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車折神社
京都市右京区嵯峨野朝日町23
祭神--清原頼業公
付--嵐山頓宮(右京区芒ノ馬場町)
                                                           2020.12.08参詣

 嵐電(京福電鉄)嵐山本線・車折駅の南に接して北鳥居が立つ。(正面は南・三条通り)
 社名・車折は“クルマサキ”と読む。

※由緒
 頂いた参詣の栞には、
 「ご祭神・清原頼業公(キヨハラヨリナリ、、1122--89)は平安時代後期の儒学者で、天武天皇の皇子である舎人親王の後子孫にあたり、一族の中には三十六歌仙の一人である清原元輔、その娘・清少納言の名も見られます。
 頼業公は大外記(ダイゲキ)の職を24年間も任め、和漢の学識と実務の手腕は当代無比といわれ、晩年には九条兼実(カネサネ)から政治の諮問にあずかり、兼実から『その才、神というべく尊ぶべし』と称えられたという程です。

 頼業公は平安時代末期の文治5年(1189)に逝去され、清原家の領地であった現在の社地に葬られ、そこに廟が設けられました。
 やがて頼業公の法名・宝寿院殿(ホウジュイン)に因み、宝寿院という寺が営まれます。この寺は室町時代に至り、足利尊氏によって嵐山に天龍寺が創建されると、その末寺となりました。

 また、頼業公は生前、殊に桜を愛でられたので、その廟には多くの桜が植えられ、建立当初より『桜の宮』と呼ばれていましたが、後嵯峨天皇(在位:1242--46)が嵐山の大堰川(オオイガワ)に御遊幸の砌、この社前において牛車(ギッシャ)の轅(ナガエ)が折れたので、『車折大明神』の御神号を賜り、正一位を贈られます。これ以後『車折神社』と称することになりました」
とある。

 栞によれば、当社の原姿は亡くなった清原頼業を祀る廟所(法寿院)であって、後嵯峨天皇から車折大明神の神名を与えられ、後に車折神社と称したというが、それは法寿院の鎮守社としての神社であって、それが明治の神仏分離によって法寿院が廃寺となり、鎮守社が独立して車折神社と称したのではなかろうか。


 社名・車折(クルマサキ)の由来について、神社明細帳(明治時代か)には
 ・後嵯峨帝大堰川御幸の時 御車をして廟門の前を過ぎたまひしに 突如として車進まず 
 ・帝 奇異に思わしめて下問ありしに 土人云ふ 此の奥に清原頼業公の廟ありと
 ・帝 御車を下りて御冠りを傾け玉ひければ(拝礼したこと) 御車忽然として動けり
 ・帝 還幸の後 勅して車折大明神と神号を玉ふ 其の旧跡下車石今に存す
とあるという。

 また、地誌・雍州府誌(1688)には
 ・伝へ言 亀山院(1259--74)嵐山行幸の日 車駕此宮の前を過ぎんとするに 石有りて駕する牛 茲に於いて地に臥し進まず 
 ・供奉人之を怪しみ 始て此宮有りしを知る
 ・主上 御車を下り徒歩にて行かしむ
 ・茲より此石 車前石と称し 今社の西宝珠院の内に有り
とあり、ここでは亀山天皇の御世のことという。

 ただ、この2資料は「車前石」(又は下車石)の由来であって、当社HPがいう車折についての記述はない。
 なお、境内にはこの車前石だという石が残っている(下記)

 また、都名所図会(1780)には
 「下嵯峨材木町にあり。五道冥官降臨の地なりとぞ。一説に清原真人頼業の廟所といふ。
 むかし此所を車に乗りてゆくものあり、忽ち牛倒れ車の轅折れしとぞ。
 今は遠近の商家売買の価の約の違変なきやう此所に祈り、小石をとりかへり家におさめ、満願の時、件の石を倍にして此所に返す。
 五道冥官 閻魔王宮の廟に出て善悪を糺し、金札鉄札をみて違変なきを当社の風儀とするか」
とあり、ここでは車の轅が折れたことが記されている。

