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諸 羽 神 社
京都市山科区四ノ宮中在寺町
主祭神--天児屋根命・天太玉命
相殿神--八幡宮・伊弉諾尊・素戔鳴尊・若宮八幡宮
                                                          2017.01.28参詣

 京阪電鉄京津線・四宮駅の北西約400m、諸羽山(H=220m)の西麓に鎮座する。式外社

 駅南を東西に走る道路(旧東海道)を西へ、四ノ宮川を越えて三つ目の辻を右折(北へ)したすぐに、道路を跨いて一の鳥居が立ち、京阪京津線の踏切を越えJR東海道線をくぐって北進した突き当たりに鎮座する。

※由緒
 頂いた『諸羽神社略記』(以下、略記という)によれば、
  「本社祭神は天児屋根命・天太玉命にして、上古此の二柱の神禁裏御料・山科柳山(諸羽山の別名)に降臨坐しまし楊柳大明神と申す。
 抑も此の二柱の神は天孫降臨左右穂翼の神たるが故に両羽大明神(リョウハダイミョウジン)と奉称す。
 人皇56代清和天皇の御宇、貞観4年(862)禁裏御所より社殿を御造営、祢宜職を置かせられ神勤せしめ給ひ両羽大明神と唱え給ひ、山の名も両羽山と称するに至る。
 中古、後柏原天皇の御宇・永正年間(1504--21)より天児屋根命・天太玉命の二座の中央へ八幡宮を、又、左右に脇殿を設け、其の左に伊弉諾命を右に素戔鳴命・若宮八幡宮を配祀し以上六柱とし、両羽(リョウハ)の文字も諸羽(モロハ)と改称するに至る。
 往古禁裏より御造営の社殿は応仁の兵火で、その後御再建の社殿も、江戸時代中期・明和年間(1764--72)の大火で焦土と化し、建物及古記録等悉皆焼失せり。明和5年(1768)氏子中より広く募財して三度造営今日に至れり。(以下略)
とあり、社頭の案内には、加えて
  「古来、山科十八郷のうち四宮・安朱・竹鼻の産土神として親しまれている」
とある。

 また、山州名跡志(1711、山州名勝志ともいう)には
  「諸羽明神社
 毘沙門堂の東に在り、祭る所二所 天児屋根命・天太玉命
 按に、二神は高皇産霊尊の詔により天孫左右羽翼之臣と為す也。故に両羽(リョウハ)と名す。古く両羽と作り今諸羽(モロハ)と改む。
 当社を四ノ宮と号す。謂は山科郷には一・二・三・四宮在り、当社第四なる故に是を号す。土人産土神と為す」
とある。

 当社の創建年次について、案内にある“清和天皇・貞観4年社殿造営”がそれとみられるが、三代実録・清和4年段にそれらしき記事はみえない。
 ただ、社頭に掲げる今年の行事予定に、「5月7日 人安親王1145年遠忌」とあり、今年(2017)から1154年前といえば862年・貞観4年に当たり、貞観4年を以て当社創建とみてもいいのかもしれない。ただ、他に傍証となるものはない。


※祭神
 当社の主祭神天児屋根命(アメノコヤネ)・天太玉命(アメノフトタマ)とは、
 古事記・天石屋戸(アメノイワヤド)段に
 ・天児屋根命と天太玉命をして鹿の骨を灼いて神意を伺がわさせ・・・
 ・天太玉命が玉や八咫鏡などを掛けた賢木(サカキ)を捧げもち、天児屋根命が祝詞を唱え・・・
 ・(石屋とからアマテラスが顔を覗かせたとき)天児屋根命と天太玉命が八咫鏡をさしだしてアマテラスに見せ・・・
 ・(アマテラスが石屋戸を出たあと)天太玉命が石屋戸に注連縄を張って「この注連縄から中に入ってはいけません」と申しあげた
とあるように、アマテラスが隠れた石屋戸前で行われた祭儀の中心となった神で

