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山城(葛野郡)の式内社/松尾大社
京都市右京区嵐山宮町
祭神−−大山咋神・市杵島姫神
                                                            2012.02.11参詣

 延喜式神名帳に、『山城国葛野郡 松尾神社二座 並名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社だが、江家次第(1111頃・平安後期の有識故実書)に「天平2年(730・奈良前期)大社に預かる」とあり、奈良時代から大社を名乗っている。

 阪急嵐山線・松尾駅の西約300m、駅西側改札を出た目の前に朱塗りの一の鳥居が立つ。

※由緒
 当社の栞によれば、
 「当社は京都最古の神社で、太古、この地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の神霊を祀って生活守護神としたのが起源といわれている。
 5世紀頃、朝鮮から渡来した秦氏がこの地に移住し、山城・丹波両国を開拓し、河川を治めて、農産林業を興した。同時に松尾の神を氏族の総氏神と仰ぎ、文武天皇の大宝元年(701)には山麓の現在地に社殿を造営した」
とあり、社頭に掲げる案内(京都市掲示)には、
 「大宝元年に秦忌寸都理(ハタノイミキ トリ又はツリ)が、松尾山大杉谷の磐座の神霊を勧請し、秦氏の氏神として当地に社殿を建立したのが起こりと伝えられる」
とある。

 また、当社蔵の松尾皇大神宮記(元禄14年-1701の奥書あり)には
 「文武天皇の御宇(697--707)、藤原不比等(659--720)が大杉谷の御生所(ミアレドコロ)におもむいたところ、大神は、分土山(松尾山)の麓に移って百王の宝祚を守護せんと告げられた。そこで不比等は此の由を奏上したところ、秦都理が勅命をうけて現在地に遷宮した」
とある(松尾大社・同社刊・2007)

 この創建由緒に関連して、本朝月令(10世紀前半頃、平安中期の年中行事などをまとめた古書)に引く秦氏本系帳(880年頃か・平安前期)
 「正一位勲一等、松尾大明神の御社は、筑紫胸形坐中部(津の誤記でイチキシマヒメ)大神が戊辰の年3月3日、松埼日尾〈日埼岑とも云ふ〉に天下りされた。
 大宝元年(701)、川辺腹の男・秦忌寸都理が、日埼岑より更に松尾に勧請し奉った。また田口腹の女・秦忌寸知麻留女、はじめて御阿礼を立てた」
と記す。
 この一文を素直に読めば、
 “戊辰年(大宝元年以前の戊辰年といえば天智7年・668、その前だと推古16年・608となる)に松尾山に天下ったイチキシマヒメを、ハタノイミキトリが大宝元年に山麓の現在地に勧請した”
となり、そこに主祭神・オオヤマツミの名はない。

 ただ、延喜式に当社祭神は二座とあることからみて、古くから松尾山頂の磐座に坐す山の神(地主神)であるオオヤマツミと、その磐座に天下ったイチキシマヒメの2座を山麓に勧請し、社殿を造営したと解すべきであろう。
 なお、“御阿礼”(ミアレ・御生)とは神の降臨即ち誕生を意味し、“御阿礼を立てた”とは、御阿礼木(榊)に依り憑いた神霊を山麓に遷して祭祀を始めたことを意味する。

◎磐座
 当社の原点ともいうべき磐座へは、北回廊から社務所への渡り廊下の下をくぐった、すぐの右側に詰め所があり、氏名等を届け出て白い襷(登頂許可証)を受けとって入る(有料)
 亀の井・北末社殿の前を抜け右(北)へ進むと簡単な入口(許可なくしての登頂禁止とある)があり、登頂路(山道)が始まる。
 登頂路は丸太で土留めした階段が多い山道で、途中に朱塗りの鳥居2基が立ち、2の鳥居を過ぎた上に磐座が鎮座する。片道約30分ほど。