 五道冥官(ゴドウミョウカン、五道大官ともいう)とは、仏教でいう地獄・餓鬼・畜生・人間・天人の五道(五色)の衆生が亡くなって冥土に行き、閻魔大王の前で裁きを受けるとき、それを補佐する5人の役人(殺生・窃盗・邪淫・両舌・大酒を禁じ、その有無を裁定するという)のことで、衆生が行った生前の善行は金札に悪行は鉄札に記され、その軽重を以て極楽行き・地獄行きが決まったといわれ、
 今昔物語には、冥土から蘇った源尊という僧が
 「われ死にし後、われを搦(カラ)めて閻魔王の廳へゐて行く。冥官(ミョウカン)・冥道(ミョウドウ)みなその所にありて、或は冠をいただき、或は甲(ヨロイ)を着、或は鉾を捧げ、或は文机に向かひ札を勘(カンガ)へて、罪人の善悪を注(シル)す。その作法を見るに、実に怖るるところなり」
と語ったとある(13巻・35話)

 名所図会には、当社は五道冥官降臨之地とあるが、その由縁は不祥。
 臆測すれば、
 ・祭神・清原頼業の“ヨリナリ”を“金寄”(カネヨリ-金が集まる)“金成”(カネナリ-金持ちに成る)と読み替えて(語呂合わせ)、これを商売繁昌・金運向上の神として信仰し、商人等は商売に必要な信用、即ち約束を守り二枚舌を使わないことを信条としたこと
 ・冥官のなかに“両舌・二枚舌を禁じ、その有無を裁定する”士官が居たこと
などから五道冥官降臨地との伝承が生まれたのかもしれない。


※祭神
   清原頼業(キヨハラ ヨリナリ)

 清原頼業(1122--89)は平安時代後期の儒学者で、天武天皇の皇子・舎人親王(トネリシンノウ・日本書紀編者の一人)の後裔。
 清原家は平安時代に大外記(ダイゲキ)の職を世襲する明経道の家柄で、頼業は幼少の頃から家学に励んで秀才として知られ、20歳にして少外記に叙せられ、藤原頼長のブレーンとなるとともに、その子・兼長の教師に選ばれたという。
 このように頼長に近かったことから、保元の乱(1158)での頼長の失脚により一時不遇となるが、その後復帰し、仁安元年(1166)に父と同じ大外記に任ぜられ、政府事務局の中枢として活躍した。
 その後、摂政関白の九条兼実の厚遇を受けてこれを補佐するようになり、兼実の政策遂行に深く関わったといわれ、清原家中興の祖ともいわれる。

 なお、大外記とは律令制における太政官に属する職の一つ・外記の筆頭職を指す。
 外記とは、内務省作成の詔勅の校正、天皇への奏上文の作成、儀式・公事の執行などを所掌したという。


※社殿等
 三条通りの北側に当社への入口があり(横に車折神社前とのバス停ありあり)、左に朱塗り灯籠が、右に社号柱が立つ。(曾ては朱塗りの大鳥居があった)
 民家に挟まれた道路を北へ進んだ突き当たりに表参道の入り口があり、社塗り門柱の右に「車折神社」と刻した大きな社号柱(富岡鉄斎筆)が立つ。


車折神社への入口(三条通り) 
 
同・表参道入口
 
社号柱

 当社には本殿・拝殿の他に境内社などが多数点在し、南から北へ順に記載する。

 参道の途中に朱塗りの「神門」があり、その直前に、参道を挟んで左に「水神社」が右に「愛宕社」がある。
*水神社
   祭神--罔象女神(ミズハノメ・水神)
 奉納者氏名を記名した朱塗りの玉垣(木札)と、朱塗り鳥居の奥に小祠が東面して鎮座する。
 資料によれば、曾ての大堰川が当社近くを流れていたといわれ、その洪水防止のために祀られたとあり、室町時代までは境内に祀られていたが、その後、滄海神社に合祀され、昭和37年に現在地に遷されたという。