 天孫降臨段に
 ・天孫邇々芸尊が天降ったとき、それに従った五伴緒(イツトモノオ)の神々の中に、天児屋根命(中臣連等の祖)・天太玉命(忌部首等の祖)が名を連ね、
 書紀によれば
 ・高皇産霊尊が、天児屋根命・太玉命に勅して「汝等二神は、天津神籬をもって葦原中国に降り、皇孫のために慎み祭れ」と命じられた(9段・一書2)
とあり、その後裔である中臣氏と忌部氏は宮中祭儀を分掌したという(その後、中臣氏に集中する)

 上記略記は、この2柱の神が当社背後の柳山(諸羽山・H=254m)に降臨されたのが当社の始まりというが、記紀によれば、2神は天孫・邇々芸尊に随伴して降臨したのだから、その地は日向とみるべきだろうが、これらは神話上での話であり、柳山降臨というのはつくられた伝承とみるべきであろう。

 当地について、資料によれば、
 ・天智天皇・近江朝にあっての山科の地は、奈良と近江とを結ぶ交通の要衝であって
 ・近江朝の重臣・藤原鎌足(614--69)が、当地に”陶原館”(スエハラノヤカタ)と呼ばれた邸宅を構えたとの伝承があるように(藤原氏家伝)、当地一帯は古くから中臣氏の勢力下にあった(日本の神々5)
といわれ、当社は、当地に居た中臣氏関連の人々その祖神を祀った社と推測される。

 なお、鎌足の陶原館には山科精舎(山科寺)と呼ばれた持仏堂があり、これが天武朝時代に飛鳥に移って厩坂寺と改称、平城京遷都後の興福寺へと変遷したといわれ、興福寺が藤原氏氏寺であることからも、当社と中臣氏(藤原氏)との関係が推測される。

 これに対して、天太玉命の後裔・忌部氏(後の齊部氏)と当地との関係、天太玉命が当社に祀られる由緒は不明。忌部氏が中臣氏と並んで宮中祭祀を携わっていたことから、同格の神として祀られたのかもしれない。

 当社社名は、略記にいうように、古くは“両羽”と記したといわれ(山科家礼記・1480)、永正年中(1504--21・室町中期)の八幡宮(応神天皇)・伊弉諾尊・素戔鳴尊・若宮八幡宮の合祀以降、“諸羽”と改めたという。

 当社が両羽と呼ばれた由縁は、山州名跡志に
  「祭る所二座 天児屋根命・天太玉命、案ずるに二神は高皇産霊尊勅を以て、而して天孫左右羽翼之臣と為す也。故にモロハと名づく、古くは両羽に作る、今改めて諸羽と為す」
とあるように、天孫降臨以降、天児屋根命・天太玉命が羽翼の臣として天孫(天皇)を補佐する役割(宮中祭祀の司祭)をもっていたことによるもので、そこに四座の神が合祀されて六座になったことから諸羽(多くの神々)と改称したのであろう。
 ただ、八幡宮以下4社を合祀した由緒等は不明。

※社殿等
 旧東海道から一の鳥居を入り、民家に挟まれた参道を進み、JR東海道線のガードをくぐった先に二の鳥居が立ち、境内に入る。
 境内正面奥に割拝殿(入母屋造)が建ち、
 その後ろ、中門と透塀で区画された奥が本殿域で、弊殿に接して朱塗りの本殿(三間社流造、正面に一間の向拝が付く)が建つ。

 
諸羽神社・一の鳥居
 
同・二ノ鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿
 
同・本殿(正面)
 
同・本殿(側面)

◎末社
 本殿の左奥に、末社・天満宮と稲荷社の2宇が鎮座する。
 一見、合祀社と見えるが社殿は2宇に分かれている。表示なく、左右のいずれが天満宮・稲荷社かは不明。
 両社の鎮座由緒等は不明。


末社・鳥居 
 
末社2宇 

◎その他
 境内左手に井戸があり、その傍らに磐座・琵琶石がある。
 石名のみの表示で詳細不明だが、枇杷石はやや平たい石で、琵琶の名手だったという人康親王が、この石の上で琵琶を弾じたのかもしれない。

