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山城(乙訓郡)の式内社/向神社
現向日神社
京都府向日市向日町北山
主祭神−−向日神
                                                       2011.05.14参詣

 延喜式神名帳に、『山城国乙訓郡 向神社(ムカヘ)』とある式内社だが、同じ式内社・『乙訓坐大雷神社(オトクニニマス オオイカツチ・乙訓坐火雷-ホノイカツチ−神社とも書く・以下「火雷神社」と記す) 名神大 月次新嘗』を併祭している。なお式内・乙訓坐大(火)雷神社には、論社として角宮神社(スミノミヤ・長岡京市井ノ内 )がある。
 現在の社名・“向日”は“ムコウ”と読むが、参詣の栞の祭神名には向日神・“ムカヒ”とルビが振ってある。

 阪急京都線・西向日駅の北西約800mに鎮座。駅西側から大極殿通りを北へ、大極殿交差点を左(西)へ、五辻交差点を右(北)へ、旧西国街道(現アストロ通り・府道67号線)を進んだ左側に鳥居が立つ。

 当社が鎮座する向日山は、南北に延びる向日丘陵南端の尾根にあたり、付近一帯は弥生中・後期の集落跡といわれ、当社の北に隣接して、京都盆地で最古といわれる元稲荷古墳(前方後方墳・全長約94m・前方部巾約46m・高さ約3m・後方部約52m・高さ約7m・実線南北方向・3世紀末〜4世紀前半)があり、その墳丘部が勝山公園として残されている。

※由緒
 当社の創建年次は不明だが、三代実録・貞観元年(859)正月27日条に、“正六位上向神を従五位下に進む”とあり、9世紀前半以前からの古社であることは確かといえる(この時、乙訓火雷神も正五位下から従四位下に進んでいる)

 当社の創建由緒について、向日二所社御鎮座記(879)には
 「神スサノヲの御子・大歳神(オオトシ・大年神)と神イクスビ命の娘・カヨヒメとの御子である御歳神(ミトシ・御年神)が、国を作り堅め終わって住むべき国を求められた時、此の峯に登って、朝日直指(タダサ)す地、夕日の日照る天離る向津日山は、吾が欲する地なり。永く此の国に住もう、と謂われた。
 神名加豆戸辺(ナカヅトベ?−葛野連等の遠祖〉が御田を奉り、社殿を造り奉って朝夕奉仕した」(漢文意訳・大意)
とあり(式内社調査報告・1979)

 当社参詣の栞は、これを簡略化して
 「向神社の創立は、大歳神(オオトシ)の御子・御歳神(ミトシ)がこの峰に登られたとき、これを向日山(ムカヒヤマ)と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより、御歳神を向日神(ムカヒノカミ)と申しあげることになった。社伝によると、養老2年(718)である」
という。

 栞末尾によれば、当社創建は養老2年のともとれるが、当社旧聞抄との古文書に、
 「養老元年に社殿大破、同2年仮殿から上社(向神社)の御樋代(ご神体)を新社に遷し奉る」
とあり(式内社調査報告)、社殿再建時期を創建時期と誤認したものらしい。

 併祭されている火雷神社について、参詣の栞は
 「神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まわれたとき、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祀られたのが創立である。
 両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社(カミノヤシロ)、火雷神社は下ノ社(シモノヤシロ)と呼ばれていた。養老2年(718)社殿改築遷座の折、火雷大神の妃神・玉依姫命を、また創立の因縁により神武天皇を併祭し、建治元年(1275・北条執権期)、下ノ社社殿荒廃により上ノ社に併祭、以降下ノ社の再興がならず、上ノ社に上記4神をお祀りし、向日神社として今日に至っている」(大意)
というが、この弊祭の経緯について、旧聞抄によれば
 「向神社と火雷神社とは本来別社であったが、承久の変(1221)に火雷神社の神主六人部(ムトベ)氏義が天皇方に組して敗れ、その子孫が丹波に隠棲した。曾孫氏貫の代に至り、建治元年(1275)旧里に戻ったが、社殿の頽廃はげしく、向神社の神主葛野義益の建議によって、火雷神社の樋代を向日神社に納めた」(大意)
という(式内社調査報告)

 火雷神および火雷神社については、別稿・乙訓坐大雷神社参照。

※祭神
 当社祭神・向日神は御歳神(御年神)のことという。御年神とは古事記のみに登場する神で、系譜的にはスサノヲ命の御子・オオトシ神、その御子・ミトシ神と続き、オオトシ神・ミトシ神いずれも穀物守護の神とされる。

 大年神・御年神の“大”・“御”は尊称で、両神の本姿は“年神”(歳神・トシガミ)である。
 年神とは、民俗学的には“正月様”・“歳徳様”(トシトクサマ)・“恵方神”(エホウシン)など地方によっていろんな呼び名があり、正月にやってくる神が年神と呼ばれ、人々が年神を迎え、その年の幸せ(豊饒)を祈るのが“お正月”である。旧正月15日に訪れる秋田県男鹿半島の”ナマハゲ”、あるいは折口信夫がいう“マレビト”(来訪神)なども年神のひとつといえる。