*愛宕社
   祭神--愛宕大神(三宝荒神か)
 朱塗り玉垣と素木鳥居の奥に小祠が鎮座し、社前に「愛宕山」との石柱が立つ。
 資料なく、鎮座由緒等不明。

 
左:水神社、右:愛宕社
(奥に神門がみえる)
 
水神社

愛宕社
 

*神門
 参道の途中に朱塗りの神門(棟門様式が建ち、参道の両側には奉納者の氏名を記した朱塗りの玉垣が連なっている。


神 門 
 
参道(朱塗り木札が連なる)

 神門から中門に至る参道の両側に平行する小路沿いに境内社数社が鎮座する。
 参道東側
*筆塚
 小路の東側に「筆塚」と称する大石が鎮座し、富岡鉄斎が生前に使用した絵筆を2000本以上納めた塚という(鉄斎については下記)
 大石には、「言の葉を 千とせの後に伝へゆく 筆のいさをは つきしともおもふ」との和歌が刻されているというが、判読困難。

*小唄堀派祖霊舎
 筆塚の右(南)隣りにある小社。
 朱塗りの覆屋の奥に朱塗りの小祠が鎮座し、舎前に「小唄堀派祖霊舎」との標柱が立つ。
 小唄・堀派とは、大正2年(1913)、堀小多滿によって創立された日本初の小唄流派で、同12年(1923)の関東大震災後に大阪に移り、道頓堀に稽古場を設けて関西に進出したという(Wikipedia)
 当社内に祖霊社がある由縁は不祥だが、当社に芸能神社があることに関係するか。

 
筆 塚

小唄堀派祖霊社 

同・標柱 

*大国主社
   祭神--大国主命
 小路の西側に鎮座する小社。
 素木鳥居の奥に、大きな千鳥破風向拝が突きでた(一見二重屋根に見える)切妻造・妻入りの社殿が鎮座する。
 鎮座由緒等は不明。


大国主社・鳥居 
 
同・社殿

*辰巳稲荷社
   祭神--宇迦之御魂神
 傍らの案内には、
 「御神号は、御本社の辰巳の方位に鎮座するによる。
 古来より、五穀豊穣をはじめ生業繁栄などの守護神として、そのあらたかな御神格にあやかろうとする多くの人々の信仰を集めている」
とある。

 朱塗り鳥居の奥、朱塗りの覆屋の中に、これまた朱塗りの小祠が鎮座する。すべてが朱一色に染まっている。

 
辰巳稲荷社
 
同・社殿

 なお、この小路の東に駐車場があり、、周囲を朱塗りの玉垣列で囲まれている(駐車場から参道への入口にも鳥居が立つ)

 参道西側
 参道西側の小路沿いに、車折神社碑・祖霊舎・清少納言社が並んでいる。
*車折神社碑

 小路の左端(南側)に篆書体で「車折神社碑」と刻した石碑が立つが、漢文の碑文は判読不能。

 当石碑は明治42年(1909)に当時の宮司によって建立されたもので、
 その末尾に
  「前車折神社社司正七位富岡百錬書」
とあり、この碑文は鉄斎によって書かれたという。(百錬:鉄斎の別号)





 

車折神社碑 
 
同・末尾部分

*祖霊社
 車折神社碑の右(北)にある小祠。

*葵忠社(キチュウ)
   祭神--福田理兵衛
 祖霊社の右にある小社で、素木鳥居の奥に一間向拝を有する切妻造の社殿が東面して鎮座する。

 祭神・福田理兵衛(1814--72)とは、嵯峨村の大庄屋・総年寄りで裕福な材木商の家に生まれ、西高瀬川改修など運河開発で地域産業の発展に貢献したという人物。
 一方、幕末の動乱期には多くの志士、特に長州藩志士に莫大な資金を提供するなど勤王の志強く、禁門の変(1864)に際して長州藩のために武器・食料を調達するなど活躍したが、長州藩が敗れたことから薩摩藩士に追われて長州に逃げ、長州では厚遇されるも、明治5年、帰洛直前に何者かに襲われて亡くなったという。

