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野ノ宮神社
京都市右京区嵯峨野宮町1
祭神--野宮大神(天照皇大神)
                                                   2020.12.08参詣

 嵐電(京福電鉄)終点・嵐山駅の北西約450m、嵐山・渡月橋から天龍寺門前道を北へ進み、バス停・野宮神社前の角を左(西)へ、嵯峨野の竹林内の小路を道なりに進み、竹林が途絶えた処の左側に鎮座する。

※由緒
 頂いた参詣の栞(別刷りの一枚物)には、
 「野宮は古来、伊勢神宮に天皇の代理として奉仕する皇女又は王女が伊勢発向の前に一年間を潔斎のため居住された処であって、平安・鎌倉時代は嵯峨野の清らかな処が選ばれ、それは黒木の鳥居と小柴垣に囲まれた清浄なところてあった。
 歴代天皇は御即位のたび毎に未婚の皇女(又は王女)を卜定によって選び、伊勢神宮に差遣されたたが、これを斎宮(イツキノミヤ)とも一名斎王(イツキノミヤ)ともいった。

 嵯峨野における野宮での潔斎生活は滿一年で、卜定後、三年目の9月には野宮を出て河水にて修祓して京に入り、天皇に別れを告げられた。
 この時、天皇は斎王を召して親しく黄楊の櫛を加えられ、京の方に赴き給うなと内勅を下し給われ、親子の別離をなされたのであるが、これを『別れの小櫛』と呼ばれた。

 宮城を辞された斎王は、監送使を従えて伊勢に向かわれたが、これを斎王群行といった。百官はこれを宮外までお見送りして別れを惜しまれたものである。
 京都から出られた斎王一行は、途上、近江の瀬田川・甲賀川・伊勢の鈴鹿川・不樋小川・多気川に於いて禊ぎを行い、出発してより七日を経て伊勢の多気郡の斎宮御所に着かれた。

 以上のように、野宮は斎王が都に居られた時の最後の処であった関係上、斎王に対する憐情が今も人々の心裡に深く残って、幾人ともなき内親王の姿が偲ばれるのである」
とある(一部省略あり)

 また都名所図会(1780)には
 「野宮は小倉山の巽(南東)なる藪の中にあり、悠紀(ユキ)主基(スキ)の両宮ありて、神明を祭る。黒木の鳥居・小柴垣はいにしへの遺風なり。
 伊勢大神宮へ参宮に立せ給ふ内親王、此所に三とせばかり住給ひて祓潔し給ふ。
 斎宮のはじめは垂仁天皇の御宇、皇女倭姫命(ヤマトヒメノミコト)なり。
 〔野ノ宮の別れとは、例によって9月上旬吉日を卜定して、伊勢大神宮へ向ひ給ふとなり、後鳥羽院の御宇に此の事絶ぬ〕」
とある。


 斎王制度の始まりについて、栞には
 「この斎王制度は、第10代崇神天皇の御代に皇女豊鋤入姫命をとて皇大神を倭の笠縫邑に祀らししめられたのが始まりで、爾來、時に中絶したこともあったが後醍醐天皇の頃、戦乱で廃絶するまで74名の斎王が選ばれた」
とあるが、
 これは崇神紀6年条にいう
 「天照大神を豊鋤入姫に託して大和の笠縫邑に祀った。よって堅固な石の神籬を造った」
をうけたものだが、入姫は笠縫邑(諸説があるが、奈良・三輪山山麓の桧原神社説が有力)において大神を祀ったのであって、この当時、伊勢神宮は存在していない。

 ただ、伊勢に赴いた斎王の初代としては、続く垂仁紀25年条に
 「天照大神を豊鋤入姫から離して倭姫命に託した。姫は大神の鎮座地を探して宇陀の篠原から近江国に入り美濃を巡って伊勢国に至り、大神の神託を得て祠を建てて祀った」(伊勢内宮創建説話)
とあり、名所図会は之を以て伊勢斎王の初代は倭姫命というのだろうが、これも伝承であって史実とは認めがたい。
 その後、景行・仲哀・雄略・継体・欽明・敏達・用明各朝でも斎王叙任があったというが、これらも確証なく伝承と見るべきという。

