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山城(久世郡)の式内社/室城神社
京都府久世郡久御山町下津屋字室城
祭神−−邇邇芸命・須佐之男命・大雀皇子命・迦具土之命
                                                     2012.06.11参詣

 延喜式神名帳に、『山城国久世郡 室城神社』とある式内社。社名は“ムロキ”と読む。

 近鉄京都線・大久保駅の西約3.5km。駅前から京阪バス・京阪淀行で下津屋下車、南に降った木津川右岸堤防に接して鎮座する。周囲の殆どに民家が建ち並び、当社域のみが鬱蒼とした鎮守の森に覆われている。

※由緒
 社頭にかかげる由緒によれば、
 「当社は、聖武天皇(724--49)の神亀年間(724--29)、近国に大洪水があり、民衆が飢えていた時、勅して天神地祇をこの地に奉祀したのが始まりとされる。
 また同天皇の御代、悪疫流行に際して、当社に弓矢を献奉して、その退散を祈願された。今に伝わる春祭(矢形餅神事)の起源とされ、神事では弓矢を象った特殊神饌が供献される。
 また、寛永7年(1630)、木津川の堤切れにより、当社の壮大な社殿は諸記録と共に流出した。その後再建された社殿は規模が縮小され、今なお仮殿であると伝えられている」
という。

 由緒は、聖武天皇の御代、近国に洪水があり民が飢えたというが、続日本紀(797)・聖武天皇紀に之を示唆する記録は見当たらない。
 ただ、聖武朝を通じて毎年のように天災地異(地震が多い)・疫病流行などが起こり、その都度神祀りがおこなわれたとあり(天平9年-737-5月条には、4月以降、疫病と旱魃が並び起こったので、天神地祇に供物を捧げて祈願したとある)、当地にも類似の伝承があったのかもしれない。

 上記由緒は当社創建にかかわる氏族など記していないが、神名帳考証(1713・江戸中期)によれば、
 「室城は室樹のことで、当社は古代豪族・榎室連(エムロ ムラジ)がその祖先を祀った社ではないか」
という。

 榎室連とは、新撰姓氏禄(815)
 「左京神別(天孫) 榎室連 火明命(ホアカリ)十七世孫・呉足尼(クレノスクネ)之後也
   聖徳太子に御杖代として仕え奉った。太子が山代国に巡幸された時、古麻呂の家が久世郡水主村にあり、その門に榎の大樹が茂っていた。これをご覧になった太子は、『この樹は、大雨も漏らさない室のようだ』として、榎室連の姓を賜った」(大意)
とある氏族で、聖徳太子に付託されたエピソードにちなんで、榎室連が奉祀する社に室樹→室城の社名が付けられたという。
 
 当社が属する久世郡には、水主連(水主神社祭祀氏族)をはじめとして火明命(ホアカリ)を祖とする幾つかの氏族があったというが、城陽市史(2002)には、
 「当地に火明命の後裔氏族が多いのは、継体天皇が越国から河内・山背を経て大和に入った際、天皇に妃を入れていた尾張氏(火明命を祖神とする有力氏族)も、尾張と大和を結ぶ交通路に当たっていた当地に進出し、在地豪族の一部を一族の中にに取りこんだのではないか」(大意)
とある。
 榎室連氏も、その頃に組み込まれた在地の豪族かと思われ、久御山町史(1969)
 「榎室連氏も水主郷を本拠地とする氏族で、姓氏禄に載る聖徳太子と古麻呂にかかわる伝承は、王権との繋がりもうかがわせる話だが、一族の動向は他の資料には認められない」(大意)
とあるように、その実体は不詳。

 当社に残る矢形餅神事とは、
 「山背国に疫病が流行した時、聖武天皇が疫病退散祈願のため当社へ参拝され、その時の供物を村人が食べたら疫病が平癒した」
との故事に因んだ神事で、春祭りに際して、矢形に切った餅を神前に供え(矢は悪霊・疫神の除却に験があるとされた)、そのお下がりを腹痛のまじないとして参詣者に配ったという(式内社調査報告)
 上記由緒によれば、この神事は今も続いているようだが、神事次第など詳細は不明。

 由緒には、寛永7年の洪水によって社殿等が流失するまでは、字・室ノ木にあったというが、式社考徴(成立時期不明)には、
 「(室城神社)下津屋邑郷内に在り、字室ノ木と云あり。・・・寛永7年洪水につき社地流失す。因て今の地に移したる由」
とあり、久御山町史には、室ノ木の地は当社の南にあったが、大正3年(1914)の木津川改修工事により買収され、現在は木津川の底になっているという。

◎水主の室城神社
 当社はいま久御山町内にあるが、東隣の城陽市内にも室城を名乗る小社があり、城陽市史(2002)によれば、
 「現城陽市域の水主北垣内集落内の、(姓氏禄にいう)古麻呂の家の跡と伝える処に室城神社と称する小規模な神社があり、同地域にある式内・水主神社の境外摂社となっている」
という(ただ、水主神社に関する資料の中に、当社の名は見えない。別稿「水主神社」参照)
 この水主の室城神社と当社との関係は不詳だが、当社が榎室氏に関係する神社であるとすれば、この水主の地から室ノ木に遷り、更に現在地に遷ったのかもしれない。