 資料によれば、当社は大正初年頃迄は西半丁にあった福田家旧宅内に祀られていたが、昭和10年に当社境内に遷されたという。
 社頭に長文の案内があるが、墨色が薄れ判読困難。

 
祖霊社

葵忠社・鳥居 

同・社殿 

*清少納言社
   祭神--清少納言
 葵忠社の右にある小社。
 社頭の案内には、「当社祭神・清原頼業公と同族という縁から祠を築き祀ることとした」とある。
 朱塗りの覆屋の中に、切妻造平入りの朱塗り社殿が東面して鎮座する。

 清少納言が祭神・清原頼業と同族という縁から祀られたものらしい。


清少納言社(覆屋) 
 
同・社殿 

*芸能神社
   祭神--天宇受売命(アメノウズメ)
 表参道の右側(東側)に鎮座する社で、周囲を朱塗り玉垣で囲まれた独立した境域を呈している。
 参詣の栞には、
 「芸能神社は車折神社の境内末社の一社で、昭和32年に他の末社よりご祭神・天宇受売命を分祀申し上げ創建した神社です。
 神代の昔、天照大御神が弟である素盞鳴尊の蛮行を逃れ、天の岩戸にお入りになり固く扉を閉ざされたために、この世が暗闇になってしまいました。
 その時、ご祭神・天宇受売命が岩戸の前で大いに演舞されたところ、天照大御神が再び御出現になり、この世は再び光りを取り戻したという神話にもとづき、あらゆる芸能・芸術の分野で活躍する人たちに強い信仰があり、芸名・ペンネーム・劇団名などを記した朱塗りの玉垣が二千枚以上奉納されています」
とある。

 正面鳥居を入ってすぐに朱塗りの拝所があり、その長押(ナゲシ)の上に神楽面系とおぼしき面(オモテ)が奉納されている。

 
芸能神社・鳥居

同・拝所正面 
 
同・神楽面?

 拝所の奥に拝殿が、その奥、少し離れて本殿が西面して鎮座する。

 
同・拝殿
 
同・本殿

 当社各所に見られる朱塗り玉垣には有名な芸能人が奉納したものもあるようで、当社の周囲では玉垣に記された名前等を読んでまわる若い女性方が大勢見受けられた。

*中門
 表参道の芸能神社前を過ぎた北側に三の鳥居が立ち、その奥に朱塗りの中門(四脚門)がある。
 ただ、中門は通行不能で、門前から右に折れて社務所前を通って本殿前へ進むことになり、HPには
 「中門から本殿まで参道が続きますが、普通は通ることができませんので、向かって右側の参道を進み本殿の東側からお入り下さい。
 通り抜け禁止となっている理由は、真正面からご神前に進むことは神さまに対し畏敬の念を欠く行為であるからです」
とある。

 
三の鳥居

中 門 

同・側面 

*手水舎
 中門前から右に回り込んだ処にある社務所の前に、朱塗りの手水舎があるが、下写真のように変わった形をしている。
 手水糟そのものは普通の形をしているが、柄杓等は見えない。

 
手水舎
 
手水糟 

*車折石
 手水舎の南に接した植え込の中に安置された石で、低い玉垣の中に、当社社名・車折の由来となった石と称するものが御神体として鎮座する。
 けっこう大きな石で、牛車がこれに乗り上げたら轅が折れたかもしれない。
 ただ案内表示なく・栞等にも記載なく、参詣時にも社務所の方に教わって訪れた。

 
車折石・入口(南側より入る)

車折石(奥の建物は手水舎) 
 