 通常、磐座といえば巨巌である場合が多いが、当社のそれは大小の岩石が固まって大きな岩塊となったもので、傍らに「神蹟磐座 標高220m」との標識が立つ。
松尾神社/磐座
松尾神社・磐座
(徐々に低くなりながら右へ続く)
松尾神社/磐座への山路
磐座への登頂路
二の鳥居・すぐ上に磐座あり
 なお、登頂路入口の右手・“磐座の庭”の中にある“磐座遙拝所”(簡単な神籬及び拝所あり)の案内には次のようにある。
 「当社御祭神の大山咋神は、奈良時代以前の大宝元年になって初めて祀られたのなく、太古この地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷上部の磐座に祀って、生活の守護神として尊崇したのが起源といわれています。
 磐座は、この場所より丁度真上にあり、当社神職たちは、昔から、御神蹟とか御鎮座場と称して敬拜してきました」

 これらからみて、当地には、松尾山を神奈備山とする古くからの山の神信仰(山の神=水の神=田の神信仰)があったが、それを5世紀後半頃に当地へ進出した秦氏がとりこみ、その祭祀に関与することによって、8世紀当初頃、麓に社殿を建てたのが当社とみることができる。

 当社は、古くから朝廷の崇敬が篤かったといわれ、天平2年(730・奈良前期)に“大社”の称号が許され(江家次第)、延暦3年(784・奈良末)の従五位下授叙(続日本紀)を嚆矢として順調に昇階し、貞観8年(866・平安前期)には正一位まで昇っている(三代実録)
 また平安中期に制定された二十二社制(国家の重大事・天変地異の時などに、朝廷が特別の奉幣をおこなう神社制度)においては、最初に奉幣された12社に含まれ、伊勢・石清水・賀茂に続いて第4位に列している(天徳4年・960)

◎酒の神信仰
 当社が酒の神として信仰されたのは中世以降のようで、雍州覈録(1684)には
 「縁起に曰、当社神徳は弓矢神・社稷神・寿命神・酒徳神なり。酒を醸す者専ら尊崇し酒福神と為す」
とあり、井原西鶴も、その第2遺稿集・織留(1697)のなかで、酒造家の繁昌の様を、
 「上々吉、諸伯松尾大明神のまもり給へば」
と記すという(日本の神々5)
 曾ては、社殿背後の霊泉・亀の井の水を酒に混ぜると酒が腐敗しないとして、酒造業者が汲みに来たといわれ、今も、境内には、全国の酒造業者から奉納された酒樽が積み並べられている(右写真)
松尾大社/奉建酒樽

 当社が酒の神とされた由縁は不詳だが、社蔵の“酒由来の事”との記録には
 「遠く神代の昔、八百万の神々が松尾山に神集いされて、皇国の守護について話し合われたが、その場には酒はなかった。
 そこで、松尾大神が山田(嵐山)の米を蒸し、山裾から湧き出る清らかな水を汲んで、一夜にして酒を醸され、その酒を大杉谷の杉でこしらえた器をもって諸神に饗応され、大いに喜ばれた」(大意)
とあり、また、同じく“造酒三神と云所謂書”(1834・江戸後期)には
 「聖武天皇・天平5年(733)、当社の御手洗谷から霊泉が湧き出たとき、松尾大神が詔して、『諸人がこの霊泉を飲むと、諸々の病が治り寿命が伸びる。また、この泉の水で酒を醸して吾を祀れば、寿福増長・家門繁栄し、造酒に霊功があり過ちがないであろう』と告げられた。・・・」(大意)
とあるというが(松尾大社2007)、これらは後年つくられた伝承であろう。

 当社が酒の神ということは、祭神・オオヤマツミを酒の神とすることによるが、その由縁として、一般には
 「オオヤマツミの娘・コノハナサクヤヒメが天孫・ホノニニギの御子三柱を産んだとき、それを喜んだオオヤマツミが、狹奈田の稲穂を以て天甜酒(アメノタムサケ)を醸し、諸神にふるまわれたのが、わが国における造酒の始まり」
という。
 しかし、オオヤマツミは山の神であって、この神に関する記紀等の記述に酒造りを示唆するものはなく、これも、後世になって作られた俗説であろう(ただ強弁すれば、山の神は水の神であり田の神でもあることから、穀物を醸して作る酒に連なるといえなくはない)