     

※四ノ宮
 略記等には何らの記述はないが、当社は古く、“四ノ宮”とも呼ばれていたという。
 今、当社の鎮座地を四宮中在寺町というが、当社からJR線・京阪京津線の南にかけての一帯は、古くから四ノ宮と呼ばれた地区で、今も四ノ宮○○町という地名が広がり、京阪・四宮駅の西から西南方に向かって四ノ宮川が流れているなど、社名・四ノ宮は地名・四ノ宮に因むものと思われる。

 社名・地名にいう四ノ宮の由来については幾つかの説があるが、通説とされるのは、
*仁明天皇第四皇子・人康親王(サネヤス・831--72・平安前期)に因むとする説で、
 山州名跡志に、
  「山科宮  此の辺り、仁明天皇第四の御子・人康親王の御所なり、今十禅寺の傍ら石橋の西北也」
とあるように、当地付近に仁明天皇四の宮・人康親王の別邸(山科宮)があったことから、当地を四ノ宮と呼び、当社を四ノ宮社と呼んだという。(十禅寺--下記)

 人康親王とは仁明天皇(54代)の第四皇子で、光孝天皇(58代)の異母弟。最終官位:四品・弾正尹(長官)兼常陸太守。
 親王は貞観元年(859、30歳前後)に病(眼を病み失明したという)を理由に出家(法名:法性)、諸羽山の麓・四ノ宮に隠遁し、その別邸は当社の南(四ノ宮泉水町)にある十禅寺の辺りにあったという。貞観14年(872)逝去、42歳。

 三代実録(901)・貞観元年5月条に
  「詔あり、『人康親王、その官爵を辞して釈侶(シャクリョ)に帰す。宜しく國康親王に准(ナラ)ひて其の品封(ホンフ)を収むべし。
 親王は仁明天皇の第四子なり。承和15年(847)正月、四品に叙せられ、上総太守に拜せらる。仁寿2年(852)、弾正尹に遷り、斎衡4年(857)、常陸守を兼ぬ。
 親王少年の時より大乗道(ダイジョウドウ・仏教)に帰せんの意あり。今、病と謝して本懐を遂げき」
とあるが、失明との記述はない。

 親王は病(失明)のため隠遁というが、古代にあっては、失明などの不治の病(特にハンセン病)に冒されることは、前世現世で犯した業(穢れ)によるものとして地域共同体から追われたといわれ、親王の隠遁が失明によるものであれば、失明という業を忌避されて宮廷を追われたためともとれる。

 伝承によれば、親王は琵琶の名手だったといわれ、隠遁後は周りに失明の琵琶法師等が集まって教えを乞い、後に彼等に検校・座頭などの位を与えたといわれ、江戸時代には当道(座頭・琵琶法師等)の祖とされたという。
 なお、能に蝉丸という曲があり、延喜天皇第四皇子で琵琶の名手だった蝉丸が失明して逢坂山に追われ云々と謡うが、その蝉丸とは人康親王をモデルにしたものともいう(別稿・能蝉丸と蝉丸神社参照)

 なお、親王は伊勢物語(平安初期)に“山科法親王”の名で登場し(法親王とは出家後の呼称)、大略
  「右大将藤原常行(836--75)という人が、異母妹・多賀幾子(タカキコ・文徳天皇の女御・858没)の仏事の帰りに、山科法親王の瀧や河を面白く構えてある御所に立ち寄ったところ、親王はたいそう喜ばれて・・・」
とあり、そのお礼として常行が見事な庭石を親王に贈ったとある。
 この訪問は、親王の失明・隠遁の前年・天安2年(858)のことであり、親王隠遁以前から山科の地に見事な庭を構えた別邸があったことを示している。

 これに対して、次のような説もある。
*山科郷内の社格によるとする説
   山州名跡志に、「山科郷には一ノ宮・二ノ宮・三ノ宮・四ノ宮があり、当社は第四の宮に当たる」というが
   一ノ宮~四ノ宮がどういう社格をもつ、どの神社だったかは不明。

