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山城(紀伊郡)の式内社/真幡寸神社
京都市伏見区中島鳥羽離宮町(城南宮境内)
祭神−−不詳
                                                        2011.12.04参詣

 延喜式神名帳に、『山城国紀伊郡 真幡寸神社二座』とある式内社で、神名帳頭注(1503)には「中島村城南森に在り、別幡神纛神を祭る」とある(皇学叢書所収・1927)。今、城南宮の摂社として同社境内に鎮座している。社名は“マハタキ”と読む。

 近鉄京都線・竹田駅の南西約1.4kmの城南宮境内東寄りの一画に、境内摂社として鎮座する。
 竹田駅西側から名神高速道路沿いの道を西へ、名神と阪神高速の交差点から油小路通りを南下、城南宮東口交差点(3ッ目の信号)を西へ、城南宮の東鳥居から参道を少し進んだ右側(北側)に朱塗りの鳥居が立つ。

※由緒
 当社に関して、日本紀略(平安末期頃成立)の嵯峨天皇・弘仁7年(816)7月条に、
  「山城国紀伊郡飛鳥田神・真幡寸神官社の例に預り、並びに(共に)鴨別雷神の別也」
とあり、9世紀以前からの古社であることは確かだが、その創建年代を示す史料はない。

 当社の創建にかかわって、
 @式内社調査報告(1977)には
 「平安遷都以前から拓けたこの地方(鳥羽郷)一帯でで、乙訓・葛野等の村村におけると同じく、水田経営に欠かせない水をもたらす神として雷神が祀られたものと推察される」
と一般的ともとれる創建由緒を記しているが、
 A日本の神々5(城南宮の条・2000)には
 「真幡寸神社の創建年代は不明であるが、平安遷都(794)以前より当地一帯を勢力下においていた秦忌寸氏(ハタイミキ)の氏神として、鳥羽郷真幡木里に纛神(ハタorハタホコ神)を祀ったのがはじまりとされている」
とあり、古代の渡来系豪族・秦氏が建てた神社という。

 両資料とも“平安遷都以前の創建”とはいうものの、その創建由緒は異なっており、他に当社にかかわる資料がみえず、その真偽は判断できない。

 当社は今、城南宮の摂社として同社境内に祀られているが、古くは他所にあったといわれ、それには二つの伝承がある。
 ・伏見区竹田真幡木町・若宮八幡宮境内
   城南宮の北東約700mにある“若宮八幡宮”の地にあったとされ、鳥居の脇に「史跡 式内真幡寸神社の跡」と刻した石碑が立っている(昭和49年、竹田史跡保存会建立)
   地名・竹田真幡木町と旧鳥羽郷真幡木里の一致が根拠だろうが、とすれば、秦氏にかかわる上記伝承と一致する。

 ・伏見区深草鳥居崎町・藤森神社
   社伝によれば、古く、真幡寸神社は深草の地にあったが、藤森神社(旧藤尾社)が旧社地(現伏見稲荷社鎮座地)から現在地に遷った時、その地にあった真幡寸社は西方・城南宮の地に遷されたという。
   伏見稲荷が稲荷山山中から山麓の現在地に遷る時、その地にあった藤尾社を深草の地に遷したのは史実で、藤森神社では、当地にあった真幡寸神社は、深尾の里にあった藤尾社の遷座に伴って西方に遷ったという。
   なお、稲荷山山中にあった稲荷3社が麓の現在地(伏見稲荷大社)に遷った年代については、弘仁14年(823)説・鎌倉時代(13世紀初頭)説・永享10年(1438)説などがある。
 伏見稲荷大社・藤森神社では永享10年説を採っているが、諸資料を勘案すれば鎌倉時代以降かと思われる(別稿・伏見稲荷神社参照)

 当社の城南宮の地への遷座時期について、管見した資料には、
 ・平安末期院政期に入って、洛南一帯に離宮や寺塔の造営建立が相次いだ頃と考えてほぼ誤りはなかろう(式内社調査報告)
 ・白河上皇がこの地に鳥羽離宮を造営した時(1087)、真幡寸神社・城南宮両社が離宮内に取りこまれたと思われる(日本の神々)
とあり、院政期(1086--1185)あるいはその直前頃とみている。
 ただ、院政期頃とすれば、藤森神社がいう真幡寸神社の遷座時期とは整合しない。