同・御神体の車折石

*社殿
 社務所前から回り込んだ処が社殿正面で、
  朱塗り玉垣と大樹の奥に入母屋造の拝殿が、
  その奥、弊殿を介して本殿が南面して鎮座する。
 本殿は屋根の一部が見えるだけだが、HPによれば入母屋造・銅板葺き・総檜造りで、宝暦2年(1752)造営、平成26年改修というが、周りに社殿等が建て込んでいて全貌は見えない。
 拝殿天井に草木を描いた天井画があるというが、実見していない。


車折神社・社殿前 
 
同・拝殿

同・本殿 

*祈念神石(キネンシンセキ)
 拝殿前、玉垣の後に小石を積んだ石糟があり、参詣の栞には、
 「祈念神石 -古来より当社に伝わる、願い事を叶える神石-
 様々な願い事のある方は、はじめに社務所にて祈念神石を授かり、ご神前において願い事を心中で強く念じた後、持ち帰り、願い事が成就した折には、自宅や海・川・山などで石を一箇拾って洗い清め、その石に「お礼」の言葉や祈願内容を書き記し、授かった祈念神石と共に神前に返納するならわしとなっています」
とある。

 石糟の中には、拳大以下の石が沢山積まれていて、個々の石には「御礼・・・」と記したものが多数見られる。
 この石について、案内には
 「これらの石は、祈念神石により願い事が成就した方が、御礼として奉納された石です」
とあり、資料によれば、この風習は少なくとも江戸時代には行われていたという。

 なお、手水舎西の表参道にも祈念神石を奉納する石糟があり、拝殿前の石糟が一杯になったら此処に移すという。

 
祈念神石
 
同・拡大
 
社務所で授ける
祈念神石
 
表参道にある
祈念神石糟

*八百万神社
   祭神--八百万神
 本殿の背後に近接してある神社で、案内なく由緒等は不明。
 石垣に上に堂々たる流造の社殿が南面して鎮座するが、参詣者も少ないようでひっそりとしている。

 
八百万神社(左前より)
 
同左(右前より)

 社務所前を北へ少し行った処に鳥居が立ち、ここから裏参道が北へ延びている。

*浄めの社
 裏参道西側に鎮座する小社で、HPには
 「浄めの社のご神力(パワー)により、当社の境内全体は「悪運・悪因縁の浄化」「疫病消除」のご神力が充満しており・・・。
 円錐形の立砂は石をモチーフにしており、当社が石(パワーストーン・祈念神石)との関わりが深いことを物語っています」
とある。

 朱塗り鳥居の奥に、切妻造・平入り・朱塗りの社殿が東面して鎮座し、社殿前に砂を固めた円錐形の立砂が立ち、傍らの立て札に「触らないでください。さわるとご利益が消えます」とある。勝手に触ると砂柱が壊れるのであろう。

 
浄めの社・鳥居
 
同・社殿
 
同・立砂

*天満天神社(ソラミツアマツカミノヤシロ)
   祭神--天満大神
 裏街道東側にある小社で、天満天神と称するものの祭神は菅原道真ではなく雷神を祀るという。
 ただ、道真は雷神となって禍をもたらしたともいうから、一概に道真ではないともいえない。
 資料なく鎮座由緒等は不明。
 素木鳥居の奥に切妻造・平入りの社殿が西面して鎮座するが、周りを樹木に覆われひっそりとしている。

 
天満天神社・鳥居
 
同・社殿 

*神明神社
   祭神--天照皇大神
 天満天神社の北に接するように鎮座する小社で、素木鳥居の奥に切妻造・平入りの社殿が西面して鎮座する。
 資料なく鎮座由緒等は不明。


神明社 
 
同・社殿 

*弁天神社(滄海神社)
   祭神--市杵島姫命
 裏参道東側にある小社で、滄海神社(ソウカイ)とも称する。
 資料によれば、室町時代に創建された天龍寺末寺に弁才天として祀られていたとあり、それが明治の神仏分離により廃寺となったことから当社内に遷座し、祭神を同じ水神でもある市杵島姫と称したものらしい。
 なお、滄海とは大海原のことで、渡来した水の神・弁才天に繋がるという。

 朱塗りの拝所の奥に溝状の参道が延び(水はない)、その奥に朱塗りの鳥居と春日造の小祠が西面して鎮座する。

 
弁天神社・拝所
 
同・水路?
 
