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山城(宇治郡)の式内社/宇治彼方神社
京都府宇治市宇治乙方
祭神−−不詳
                                                        2009.12.16参詣

 延喜式神名帳に、『山城国宇治郡 宇治彼方神社 鍬靫』とある式内社。社名はオチカタと読む。

 宇治橋・北詰(京阪宇治線・宇治駅前)から、府道7号線を東北方に50mほど行った左側の、低い石垣の上に鎮座する。
 曾て、境内に2本の椎の木があり、源氏物語(宇治十帖の第2帖)の“椎本”の帖に因むとされ、社頭に「椎の本古跡」との石標が立っている。

※由緒
 社頭に「式内 彼方神社」との石標が立つのみで案内板もなく、また当社に関する資料も皆無に近く、祭神・鎮座由緒・時期など不明。

 今、式内・彼方神社は宇治橋の東北方すぐに鎮座するが、当地以外にも“旧大鳳村”(曾て、当社の北方にあったという大鳳寺村か)にあったともいわれるが(山城名勝志・1705・江戸中期)、その所在地を含めて詳細は不明。

 当社の社名・彼方(オチカタ)の語源として、
 ・川(宇治川)が流れ落ちる彼方とする説(オチカタは落方で、川の流れる方向を指すという)
 ・宇治橋から三室戸に至る宇治大路の、大路方(オオジカタ)がオチカタと転訛したとする説
があるが、祭神が水に関係していることから、川の流れ落ちる彼方との説が有力という。ただ、旧街道筋という立地からみて、オオジカタの転訛というのも捨てがたい。

 なお、日本書紀・神功皇后紀に、九州から幼子・誉田別命(応神天皇)を擁して大和に帰還した神功皇后の軍と、皇位継承を目論む異腹の皇子・忍熊王(オシクマ)が宇治の地で戦ったとき、皇子軍の先鋒・熊の凝(クマノコリ)が味方を励まして歌った歌に、
 「彼方(オチカタ)の荒松原(アララマツバラ)、松原に渡り行きて 槻弓(ツクユミ)に鳴矢(ナリヤ)を副へ 貴人(ウマヒト)は貴人どちや 従兄弟はも従兄弟どち いざ遇(ア)はな 我は」
 (彼方の疎林の松原に進んで行って、槻弓に鏑矢をつがえ、貴人は貴人同士 親友は親友どうし さあ戦おう われわれは)
とあり、ここにいうオチカタが所謂・彼方(カナタ)なのか、オチカタという地名なのかは不詳だが、後者であるとすれば、書紀が編纂された8世紀初めには、当地にオチカタとの地名があったことが窺われる。ただ、彼方神社の存否は不詳。

※祭神
 当社祭神に定説はなく、管見のかぎりでは
 ・宗像神−−大日本史神祇志(1873)
 ・諏訪神−−境内に「諏訪大明神」(享保18年-1733-11月建)と刻した石燈籠がある。
 ・大物主命−−出典資料不明
の3神がみえる。

 宗像神とは、アマテラスとスサノヲによる誓約の際に生まれた三柱の女神のことで、海神・航海の神であり、諏訪の神も信州・諏訪の地に坐す風の神・水の神であって、いずれも水の神ということでは共通し、宇治市史(1973)
 「宗像神は海神であり、諏訪神も風・水の神であって、宇治川の流れ落つる彼方(乙方)にまつられるに相応しい神である」
と記す。

 当社が宇治川の畔に鎮座することからみて、宇治川の舟行守護・氾濫防止などを祈って水神を祀ったものと思われ、はじめ宗像神として崇敬され、何時の頃(江戸中期以前)かに諏訪の神に替わったと思われるが、境内には“諏訪大明神”と刻した石燈籠はあるものの、宗像神を祀った痕跡は見えない。
 また、水神を祀ったとはいえ、遠い諏訪の神を祀った由緒は不詳。

 大物主命とはネット資料に記す祭神だが、今の境内にその痕跡はなく、根拠資料も不明。

※社殿
 道路から数段の石段をあがり、鳥居をくぐった右側に、一間社流造・トタン葺きの小祠が南面して鎮座する。
 境内に立つ石燈籠に「諏訪大明神」(裏面:享保十八年十一月建)とあり、江戸中期には、諏訪明神社として知られていたことを示す。
 また、境内の奥まったところに、注連縄を張った大きな石が置かれている。一種の磐座と思われ、社殿建造以前の信仰を窺わせるものといえよう。


彼方神社・社頭

同・社殿

同・石燈籠(諏訪大明神)

同・境内にある磐座

付記
 当社が源氏物語(宇治十帖)・椎の本に因むとされるのは、匂宮が八の宮に贈った和歌のなかにある“遠方”(オチカタ)を、当地の彼方(オチカタ)に掛けたもので、、当社との直接的な関係はない。
 匂宮→八の宮  山風に霞吹きとく 声はあれど 隔てて見ゆる 遠方(オチカタ)の白波

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