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水分神社(京田辺)
京都府京田辺市東鍵田12
祭神--水分神
                                               2019.11.29参詣

 近鉄京都線・新田辺駅の東南東約650m、駅南を東西に走る道路を東へ、川を渡り田辺高校前の二股道を斜め右に入り、防賀川に架かる水分橋を渡った2つ目の辻を右(南)へ入った右側に鎮座する。

※由緒
 境内に創建由緒等を記した案内はないが、拝殿左に立つ「改修記念碑」との石版に、
 「当神社は、文政年間(1818--30・江戸後期) 既に龍五社として この地に鎮座し、治水の神として在住の信仰を受けていた。
 明治28年(1895)、八幡社と天満宮を合祀して水分神社(ミクマリ)と改称し、氏神として村民の信仰特に厚く現在に至る。
 昭和43年(1968)、当東区共有地を田辺町立田辺東小学校用地として提供、この機に、その代価をもって本殿の改築・拝殿の新築・鳥居をはじめ境内の整備をし、住民の心のよりどことするため起工し、昭和46年(1971)3月2日に竣工したものである」
とある。

 今の当社は平坦な市街地の中に鎮座し水とは無関係とみえるが、当社の東約1kmに木津川が流れていることから、嘗ての当地一帯は流路が定まらない氾濫域であったと思われ、その氾濫防止とともに、周辺の田畑への安定した水の供給を願って水神を祀ったのが当社の始まりと思われるか、資料なく詳細不明。


※祭神
   主祭神--水分神(ミクマリ)
   合祀神--八幡神・天満神

 水分・ミクマリとは流水の分配を司る神で、“クマリ”とは“配り”を意味し、水を貯留する山中や、その水の平野への出口である山麓に祀られることが多い。
 水分神の出自について、古事記・神生みの段には、
 ・伊弉諾・伊弉冉両神が水戸(ミナト)の神、名は速秋津日子神(ハヤアキツヒコ)・速秋津比売神(ハヤアキツヒメ)を生みき
 ・この二柱の神、河海によりて持ち別けて生みし神の名は、・・・次に天之水分神(アメノミクマリ)・国之水分神・・・
とある(書紀での水の神は罔象女-ミズハノメ)

 昔の当社が水神である龍五神を祀ったというのは、木津川の坐す神を水を司る龍神として祀っていたということらしいが(龍五という意味は不明)、それを明治初年の神仏分離に際して、仏教色が匂う龍神を古事記にいう水分神へと変更したのものであろう。

 なお水分神は、後世になるとミクマリ→ミコマリ→ミコモリと変化し、子供の守護神(御子守神)として祀られることが多い。

 八幡神・天満神は明治28年の合祀によるもの。


※社殿等
 小道の西側に朱塗りの鳥居が立ち、短い参道を通って境内に入ると、正面に千鳥破風向拝を有する拝殿が建つ。
 周囲は民家に囲まれていて、この境内だけが鎮守の森となっている。

 拝殿内陣には、軍服姿の写真が数多く掲げられ、先の大戦で、氏子の中から多くの戦死者が出たことが窺われる。
 また拝殿と本殿を繋ぐ弊殿には、横位置の円棒(枡の上に盛り上がった米をすり切る斗搔き棒か)の下に一合枡を置いた絵馬が数多く奉納されている(本殿域を囲む塀にもみられる)。
 
この絵馬は全て米寿(88歳)を迎えた人からの奉納で、八十八が米の字に通じることから長寿の祝いとして、豊穣の象徴である枡を付した絵馬を奉納したものと思われる。


水分神社・社頭 
 

同・鳥居
 
同・拝殿
 
同・弊殿(奥:本殿正面)
 
同・奉納絵馬

 拝殿裏、弊殿を介して唐塀に囲まれた中が本殿域で、中に流造・瓦葺きの本殿が東面して鎮座し(塀が高く全体は見えない)、その中、紫色の幔幕の後ろに一間社流造らしい小祠が3社鎮座する。

 本殿内に小祠3社の中央が水分神で、
 幔幕向かって左の神紋が“梅鉢”であることから、その後ろの小祠は明治28年に合祀した天満宮だろうが、
 右の“一つ稲丸”は稲束を主体とする稲荷系神社の神紋であり、記念碑にいう八幡社(神紋は巴紋が普通)とは整合しない。


同・本殿 
 
同・本殿側面
 
同・本殿内陣の小祠

◎境内社
 本殿域の右外に、朱塗りの鳥居をもつ『金比羅宮』の小祠が東面して鎮座するが、鎮座由緒等は不明。

 
境内社・金比羅宮・鳥居
 
同・社殿 

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