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山城(久世郡)の式内社/水主神社
京都府城陽市水主宮馬場
主祭神−−天照御魂神以下10柱
相殿神−−大縫命・小縫命

                                                        2012.01.13参詣

 延喜式神名帳に、『山背国久世郡 水主神社十座 並大 月次新嘗 就中同水主坐天照御魂神・水主坐山背大国魂命神二座 預相嘗祭とある式内大社。社名は“ミヌシ”(ミズシとも)と訓む。

 近鉄京都線・富野荘駅の西約1.2km、木津川右岸堤防の近く、京阪奈自動車道・新木津川橋の右岸袂の南寄りに残る島のようにみえる叢林の中に鎮座する。

 外から社殿は見えず、叢林の周りに拡がる田圃の中に立つ一の鳥居と、その先・叢林の際に立つ二の鳥居が目標。
水主神社/一の鳥居

※由緒
 拝殿内に掲げる由緒には、
 「当社は往古より世に聞えたる名神大社なり。その祭神は天照御魂神(饒速日尊)・天香語山神・・・山背大国魂命の十柱にして、天照御魂神は即ち火明命にて氏の高祖なり。
 第十世・山背大国魂命にいたり山背に移り、大に其国に功烈あり。之を尊びて山背大国魂命という。其の子孫・山代水主連となり、世々其の祀を奉せしものなり」
とある。ただし、当社は久世郡唯一の大社ではあるが名神大社ではない。

 山代水主連(ヤマシロミヌシムラジ)とは、新撰姓氏禄(815)
 「山城国神別(天神) 水主直 火明命之後也」
とある氏族。

 火明命(ホアカリ)とは、記紀皇統譜によれば、アマテラスの御子・天忍穂耳命(アメノオシホミミ)の御子で、古事記・書紀(一書6)では天火明命(アメノホアカリ)、書紀(一書8)では天照国魂彦火明命(アマテルミタマヒコホアカリ)とある神。
 いずれも、天孫・ニニギ尊の兄神と位置づけており、加えて、書紀(一書6)には「天火明命の子・天香山は尾張氏の遠祖」と、書紀(一書8)には「天照国照彦火明尊は尾張氏の遠祖」とある。

 一方、先代旧事本紀(9世紀後半・物部系史書)では、アメノオシホミミの御子・天照国照彦天火明饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリニギハヤヒ、以下:ニギハヤヒという)とあり、ここから、ホアカリとニギハヤヒは異名同神という。なお、ニギハヤヒ四世の孫・瀛津世襲命(オキツヨソ)は尾張連の祖とあり、ここから尾張氏と物部氏とは同一氏族というが、本来は別であろう。

 社頭のかかげる主祭神・天照御魂神(アマテルミムスヒ)に(饒速日尊)と注記することからすれば、当社は物部系の神社となるが、厳密にいえば、物部氏はニギハヤヒが天降った後に生まれたウマシマジ命の後裔氏族で(古事記に、「ウマシマジ命は物部氏・・・の祖なり」とある)、当社祭祀氏族の水主氏はニギハヤヒが天上にいたとき生まれた御子・アメノカグヤマ命の後裔で、同じニギハヤヒを遠祖とするものの系統が異なる。その意味では、尾張氏系氏族とみるのが妥当であろう。

 ホアカリを遠祖とする諸氏族が記された系図として、京都府宮津市に鎮座する薦神社の社家・海部氏に二つの系図(本系図・勘注系図、9世紀後半頃成立、いずれも国宝)が伝わり、そこに記されている系図と略同じ系図が、先代旧事本紀(9世紀後半頃成立・物部系史書)にも記されている。

 その勘注系図および旧事本紀(天孫本紀)には
 「水主氏・雀部氏・軽部氏・蘇&博=E三富部氏は玉勝山代根子命(タマカツヤマシロネコ、ホアカリ9世の孫)の裔」
との注記があり、ここでいうタマカツヤマシロネコ命とは、由緒にいう山背大国魂命(ヤマシロオオクニタマ)と同一神という(由緒に10世孫とあるが、系図では9世孫)
 また、同系図の建田勢命(タケタセ、ヤマシロネコの曾祖父、旧事本紀には海部直の祖とある)の脚注には
 「孝霊天皇の御宇、丹波国丹波郷で宰(ミコトモチ・地方長官)と為って奉仕、その後、山背国久世郡水主村(当地)に移り座す。云々」
とあるという。

 この一族が丹波国から当地へ移ったのはタケタセ命の頃か後の世代かは不明だが、3代後のヤマシロネコ(ヤマシロオオクニタマ)の後裔氏族が当地一帯に多いことから、この世代までには移っていたと推測され、由緒が“山背大国魂命(玉勝山代根子命)にいたり山背に移り、云々”というのは、これをうけたものであろう。

 当地一帯には、当社の他にもホアカリ(あるいはタマカツヤマシロネコ)を祖とする氏族(尾張氏系)が関与する神社として、水度神社(三富部氏・城陽市寺田水度坂)・荒見神社(三富部氏・城陽市富野荒見田)・室城神社(榎室氏・久御山町下津屋)があり、唯一式内大社である当社が、その中心的存在だったと思われる。

 ただ、水主氏以下kホアカリの後裔氏族とされる氏族が当地に多いことについて、城陽市史(2002)
 「継体天皇が越国から河内・山背を経て大和へ進出した際、天皇に妃(目子媛)を納れていた尾張氏も勢力を畿内に伸ばし、尾張と大和を結ぶ交通路に位置する久世郡地域を掌握するために、同地域の有力氏族の一部を同族として組み込んだ結果と考えられている」
として、水主氏以下の諸氏は尾張氏系譜に組み込まれた在地の有力氏族と推測している。