◎真幡寸神社と城南宮
 当社は今、城南宮の摂社となっているが、当社と城南宮の関係については諸説がありはっきりしない。
 城南宮について、
 (イ)社頭の案内には
 「平安遷都の頃、都の南の守護神として創建され、国常立尊(クニノトコタチ)・八千矛神(ヤチホコ)・神功皇后をお祀りする。
 この地に白河上皇によって城南離宮(鳥羽離宮)が造営されると一層崇められ・・・」
とあり、城南宮通信“とわのかけはし”には
 「城南宮は、国土の安泰と都の守護を願い、遷都の際に平安城の南に祀られたお宮で、1200年の歴史を重ねています」
とあり、当たり障りのない由緒を掲げている。

 (ロ)式内社調査報告には
 「桓武天皇の平安遷都の際、宮城の南に当たるこの地に国常立尊を祀り、皇城擁護の神・城南大神として崇敬した。
 その後、この近くに鳥羽離宮が造営されるに及んで、真幡寸神社と城南宮とが混同され、近世を通じて城南宮と呼ばれるようになった」
とある。
 (イ・ロ)の両説は略同じことを述べたもので、これによれば城南宮と当社とは別々の社とみられていたらしい

 (ハ)ネット資料(Wikipedia)には、
 「城南宮の創立年代は不詳である。この地にあった式内社・真幡寸神社に、神功皇后の三韓征伐の際に船上に立てられた旗に神功皇后・八千矛神(大国主神)の神霊を添えて奉斎したのに始まると伝える。
 平安遷都の際に国常立尊が併祀され、平安京の南にあることから城南宮と称された」
とある(他に略同意の由緒を記すネット資料は多いが、その根拠を記すものはない)
 神功皇后云々は別として、(ハ)によれば、以前からこの地にあった真幡寸神社に神功皇后・八千矛神(大旗に降臨した纛神か)が合祀されたのが始まりで、平安遷都後、国常立尊を合祀して城南宮と改称したことになり、城南宮は真幡寸神社の後継社ともとれる。

 この両社を別々の社とみるか、一連の神社とみるか、それを判断する資料は見当たらないが、式内社調査報告に
  「明治維新後、式内真幡寸神社の古名に復し(明治10年・1877)府社に列していたが、今時大戦後再び城南宮と改称(昭和27年・1952)、真幡寸神社は境内摂社として城南宮本社社殿の東隣に一画を劃して奉祀されるようになった」
とあ.る。
 ここで“古名に復し”とあること、また、大鳥居前の片隅に、「明治天皇行在所真幡寸神社 (側面)慶応四年三月廿一日御駐輦」(1868・慶応4年9月に明治と改元)との石柱が立つことからみると、明治初年頃、城南宮を式内・真幡寸神社と呼んでいたのは確かで、その当時、城南宮と真幡寸神社とは同じ神社との認識があったと推測される。

※祭神
 社殿の周辺に何らの案内もないため祭神名は不詳だが、式内社調査報告には
 「国常立尊・八千矛神(大国主神)・息長帯比売と公称されているが、・・・」
とある。
 しかし、これらの神々は城南宮の祭神であって、当社本来の祭神とみるには疑問があり、上記日本紀略及び由緒(由緒@)からみて、ワケイカヅチ即ち稲作に必要な水をもたらす“雷神”とみるのが順当であろう。

 一方、当社が秦忌寸氏創建の社(由緒A)とすれば、“纛神”(ハタカミ)も有力になる。
 ただ、この纛神の正体は不明。纛神の“纛”は“ハタホコ”と訓み、旄牛(ボウギュウ・長い毛の牛=ヤク)の尾あるいは雉の尾で飾った大旗を意味し、宮中の儀式などで天子の御座あるいは戦陣で将軍の本営などに立てられたというから、纛神とは大旗に降臨する神とも解される。

 また、神名帳では当社祭神は二座となっている。神名帳頭頂には“別幡神”(別雷神の誤記か)・“纛神”とあり、“雷神”と“纛神”を祀ると解される。
 いずれにしても、公称の祭神三座というのは問題ありといえる。

※社殿
◎真幡寸神社
 城南宮・東参道の北側に朱塗りの鳥居が、傍らに“真幡寸神社”との石標が立ち、その奥に一間社流造・檜皮葺の社殿が建つ。
 一見して社殿はまだ新しい。昭和52年(1977)城南宮の本殿焼失の際に類焼し、再建されたのかもしれないが、詳細不明。


真幡寸神社・正面

同・社殿

城南宮・東参道

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