 伊勢神宮へのが斎王派遣が制度として定まったのは天武天皇の御世(7世紀後半)といわれ、天武紀には
 ・2年(674)4月14日--大来皇女を伊勢神宮の斎王とするため、まず泊瀬の斎宮に住まわせた。
                ここはまず身を潔めて、次第に神に近づくための処である
 ・3年(675)10月9日--大来皇女は泊瀬の斎宮から、伊勢神宮に移られた
とある。
  その後、持統朝での斎王叙任はないが、続く文武朝の当耆皇女(698--701)以降、後醍醐朝・祥子内親王(1333--34)まで66代の斎王が叙任されている。

 当地に野宮を営まれた斎王は、
 嵯峨天皇の皇女・仁子内親王(ヨシコ・天皇の第10皇女)といわれ(当社HP)、日本後紀(840)
 ・大同4年(809)8月甲申 仁子内親王を伊勢斎王と為す
 ・弘仁2年(811)9月乙未 斎内親王伊勢に入る
とあり、仁子内親王が斎王として伊勢に赴いたのは確かだが(在任期間:809--23)、その時の野宮が何処にあったかは記されていない。

 また、栞には
 「王朝文学の花である源氏物語の賢木の巻では、光源氏が斎王について伊勢に下ることになった六条御息所(ロクジョウミヤストコロ)を嵯峨野の野宮に訪れる描写は、嵯峨野の秋のわひしさと当時の野宮の風景がこよなく表現され・・・」
とあるが、
 源氏物語・賢木(サカキ)の巻(巻10)の粗筋は
 ・光源氏の正妻・葵上が亡くなり、六条御息所が正妻になるだろうとの噂とは逆に、御息所と源氏の仲は疎遠となる。
 ・それを悩んだ御息所は恋をあきらめ、斎王となった娘とともに伊勢に下ろうと決心し、潔斎のために野宮に籠もる
 ・それをきいた源氏も、さすがに哀れと思ったのか、野宮の地に御息所を訪れ別れを惜しんだ
というもので、その中に、

 野宮の地の状景について
 「はるけき野道を分け入り給より、いともあわれなり。秋の花みなおとろへつつ、浅茅が原も枯れ果てたる虫の音に松風すごく吹きあはせて、そのこととも聞きわかれぬほどに、ものの音ども絶え絶え聞こえたる いと艶なり。
 ものはかなげなる小柴垣を大垣にて、板屋どもあたりあたりいとかりそめなり。黒木の鳥居どもさすがに神々しう見えわたされて、煩はしき気色なるに、神司の者ども、此所彼処にうちしはぶきて、おのがどち物うち言ひたるけはいなども、外には様変わりて見ゆ」
とある。

 またこの源氏物語・賢木巻を下書きとしたものに謡曲「野宮」があり、その粗筋は、
 ・秋・長月(旧暦9月)の7日、旅の僧が嵯峨野の野宮に詣でて源氏物語の世界に想いを寄せていると、美しい女が現れる
 ・女は六条御息所(ロクジョウミヤスドコロ)と名のり、東宮であった夫に先立たれた後、光源氏との恋に苦しみ、斎王に選ばれた娘と共に伊勢に下るために野宮に籠もっていたとき光源氏の訪問を受けたと物語る
という。
 ただ両書ともに、その場所をこの野宮の地とするだけで、当地の状景描写はあるものの(源氏)、内容的には野宮あるいは斎王との関係はない。


※祭神
   主祭神--野宮大神〔天照皇大神〕


※社殿等
 数段石段の上に注連縄を張った黒木の鳥居(下右写真)が立ち、左右に小柴垣が延びる。

 黒木鳥居について、傍らの案内には、
 「黒木鳥居とは樹皮のついたままの鳥居のことで、鳥居の形としては極めて原始的・日本最古のものであります。
 当社は従来より鳥居の用材に『クヌギ』を使用して3年毎に建替をしてきましたが、近時鳥居に適するクヌギが入手困難となってまいりました。
 そこで、なんとかして昔の面影を残したいと考えておりました処、幸いにも香川県高松市の日本興業株式会社より自然木の鳥居の寄進を受け、このたび建立の運びになりました。
 このクヌギは仝社が徳島県剣山(1955m)の山麓より切り出し防腐加工を施し奉製されたものです。
 また、鳥居の両袖の小柴垣は『クロモジ』を用い、源氏物語を始め、謡曲・和歌・俳句などにも表された黒木の鳥居と小柴垣の遺風を残したものであります。  平成5年4月大安吉日
とある。(クロモジ--クスノキ科の落葉低木で、葉・樹皮・木部に揮発性の芳香をもち、高級楊枝の材にも使われる)


