神社と同じ。

※社殿
 東からの道路が草内小学校に突き当たった左に「咋岡神社」との社標柱が立ち、その角を左(南)に曲がってすぐに一の鳥居が、石燈籠が並ぶ参道突きあたり左に朱塗りの二の鳥居が立ち、境内に入る。
 境内正面に横長の拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥に唐破風付向拝を有する本殿(春日造・檜皮葺)が鎮座する。
 案内によれば、「本殿は蟇股・木鼻などに桃山風の華麗な彫刻が施されたもので、江戸中期頃の建立と思われる」」とあり、平成14年に修復工事がおこなわれたという。

咋岡神社(草内)/鎮守の森
咋岡神社(草内)・鎮守の森
咋岡神社(草内)/一の鳥居
同・一の鳥居
咋岡神社(草内)/二の鳥居
同・二の鳥居
咋岡神社(草内)/拝殿
同・拝殿
咋岡神社(草内)/本殿
同・本殿

◎末社
 末社として、
 ・社殿左手−−末社合祀殿(祈雨社・八幡宮・天照皇太宮・春日社)
 ・社殿右手−−若宮八幡宮
がある。
咋岡神社(草内)/末社合祀殿
末社合祀殿
咋岡神社(草内)/末社・若宮八幡宮
若宮八幡宮

トップページへ戻る