 一般に酒の神といえばスクナヒコナとされるが(古事記・神功皇后の御歌など、一般に、スクナヒコナは薬の神というが、古代の酒は薬とされていた)、スクナヒコナは常世(トコヨ)神であり、秦氏が常世信仰と係わりが深いことから、当社も酒の神を祀るとされたのではないかともいう。
 また古く、境界である坂の上(山頂)に酒を満たした甕を埋めることで、外から来る邪霊を防ぐ呪的祭祀があったことから、当社の原点である松尾山頂を境界とみて、酒との係わりを解く説などがあるが、よくわからない。

※祭神
◎大山咋神
 古事記によれば、オオヤマクヒとは、オオクニヌシの御子である大年神(オオトシカミ)が天知迦流美豆比売(アマチカルミズヒメ)を娶って生んだ御子で、
 「大山咋神、亦の名は山末之大主神(ヤマスエノオホヌシノカミ)、この神は、近つ淡海国(アフミノクニ)の日枝山(ヒエノヤマ)に坐し、また葛野(カヅノ)の松尾に坐して、鳴鏑(ナリカブラ)を用(モ)つ神なり」
とある(書紀には見えない)
 簡単にいえば、オオヤマクヒは淡海国(近江国・滋賀県)の日枝山(日吉神社・東本宮のご神体である牛尾山、又は、その背後の比叡山)と葛野の松尾山(日埼岑・ヒノミサキともいう)に坐す神で、鳴鏑(ナリカブラ)の神、となる。

 大山咋の“咋”(クヒ)とは“杙(杭)”あるいは“柱”のことで、“杙を打つ”、あるいは“杙を立てる”ことは、その土地を支配・領有することを意味する。そこからオオヤマクヒとは“山頂にあって、その土地の支配権を示す杙を神格化したもの”で、日枝山と松尾山に坐す神、即ち“山の神を”指す。
 その別名・山末之大主の“山末”(ヤマスエ)とは、麓を指す“山本”に対して“山頂”を指し、“大主”(オオヌシ)とは“主(アルジ)”の意、そこからヤマスエノオオヌシとは“山頂に坐す主”であり、オオヤマツミとは異名同神となる。

 また“鳴鏑を用つ神”とは、“鏑矢(カブラヤ−音を発して飛ぶ矢)に化して顕現する神”であり、“矢に化して神妻(巫女)に御子を生ませる神”を意味し、秦氏本系帳には
 「秦氏の娘が葛野川で洗い濯ぎをしていたとき、一本の矢が流れてきた。娘が、これをとりあげて持ち帰り、戸の上に刺しておいたところ、まもなく、懐妊し男子を生んだ。夫なくして懐妊したことを怪しんだ父母が誰の子かと問い詰めたが、娘は知らないといった。
 そこで、盛大な宴会を用意して親戚・村人など多くの人々を招待し、その男子に盃を持たせ、“父と思う人に盃を差しあげよ”と命じたところ、男子は、衆人を指さずに戸の上の矢を指し示した。
 すると、忽ち、その矢は雷神となって棟木を破って天に昇っていった。戸の上の矢は、松尾大明神であった」(大意)
とある。
 この伝承は、女子の名・川の名・神名は異なるものの、山城国風土記(逸文)にいう賀茂の丹塗矢伝承(上賀茂神社・別雷神生誕伝承)と同じもので、これは、秦氏と賀茂氏とが密接な関係にあったことによる(秦氏本系帳には、鴨氏人は秦氏の婿とある)
 また、“矢”が日光・雷光の象徴であることからみて、この伝承は、水辺の巫女が日光に感じて神の御子を生む日光感精説話の一類型といえる。

 当社の旧社地・松尾山(日埼岑)の立地位置をみるとき、松尾山は所謂・“朝日の直刺す(タダサス)地、夕日の日照る地”であって、夏至の日の朝、比叡山(四明岳)に昇る朝日は真っ直ぐに松尾山を射し、冬至の日、四明岳からは松尾山に沈む夕日が真っ正面に拝され、これが、松尾山を日埼岑(ヒノミサキ)と別称する由縁だともいう。

 付言すれば、鳴鏑の矢とは比叡山から射し込む夏至の朝日の非喩であって、その意味で、松尾の神(オオヤマクヒ)は日神・天照御魂神(アマテルミタマ)でもあるといえる。

 磐座への登拜路途中の東に開けた見晴台から、正面に四明岳が望め(右写真)また、当社社殿は夏至の日の出方向すなわち四明岳の方向を向いている。
四明岳遠望
四明岳遠望(磐座登拜路・見晴台より)