野宮神社・社頭 
 
同・黒木鳥居
 
同左・部分

 境内に入った正面に3社、中央に主祭神・野宮大神を祀る野宮神社、左に白峰稲荷社、右に愛宕社が東面して並んでいる。

*野宮神社
   祭神--野宮大神(天照皇大神)

 前面に切妻造妻入り・四方吹き抜けの拝所が建ち(扁額には「野宮大神」とある)、その背後、弊殿を介して、柴垣に囲われた中に神明造の本殿が鎮座するが、近寄れず内陣の様子などは不明。


社殿全景
左:白峰稲生社・中:野宮社・右愛宕社 
 
野宮社・拝所
 
同・本殿(側・背面)

*白峰弁財天社
 野宮神社の向かって左に鎮座する。祭神の表示なし。
 
 切妻造妻入りの拝所には「白峰弁財天」の扁額と、奉納された赤い提灯数基がみえる。
 背後の本殿は、一間社流造・瓦葺きの小祠。


白峰弁財天社・拝所 
 
同・本殿 

*愛宕社
 野宮神社の向かって右に鎮座する。祭神表記なし。
 拝所・社殿の構成は白峰辨天社と略同じ。

 
愛宕社・拝所
   
同・本殿

 愛宕社の右に、朱塗りの鳥居が立ち(神額には「正一位 白福稲荷大明神」とある)、参道奥、大きな覆屋の下に白福稲荷社・大山弁財天社の2社が並び、その右に小祠2宇が鎮座する。
*白福稲荷社
 朱塗り鳥居の奥に、軒先に赤い提灯を吊した小祠が鎮座する。

 
境内社への鳥居
 
白福稲荷社・鳥居
 
同・社殿

*大山弁財天社
 朱塗り鳥居の奥に、軒先に赤い提灯を吊した社殿が鎮座し、提灯には「大山主大神」とある。
 弁財天社といえば“弁天さん”あるいは“市来島比売”を祀るのが普通だが、当社の大山主大神と弁財天との関係は不明。

*小祠2宇
 大山弁財天社の右に小祠2宇が鎮座する。
 向かって右の朱塗りの小祠は、そ前に小さな白狐像が並ぶことから稲荷社と思われるが(社前に「正一位■■明神」と刻した石碑が立つが読めない)
 左の小祠(ビニール傘が差しかけてあった)が、祠名の表示なく如何なる神を祀るのかは不明。


大山弁財天社・鳥居 

同・社殿 
 
小祠2宇(右は稲荷社か)

 境内左手、白峰弁財天社の前に「野宮大黒天社」と「神石」が鎮座する。
*野宮大黒天社
 参詣の栞には、「野宮大黒天様はえんむすびの神様で」とあり、恵美須・大黒の面が飾ってある。
*神石(亀石)
 傍らの立て札には、「祈りをこめてなでると願いごとがかないます」とある。
*龍神井戸
 境内左に古びた井戸があり、柱に掲げる案内には、「龍神 この井戸の大神さまは、健康・長寿・病気全快の神さまです」とある。


野宮大黒天社 
 
神石(亀石)

龍神井戸 

 境内右手、社務所の裏に「苔の庭園」があり、自然石に「斎宮旧趾」と刻した石碑が立つ、
 裏面に「皇紀二千六百年記念 野々宮町青年会」とあり、昭和15年(1940)に設置されたものであろう。


苔の庭園 
 
斎宮旧趾の碑

 当社は縁結びの聖地として人気があるようで、平日とはいえコロナ禍のなか、若い女性らが大勢参詣していた。

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