 当社の創建年次は不明だが、城陽町史(1969)に、
 「水主氏とは、栗隈の大溝の入口に設けられた水門(井堰)の管理を司った」
とあり、栗隈大溝が、仁徳紀12年条にいう“南山城の栗隈県(クリクマノアガタ・現宇治市大久保付近という)に作られた大溝”とすれば、仁徳朝の頃に創建されたともとれるが、それを証する史料はなく、また古墳中期とされる仁徳期に常設の神社があったとは思えない。

 当社に関する国史上の初見は、文徳実録(879)
 「天安2年(858・平安前期)7月12日−−雨師・乙訓・水主・貴布祢神に宣命す、雨を祈る為也。夜に入って天陰り小雨」
とある記述で、次いで、三代実録(901)には
 「貞観元年(859)正月27日−−京畿七道の諸神の神階を進め、及び新に叙するもの、すべて267社なりき。・・・
                   山城国・・・従五位上水主神に従四位下を授け奉る」
 「同年9月8日 −−山城国・・・水主神・・・等に使いを遣りて弊(ミテグラ)を奉りき、風雨のために祈りしなり」
 「貞観8年(866)7月14日−−弊を・・・水主・・・の神等に班(ワカ)ち、風雨の順調なること、五穀の稔りが豊かなることを祈る」
 「同年11月18日−−山城国・・・従四位下水主神に従四位上を授けき」
とあり、9世紀には実在していたことが確認される。
 水を司る水神として、降雨・止雨を祈る祈雨神とされていたらしい。

※祭神
 当社の祭神十座は次のとおり。
 ・天照御魂神(アマテルミムスヒ・アマテルミタマ=火明命・饒速日命) ・天香山神(アメノカグヤマ) ・天村雲神(アメノムラクモ) 
 ・天忍男神(アメノオシオ) ・建額赤命(タケヌカアカ) ・建筒草命(タケツツクサ) ・建多背命(タケタセ) ・建隅命(タケモロズミ)
 ・倭得玉彦命(ヤマトエタマヒコ) ・山背大国魂命(ヤマシロオオクニタマ=玉勝山代根子命)

 これらの神々は、勘注系図(および旧事本紀)に記す遠祖・アマテルミムスヒ神(ホアカリ命)から直接の祖・ヤマシロオオクニタマ(ヤマシロネコ命)までの祖神10座を祀ったもので、中でも、アマテルミムスヒ・ヤマシロオオクニタマ2神は延喜式に“相嘗祭に預かる”との注記があり、この2神が重要視されていたことを示している。

 アマテルミムスヒの“ムスヒ”とは、“産巣日”・“産霊”とも記すように“生成・生育を掌る霊”であり、それに“天照”を冠することで成長・生育に必要な“日の神”(太陽神)を意味する。同じ日の神であるオオヒルメムチが皇祖神・アマテラスへと昇華する以前から、各地で祀られていた在地の日の神(国つ神)といわれ、火明命は本来・日明命であったと推測されることから、両神は同体と見られている。

 また、当社と式内・水度神社を結んだ線が夏至日の朝日の遙拝線と重なることから(日本の神々5)、当社には太陽神信仰があったと推測され、それは日の神としての火明命に通じるという。

 相殿神の大縫命(オオヌイ)・小縫命(オヌイ)とは、本殿に祀られている衣縫神社(キヌヌイ)の祭神で、上記由緒には
 「天地ひらけ豊組野尊(古事記の豊雲野尊トヨクモノ−神代七代の一柱か、神格不詳)のご神託にして、天照大神の時より衣類の女神の仕業として世に備れり。
 左右に座する二柱の神達は、神代天香語山命の御子・天村雲命より九世の孫にして、成務天皇の御宇、淡路国志賀の高穴穂の宮に仕え奉り、糸縫針の職業を主宰し給う。故に末代の今に至るまで、其職たる人達は此の大神を祖神として敬い奉り給う」
とある。
 勘注系図(旧事本紀)には、ニギハヤヒ十世の孫(=アメノムラクモ八世の孫)に、この両神の名があり、
 新撰姓氏禄には、「左京神別(天神) 衣縫造(キヌヌイノミヤツコ) 石上同祖」(「石上朝臣 神饒速日尊之後也」)
とあることから、同じ尾張氏(物部氏)系氏族の祖神として当社に祀られたのであろうが、その勧請時期など詳細は不明。

※社殿等
 叢林の際に立つ二の鳥居を入った先に、古びた横長の拝殿(割拝殿・入母屋造・間口八間半・奥行二間・瓦葺)があり、その奥の神域内、中門と透塀に囲まれたの中に本殿(流造・間口二間・奥行き二間半・檜皮葺)が鎮座する。
 割拝殿の通路部分が鉄格子で閉じられているため、神域内の詳細は不詳。

水主神社/二の鳥居
水主神社・二の鳥居
水主神社/拝殿
同・拝殿
水主神社/本殿
同・本殿

◎境内社
 拝殿背後の神域内に境内社4社が、左右2社ずつ鎮座している。

 樺井月神社−−祭神:月読命
 神域の左手前にある小祠だが、延喜式神名帳に、『山城国綴喜郡 樺井月神社 大 月次新嘗』とある式内社。
 古くは木津川の対岸・綴喜郡大住郷(現京田辺市大住)にあったが、寛文12年(1672・江戸前期)11月の洪水により被災したため、当社境内に遷したという(由緒等は別稿・「樺井月神社」参照)

 残る3社、野上神社(天穂日命)・金刀比羅社(大物主命)・稲荷社(倉稲魂命)が、どの小祠に該当するのかは不明。また、その勧請由緒・時期など不明。

水主神社/境内社・式内・樺井月神社
境内社/式内・樺井月神社
水主神社/境内社
境内社
(左:野上社、右:稲荷社)

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