 今、近鉄京都線・富野荘駅の西約800mほどの水主・北垣内集落の西寄り(木津川寄り)、法念寺北側の角を東へ入り、すぐの路地を北(左)に入った右手に、三方を民家に囲まれた狭い社域があり、室城神社の小祠と、やや大きい金刀比羅宮の祠が南面して並んでいる。
 今の地元では“コンピラさん”として親しまれているようで、室城神社と聞いても知っている人は少ない(地図に表示なく、細道路が輻輳していて見つけにくい)
 当地を古麻呂の家跡とするのは不確かな伝承だろうが、室城神社小祠の前に大きな古木の切株があり、姓氏禄にいう“榎の大木”の何代目かであれば面白い。

水主の室城神社/鳥居
水主の室城神社・鳥居
水主の室城神社/室城社・小祠
水主の室城神社
水主の室城神社/小祠2基
左:金刀比羅宮、右:室城社
水主の室城神社/境内
同・境内
(室城社の前に大きな切株がある)

 これらを踏まえてか、式内社調査報告は、
 「明治初期には水主の室城神社が式内社ではないかとされたこともあるが、結局無格社となった。(水主の小祠は)現在水主にある式内社・水主神社の境外摂社として扱われ、久御山町室城に鎮座する室城神社が明治10年式内社であると決定された。
 室城と水主両地区に同名の室城神社が凡そ4・5km離れて存在することは、両社の交流が当然考えられる。
 水主より室城へ勧請されたことが想定されるが、断は下せない」
という。

 なお、当社は明治10年に式内・室城神社と決定されているが、久御山町史によれば、当社の他に
 ・城陽市平川東垣内(近鉄京都線・久津川駅横)にある平井神社
 ・宇治市白川娑婆山(宇治市南部)にある白山神社(山城志-1734・山背名跡巡行志-1754)
とする説があるという。ただ、他に之を採る資料なく詳細不明。 

※祭神
 今の祭神は、上記のように
  邇邇芸命(ニニギ)・須佐之男命(スサノヲ)・大雀皇子命(オオササキ・仁徳天皇)・迦具土命(カグツチ・火の神)
の4座となっているが(神社明細帳・1883)、延喜式には祭神一座とあり、それがニニギ以下の4座となった由緒・時期は不明。
 また、現祭神4座はぱらばらであって関連性はなく、主祭神がどの神か不明。そこから、祭神不明とする資料(特選神名牒・1876)もある。

 当社の祭祀氏族・榎室氏に関連する神(祖神・火明命か)が本来の祭神かと思われるが、確証はない。
 ただ、当社は火除けの神として信仰されているともいう(式内社調査報告)。火明命の別名・天照御魂神(アマテルミタマ)は日神(太陽神)であることから、これを火の神とみて、同じ火の神であるカグツチへと変わったとも推測される。

※社殿
 木津川右岸堤防沿いの道路に接した境内南西角に鳥居が、傍らに「式内 室城神社」(明治39年建立)の石標が立つ。
 参道奥を左折した境内中央に拝殿(入母屋造・方二間・瓦葺)が、その奥、拝所と透塀に囲まれた神域内に本殿(三間社流造・間口三間半・奥行二間・銅板葺)が、それぞれ南面して鎮座する。

 神社明細帳(明治16年・1883)によれば、「本殿は梁行八尺五寸・桁行五尺五寸」とあって現本殿と比べて規模が小さく、これが由緒にいう仮殿だろうが、式内社調査報告によれば、現本殿・拝殿は共に“昭和9年(1934)の改築”とある。

室城神社/社頭
室城神社・社頭(道路の反対側は堤防)
室城神社/鳥居
同・鳥居
室城神社/拝殿
同・拝殿
室城神社/拝所
同・拝所
室城神社/本殿
同・本殿

◎末社他
 境内末社として、住吉社(住吉三神)・稲荷社(倉稲魂命)の2社がある。
 住吉社について、久御山町史は
 「当社が鎮座する下津屋は、古くから木津川の舟運の津(港)として発達した集落と考えられ、それ故、津を守護する神である住吉神社を祀ったものであろう」
という。

 参道の中程に、「愛宕常夜燈 明治四十二年(1909)五月建之 西之町」と刻した小さな常夜燈が立つ。当社祭神の中に火の神・カグツチが祀られていることと併せて、当社に火除けの神である愛宕信仰があったことを示唆している。
 また、実見していないが、本殿前には「牛頭天王 天明七年(1787)三月吉日」との石燈籠が、社務所近くには、文政十三年(1830)銘の弁財天石祠があり、疫病や水難から村を守ろうとした人々の信仰の一端がうかがわれるという(式内社調査報告)

室城神社/末社・住吉社
末社・住吉社
室城神社/末社・稲荷社
末社・稲荷社
室城神社/愛宕常夜灯
愛宕常夜燈

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