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山城(久世郡)の式内社/水度神社
京都府城陽市寺田水度坂
祭神−−天照皇大神・高皇産霊神・和多都美豊玉姫命
                                

 延喜式神名帳に、『山城国久世郡 水度神社 鍬靫』とある式内社。水度は三度・水渡・三富とも記し、いずれも“ミト”と読む。

 JR奈良線・城陽駅の北北東約700m、駅の南・城陽市役所の北側道路を東進、大河原川(小川)を渡った鎮守の森入口に二の鳥居が立つ。

※由緒
 当社社頭にかかげる由来記には
 「創祀の年代は平安時代初期と伝う。史実によれば、清和天皇の貞観元年(859)正月、従五位下の神階を授かり、延喜の制には小社に列せられる」
とあるが、釈日本紀(鎌倉末期-13世紀末-成立と推定される日本書紀の注釈書)が引用する山城国風土記・逸文(713)には、
 「山城国風土記に云う 久世郡水渡の社(祇っ社)。み名は天照高彌牟須比命・和多都彌豊玉比売命」
とあり、由来記にいう平安初期(9世紀初頭)より早い奈良時代初期(8世紀初頭)には存在していたと思われる。

 上記由来記には、当社創建にかかわる記述はないが、城陽町史(1969)には
 「水度とは水処、すなわち水の侵しやすい処をいったものであるから、当社は水防の神として、または農耕の守護神として創祀されたものであろう。
 されば、かかる山の中腹にあって水とは一向縁のないのが訝しいが、これは別の処に祀られていたのを後世この地に遷したものであろう」
と記し、式内社調査報告(1979)
 「水主氏一族(火明命を祖とする一族-下記)が、当地一帯の治水作業の過程で本社が創祀されたものと思われる」
という。

 当社はいま、鴻の巣山(H=118m)から西へ延びる峰々の西端中腹に鎮座するが、由来記には
 「旧地は、境内領東に往古鴻が巣を結んだという鴻の巣山の、その峰つづきにあたる大~宮山(俗称:ダイジヤマ)にあったと伝う。現在の地へは鎌倉時代の文永5年(1268・鎌倉時代後期)に旧地より遷し奉り今日に及ぶ」
と、また水度神社勧請記(成立時期不明)には
 「文永5年当社地へ遷座、棟札旧地水度芝山と相唱候、且南坤方(南西方)字水度有之を今水度坂と相唱へ今は大和街道」
とあり、いずれも、鎌倉時代に現在地に遷座したという。
 大~宮山・水度芝山いずれが真なのか不明だが、同じとも解される。当社の東約700mにある鴻の巣山から西へのびる峰々の何処かであろう。

 また、当社に関与する古代氏族についても記されていないが、“水度”は“三富”のこととして、“三富部氏(ミトベ)が創建・祭祀にかかわったのでは”という(特選神名牒-1876・明治初期

 三富部氏とは、新撰姓氏禄(815)に、
 「山城国神別(天孫) 三富部 火明命(ホアカリ)之後也」
とある氏族で、同じ火明命の裔とされる海部氏(宮津・薦神社の社家)に伝わる勘注系図(伝885--89・国宝)には、
 「水主氏(ミヌシ)・雀部氏(ササキベ)・軽部氏(カルベ)・蘇宣部氏(ソガベ)・三富部氏は玉勝山代根子命(タマカツヤマシロネコ・火明命9世孫)の裔」
との注記が、また、ヤマシロネコの曾祖父にあたる建田勢命(タケダセ・火明命6世孫)の項は
 「孝霊天皇の御宇、丹波国丹波郷で宰(ミコトモチ-地方長官)と為って奉仕、その後、山背国久世郡水主村(現城陽市水主地区)に移り座す。・・・後更に大和国(葛木附近らしい)に移り座す」(大意)
との注記があるという(その後、その本流が尾張国に移り尾張氏−尾張国造−となったという)

 丹波国から当地へ移ったのが建田勢命か後の世代かは不詳だが、3代後のヤマシロネコの後裔氏族(尾張氏系)が当地一帯に多いことから、その世代までには当地に移っていたと推測され、これら後裔氏族が関与する式内社として、当社以外にも水主神社(水主氏、城陽市水主宮馬場)荒見神社(三富部氏・城陽市富野荒見田)室城神社(榎室氏・久御山町下津屋)がある。

 ただ、水主氏以下の諸氏がホアカリの後裔氏族とされることについて、城陽市史(2002)には、
 「継体天皇が越国から河内・山背を経て大和へ進出してくる際に、目子媛(メノコヒメ)を妃として納れていた尾張氏も勢力を畿内に伸ばし、尾張と大和を結ぶ交通路に位置する久世郡地域を掌握するため、同地域の有力氏族の一部を同族として組み込んだ結果と考えられている」
とあり、これが史実に近いかもしれない。