*四宮を宿(シュク)とみる説
  この説は、四宮をシクと読んで、それは宿(シュク)から変化したとするのだが、宿(夙)について、柳田国男は
 ・シュク(宿)の元の音はおそらく“スク”で、都邑の境または端れを意味し、具体には村はずれ・河原・坂・峠などを指す
 ・そこは人の住むには適しない辺境の地で、神とか聖霊といった霊的なもの(宿神・夙神)が往来し居着く聖なる場所とされていて、民俗学では境界の地という。
 ・そのような境界の地には、一般社会から阻害・排斥された人々(不治の病に罹病した人・遊行芸能者・一般放浪者など一般社会とは縁が切れた無縁の人)が集落をつくって生活していたが、集落を宿(後に夙を充てる)、住民を宿人・夙人(シュクウド)と呼んだ
という(大略)

 四宮(シク)を宿(シュク)とみるのは、人康親王の周りに集まったとされる琵琶法師などを、社会から疎外された無縁の人(宿人)とみて、当社近くの四ノ宮河原にそれら無縁の人々が集まる宿があったとみての説であろう。
 しかし、中世以降に宿・夙と呼ばれる無縁の地があったのは確かだが、平安初期の四宮河原を宿とする認識あるいは実態があったかどうかは不詳で、四宮(シク)=宿(シュク)説は後世になっての付会とみるべきかもしれない。

 なお、平安時代の四ノ宮川には広い河原があったというが、今は密集民家の間を流れる石張り護岸の小川に変じ河原があった面影はない。
 ただ、橋から少し西へ行った南側に四ノ宮南河原町との町名があり、河原があった痕跡を残している。

※十禅寺
 人康親王の山科御所があった跡という十禅寺とは、当社の南・JR東海道本線の南にある寺で(旧東海道・四ノ宮川を西に渡ったすぐの辻を北へ入った突き当たりある)
 入口脇の案内には
  「楊柳山と号する本山修験宗、聖護院門跡の末寺である。
 平安時代の859年(貞観元年)、仁明天皇の第四の宮・人康親王を開山として創建された。この辺りが『四ノ宮』と呼ばれる所以となったといわれている。
 また『泉水町』という当地の地名は、その頃、ここに大きな泉があったためとも伝えられる。
 更に、人康親王の庵が山科御所と呼ばれていた名残が、京阪電鉄四宮車庫の辺りを“堂後町”、当寺の南の“垣の内町”及び“南河原町”という町名に見ることができる。
 度々の戦火にかかり荒廃したが、1655年、霊夢を見た明正天皇によって再興された。(中略)
 境内の東北隅の木の下に、開山・人康親王の廟がある。(以下略)
とあるが、この寺と山科御所との関係ははっきりしない。

 案内にいう当寺の創建年次と人康親王隠遁時期が同じことからみると、あるいは親王の在所・山科御所を親王没後に寺とし、人康親王開山と称したのかもしれない。

 
十禅寺・入口
 
同・本堂

※人康親王の墓所
 十禅寺の東隣、駐車場と民家に挟まれて狭い通路が北へ延び、JR線に突き当たって左に曲がった先(十禅寺東北隅の境外)に『仁明天皇皇子 人康親王御墓』との墓所がある。
 傍らに立つ宮内庁の案内にも『仁明天皇皇子 人康親王御墓』とあり、資料(天皇陵総覧・1994)にも親王の墓所は当地にあるという。

 正面に簡単な鉄格子門をもつ墓所は、植え込みの中に小型の法篋印塔(ホウキョウイントウ)が建つだけの簡素なもので、整備が行き届かないためか印塔は斜めに傾いている。

 
人康親王墓所への入口
(突き当たりの左が墓所)

 
墓所正面
(右前に「仁明天皇皇子 人康親王御墓」
との石柱が立つ)

 
法篋印塔

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