◎市杵島姫神
 イチキシマヒメとは、アマテラスとスサノヲの誓約(ウケヒ)によって生まれた三女神の一柱で、古事記によれば、胸形(ムナカタ・宗像)の中津宮(在大島)に坐して海上交通を守護する海の神という。

 イチキシマヒメを祀る由緒として、上記・秦氏本系帳には、“戊辰の年(668か)に松尾の日埼峰(大杉谷の磐座か)に天下ったイチキシマヒメを、大宝元年(701)、ハタノイミキトリが現在地に勧請した”(大意)とある。

 筑紫・宗像に祀られる海の神であるイチキシマヒメが、遠く当社に祀られる理由は不詳だが、
 ・江家次第に、「大宝元年、秦都理、始めて神殿を建立し、阿礼を立てて斎子に供奉させた」(大意)とある。
 この“斎子”(イツキノミコ)は賀茂神社の“阿礼乎止女”(アレオトメ、神の御子を産む神の妻−巫女)と同じであり、賀茂のアレオトメである玉依姫(タマヨリヒメ)が神として下鴨社に祀られたように、当社のアレオトメであるイツキノミコも神として祀られ、斎島姫(イツキシマヒメ)→イチキシマヒメと転じたのではないか。
 ・渡来人である秦氏は、大陸・半島との関係が深かったことから、その道中安全を守護する道主貴(ミチヌシノムチ)としての宗像神を信奉していたのではないか、
 ・当社と関係の深い境外摂社・葛野坐月読神社の祭祀氏族・壱岐氏が宗像氏と深く関わっていたことから、イチキシマヒメの勧請には壱岐氏が一役かっていたのではないか、
 ・当時の神祇政策のなかで、宗像神と中央政権とのかかわりが深かったことから、中央政権の意向があったのではないか
などの諸説があるという(神社と古代民間祭祀・1989、大意)
 いずれも推測にしかすぎないが、最初にいうアレオトメとしての同質性はわかりやすい。

※社殿等
 阪急嵐山線・松尾駅の西改札を出た正面に朱塗りの一の鳥居が、民家に挟まれた参道を入った先に朱塗りの二の鳥居が立ち、表参道の先に二階建ての楼門(入母屋造・檜皮葺)が建つ。

 境内の略中央に拝殿(入母屋造・吹抜・檜皮葺)が、その奥、唐破風を有する華麗な釣殿(檜皮葺)と回廊に囲まれた神域内に本殿が建つ。
 栞によれば、
 「本殿は、大宝元年の創建以来朝廷や幕府の手で幾度も改築され、現在のものは室町初期に応永4年(1397)の建造、天文11年(1542)大修理を施したもの。 
 桁行三間・梁間四間の両流造り(屋根の流れが前後に同じ造り)で、松尾造りと称されている。国の重要文化財」(大意)
とある。

松尾大社/一の鳥居
松尾大社・一の鳥居
松尾大社/二の鳥居
同・二の鳥居
松尾大社/楼門
同・楼門
松尾大社/拝殿
同・拝殿
松尾大社/釣殿
同・釣殿
松尾大社/本殿(側面)
同・本殿側面(栞より転写)

◎末社
 社殿の北・渡り廊下をくぐった先に、
  ・北末社殿−−四大神社(シノノオオカミ社−春若年神・夏高津日神・秋比売神・冬年神−四季を司る神か)
            三宮社(玉依姫−巫女神)
  ・瀧御前社−−罔象女神(ミズハノメ−水神)
 渡り廊下の右前に
  ・祓戸社−−祓戸神(不明・セオリツヒメか)
 社殿の南に次の4祠が並ぶ
  ・衣手社−−羽山戸神(大年神の御子・山麓を司る神という)
  ・一挙社−−一挙神(神格不明)
  ・金刀比羅社−−大物主神
  ・祖霊社

松尾大社/北末社殿
北末社殿(四大神社・三宮社)
松尾大社/末社・瀧御前
末社・瀧御前社
松尾大社/末社・祓戸社
末社・祓戸社
松尾大社/末社
末社(金刀比羅社・一挙社・衣手社)

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