 また、古く、稲の播種から収穫までを一年とみたことから、“年”(トシ)とは“穀物の熟成”すなわち“稔り”に通じるとされ、“年神”とは“穀物の豊穣”、特に“稲の稔り”を司る農耕神であって、そこから、春になって山から下りてきてその年の稲作の豊饒を見守る“山の神”・“田の神”であり、子孫の豊かさ(幸せ)を見守り守護する“先祖の霊”でもあるとも理解されてきた。

 民俗学者の柳田国男は、一年を守護する神・豊作を守護する田の神・家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な世俗神・民俗神が年神であるという。

 農耕神としての御年神にかかわって、古語拾遺には次の話が載っている。そこには
 「太古の昔、大地主神が田植に際して人々に牛の肉を食べさせたため、田にイナゴが湧いて苗が枯れてしまった。その理由を占ったところ御年神の怒りと出たので、これを詫び、その教えに従って白猪・白馬・白鶏を献じて祀り怒りを解いたところ、苗が再び茂り豊作となった」(大意)
とあり、御年神とは稲作の豊饒を左右する力を持つ 神という。

 この御年神の神格からいって、当社は、古くからの素朴な農耕神信仰、所謂、山の神・田の神信仰を原姿とし、ある時期になって御歳神の名を加上したものと思われる。
 また、御歳神は系譜的には出雲系の神とされているが、その穀神・農耕神というその普遍的な神格からみて、出雲の遠祖・スサノヲに結びつける必然性はない。そこからみて、当社の祭神・御歳神は当地一帯で崇敬されていた山の神・田の神とみることもできる。

 なお向日神について、本居宣長は古事記伝(1798)に中で、
 「白日神(大年神の御子) 白の字は向の誤りにて、牟加比(ムカヒ)なるべし。その故は、式に、山城国乙訓郡向神社・大歳神社(京都市西京区大原野にある)と並び載れり。この向神社は大年神の御子向日神を祀ると云ふ。何れの説も同じければなり。(大年の子の中に向日神と云は、何れの古書にも見えぬ神なるに、然云ふは、なかなかに古き伝へなることいちじるし)
として、向日神は古事記・大年神神裔条にいう白日神としている。
 白日神の神格は不詳だが、その字面から“農耕に必要な輝く太陽神”ともいわれ、その意味では農耕神・御歳神と同じ神といっても違和感はない。

 なお、併祭されている火雷神社の祭神は、火雷神・玉依姫尊・神武天皇となっている(別稿・乙訓坐大雷神社参照)

※社殿等
 旧西国街道から長い参道(約200m)を西へ進んだ先に鳥居が立ち境内に入る(参道南側は市立向陽小学校)
 境内中央に舞楽殿(入母屋造・瓦葺)、その背後に拝殿(入母屋造・瓦葺き)、透塀に囲まれた神域内に本殿(流造・瓦葺・国指定重要文化財)が鎮座する。透塀が高くて中はよく分からない。

向日神社/鳥居
向日神社・鳥居
向日神社/舞楽殿
同・舞楽殿
向日神社/拝殿内陣
同・拝殿内陣
向日神社/拝殿
同・拝殿
向日神社/本殿
同・本殿

◎境内社
 境内には幾つかの境内社が点在する。
 まず本殿右手に
 ・春日神社(武甕槌神・斎主神・天津児屋根尊・姫大神)
 ・五社神社(大己貴神・武雷神・別雷神・磐裂神・事代主神)
 左手に
 ・御霊神社(伊耶那岐尊・伊耶那美尊)
 参道右手に
 ・勝山稲荷社(倉稲魂命・宇迦之御魂神)
 ・天満宮(菅原道真・大歳神・屋船神)
 境内西端近くに
 ・増井神社(火雷大神の荒御魂・ご神体:井戸−社殿脇に由緒記があるが墨がかすれていて判読不能)
が鎮座するが、いずれも鎮座由緒・時期等不明。
 なお、本殿背後には約170年前(江戸後期)まで本殿があった“鶏冠木の苑”(カエルデノソノ)が広がっており、また役行者を祀る石祠などがある。

向日神社/境内社・春日神社
春日社
向日神社/境内社・五社神社
五社神社
向日神社/境内社・増井神社
増井神社
向日神社/境内社・勝山稲荷社
勝山稲荷社

◎御旅所
   向日市上植野町西小路
 阪急京都線・西向日駅の南南東約500m、上植野公民館の西隣に“上植野御旅所”がある。
 参詣の栞によれば、
 「当社の祭礼は、毎年5月の第2日曜日(本来は5月の辰の日)に、ご神体を本社から鶏冠井(カイデ)御旅所(向日市鶏冠井町)を経て、当御旅所に遷す神幸祭に始まり、御旅所から各地区を巡幸して本社にお帰りになる還幸祭で終わる」(大意)
とある。
 参詣した日が、たまたま神幸祭初日に当たっていたため、神輿に乗せた御神霊が御旅所に鎮座され、氏子が集い、子供神輿が安置されるなど賑わっていた。

向日神社/御旅所・鳥居
御旅所・鳥居
向日神社/御旅所・社殿
同・社殿
向日神社/御旅所に鎮座する神輿
御旅所に鎮座する神輿

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