同・社殿

*地主神社(ジヌシ)
   祭神--嵯峨天皇
 裏参道入口を入ってすぐの東側に鎮座する小社で、資料によれば、
 「曾て、この辺りに柳鶯寺という寺があり、嵯峨天皇(在位:809--23)が当地への行幸の際にこの寺で休息したとの縁で、天皇が祀られていたが、明治の神仏分離によって廃寺となったことから、当社境内に遷され、地主神社として祀られたという。

 裏参道脇に石鳥居が立ち、その奥、簡単な覆屋の中に流造・朱塗りの社殿が鎮座する。

 
地主神社・鳥居
 
同・社殿

◎裏参道入口
 嵐電・車折神社前駅南の道路を挟んで当社の北入口があり、入口を入ってすぐに石の鳥居が立ち、境内に入る。
 なお、社頭向かって右に社号柱が立つが、これも富岡鉄斎の筆という。

 
車折神社・北社頭(嵐電ホームより)
 
同・北社頭
 
同・北鳥居


【車折神社嵐山頓宮】
  京都市右京区芒ノ馬場町

 渡月橋北詰から大堰川沿いの道を西へ行ったすぐの右側(北側)に鎮座する小社。
 正面に朱塗りの四脚門が立ち、右に『車折神社嵐山頓宮』と刻した石柱が立つ。(頓宮:別宮・仮の宮)
 境内には、短い参道の奥に切妻造平入りの朱塗り社殿が南面して鎮座する。
  (嵐山観光用の人力車の駐輪場に利用されているようで、社殿の左右に人力車が留められていた)
 資料みあたらず、当頓宮の鎮座由緒・時期等は不明。


車折神社嵐山頓宮(正面) 

同・社殿 
 
同・石柱

 社頭に幅3m程の小さな石橋が架かり(川はなくモニュメント的な橋)、親柱には『琴■橋』(通常、コトキキバシと称する)とある。(■は“聴”らしいが、崩し字で読めない)
 平安末期、この辺りに隠れ住んだという小督局に関係する遺構らしいが、車折神社と小督との間に関係はなく、如何なる由縁で当頓宮前にあるのかは不明(別稿・小督塚参照)


琴きき橋・全景 
 
同・親柱 


[付記]
 【富岡鉄斎】
 幕末・天保7年(1836)京都に生まれた南画家。
 15歳の頃から平田学派の儒学・国学を学び、20歳から太田月連月(1791--1875、江戸後期の尼僧・歌人)の薫陶を受けて陽明学を学び、青年時代には頼三樹三郎(1825--59、幕末の志士・儒者、安政の大獄により没)ら勤王の志士と交際したことから勤王思想に傾倒し国事に奔走したという。
 維新後は各地を旅行しながら歴史・地誌などを学びながら、奈良石上神社・和泉大鳥神社などの宮司を勤めて神社復興に尽力し、明治14年(1881)に京都の戻り画業に専念したという。

 鉄斎の絵は、19歳の頃に南画の手ほどきを受けたがその後は殆ど独学で、南画や大和絵など諸派を独自に研鑽することで、斬新な色彩感覚と気迫に満ちた自由奔放な水墨画風の画風を作りあげ、余白にみる独特の賛辞とも伴って近世最後の文人画家といわれる。大正13年(1924)没、88歳。

 その間、明治21年(1888)から26年(1893)の5年間当社の宮司を勤めており、当社には鉄斎筆の望嶽図(ボウガクズ)や関連遺物が百余点ほど所蔵されているという。

 

鉄斎筆・望嶽図(参詣の栞より転写)

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