※祭神
 今の祭神は、天照皇大神(アマテラス)・高皇産霊神(タカミムスヒ)・和多都美豊玉姫(ワタツミ トヨタマヒメ)となっているが、
 ・天照高彌牟須比命(アマテルタカミムスヒ)・ワタツミ トヨタマヒメ命−−山城国風土記・逸文
 ・天照高御魂神(アマテルタカミムスヒ)・海神(ワタツミ)・豊玉姫命(トヨタマヒメ)−−延喜式頭注(皇学叢書-1927-所収)
ともいう。

 当社祭神は、延喜式では三座だが、風土記逸文に二座とあることから、逸文がいうアマテルタカミムスヒについて、
 ・アマテルとはアマテラスのこととする説−−神祇志料(1871・明治前期)
 ・天照国照彦火明命(アマテルクニテル ヒコ ホアカリ)とする説−−特選神名牒(1876)
 ・タカミムスヒに冠された美称とする説−−大日本地名辞書(1907・明治後期)
との説がある。

 神祇志料は“天照”の後に“大~”が、特選神名牒は同じく“国照彦火明命”が欠落したとみたものだが、式内社でアマテラスを祀る神社は皆無に近く、また当社の祭祀氏族が三富部氏と推測されることから、その遠祖・火明命の別名とされる天照国照彦火明命(火明命)とみるのが妥当であろう。

 三富部の祖神とされる火明命とは、記紀にいう皇統譜では天火明命(古事記・書紀一書6)・天照国照彦火明命(書紀一書8)とあり、先代旧事本紀では天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(アマテルクニテルヒコクシタマアメノホアカリニギハヤヒ、別名:ニギハヤヒ、先代旧事本紀)とある神で、いずれもアマテラスの孫(天孫・瓊瓊杵尊の兄神)という。

 これに対して、延喜式で三座というのは、風土記にいう天照高彌牟須比命を二座とみて祭神・三座としたもので、“祇っ社”(国つ神を祀る社)と注記することから、本来の祭神は天照彌牟須比命(アマテルミムスヒ、天照御魂神とも記すことが多い)と和多都美豊玉姫(水神)の二座ではないかとの説がある(日本の神々5・2000)
 アマテルミムスヒの“ムスヒ”とは、“産巣日”・“産霊”とも記すように“生成・生育を掌る霊”であり、それに“天照”を冠することで成長・生育に必要な“日の神”(太陽神)を意味する。日神・アマテラスが皇祖神へと変質する以前から、各地で祀られていた在地の日神(国つ神)といえ、それは葉栗氏の祖神・火明命(ホアカリ、火=日)にも通底する神である。

 和多都美豊玉姫のトヨタマヒメとは、記紀神話では、海神の娘(ワタツミは美称)でヒコホホデミ(山幸彦)と結ばれた神武天皇の曾祖母にあたる女神だが、ここでは水神(女神)を示す一般的神名として用いられたと解され、それは当社の始まりを水神信仰であったとする伝承とも整合する。

 これらからみて、当社祭神は奉祀氏族である葉栗氏(羽栗氏)の祖神・ホアカリ(=タカミムスヒ)と、河川水脈の安定と豊饒を掌る水神としてのトヨタマヒメと解することもできる。

※社殿等
 城陽市役所前の交差点を東に進んだ先(JR踏切の手前)に西面して一の鳥居が立ち、更に長い参道(約600m)が続く(両側に高木の並木がつづき、中央部は一般車道、南側歩道は板張り)。鳥居の傍らに「府社 水度神社」との石標が立つ。
 参道の突きあたり、小さな朱塗りの橋を渡り二の鳥居をくぐって、参道の緩やかな坂路を進んだ上に境内が広がる。

 深い森に囲まれた境内中央に拝殿(入母屋造・方二間・檜皮葺)が、その奥、唐破風で飾られた拝所と透塀に囲まれた神域内に、千鳥破風で飾られた向拝をもつ本殿(一間社流造・間口一間・奥行二間・檜皮葺)が、いずれも南面して鎮座する。
 本殿は文安5年(1448・室町後期)造営で、市内に現存する最古の建物という(社頭案内)。重要文化財(国指定)

水度神社/一の鳥居
水度神社・一の鳥居
水度神社/二の鳥居
同・二の鳥居
水度神社/拝殿
同・拝殿
水度神社/拝所正面
同・拝所正面
水度神社/社殿
同・社殿
水度神社/本殿
同・本殿

◎末社等
 境内および参道脇に末社10祠(一間社流造・檜皮葺)が点在するが、その鎮座由緒・時期等は不明。
 ・天満宮社(菅原道真) ・大神宮社(天照大神) ・八幡神社(神功皇后)
 ・松尾神社(火雷神) ・春日神社(天児屋根命) ・日吉神社(大山咋命)
 ・加茂神社(別雷神) ・厳島神社(市杵島姫命) ・稲荷神社(倉稲魂神)
 ・竜王神社(級長津彦、三戸丸社ともあるが、その神格は不明

 また、小さな鳥居と低い玉垣に囲まれた一画に、「天地神祇」と刻した自然石の石碑が立つ(H≒1m)
 天地神祇とは、天神地祇・あらゆる神々ということだろうが、何らの説明もなく詳細不明。 
水度神社/末社・松尾社
末社・松尾社
水度神社/天地神祇の碑
天地神祇の碑

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