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山城(久世郡)の式内社/巨椋神社
京都府宇治市小倉町寺内
祭神--武甕槌神・経津主神・天児屋根神・比咩神
                                                        2012.04.29参詣

 延喜式神名帳に、『山背国久世郡 巨椋神社』とある式内社。社名の巨椋は“オグラ”と読むが、“オホクラ”・“コムク”とする資料もある。

 近鉄京都線・小倉駅の北約600m、駅東の府道69号線を北上、二つ目の信号を東へ入ってすく左側(北側)に鳥居が立つ。社殿の右隣(東側)に隣接して小倉公民館あり。

 今の当社は市街地の中に鎮座するが、当地は、曾て旧宇治川・木津川・桂川の三川が流れ込む遊水池・巨椋池(オグライケ、南北約5km・東西約8km、面積約800ha・昭和8~16年の干拓により消滅)の東部南寄りで、豊臣秀吉が巨椋池東部に築いた太閤堤(当地と伏見とを直結する)を通る旧大和街道(ほぼ現府道69号線)の東側に鎮座していた。
       右図--昭和7年頃の巨椋池--右中程のが巨椋神社(ネット資料より転写)

※由緒
 境内には、祭神名の表示はあるものの、創建由緒・年代等の掲示なく、詳細不詳(社務所無人)

 当社の創建に関して、式内社調査報告(1979)には、
 「当社は巨椋池のほとりに居た巨椋氏一族が、その祖神を祀ったのが始まりと思われる。
  巨椋氏は小椋氏のことで、木地師の一族である。木地師集団が巨椋池の近くに住んでいたことは注目下べきことであろう」
とあり(日本の神々5も略同意)、当地付近に居住していた巨椋氏が、その祖神を祀ったのが始まりと推測している。

 ここには「巨椋氏は小椋氏であり、木地師の一族である」とある。管見した木地師関係の資料の殆どに、その統括者として小椋氏の名が挙がっているが、その小椋氏が当地の巨椋氏と同じとする資料はなく、同じ呼称・“オグラ”からくる推測かもしれない。
 また管見のかぎりでは、上記以外に、当地付近での木地師集団の存在について言及したものはみあたらない(木地師伝承については下記)

 一方、新撰姓氏禄(815)には
 「山城国神別(天神) 巨椋連 今木連同祖 止与波知命(トヨハチ)之後也」
   (今木連 山城国神別(天神) 神魂命(カミムスヒ)五世孫阿麻乃西乎乃命(アマノセオ)之後也)
との氏族がある。
 この巨椋連の祖神・トヨハチ命と、今木連の祖神・カミムスヒ命あるいはアマノセオ命との繋がりは不明。また管見のかぎりでは、姓氏禄以外にトヨハチ・アマノセオ命の名は見えず詳細不明。
 また、この神別氏族・巨椋氏と木地師集団に属する巨椋氏とは結びつきにくく、当地の巨椋氏は神別・巨椋氏とは異なるのかもしれない。

 今の当社は市街地の中に鎮座するが、曾ての鎮座地については2説あり、
 ①社伝--古くは北方の現小倉町春日森(当社の北北東約200mほどに現存)にあったが、洪水(発生年次不明)のため、古くから子守神社があった現在地に移転した
 ②宇治市史--古くは現在地にあったが、春日神社の勧請によって北方の春日森に退去させられ小森明神と称したが、洪水により、旧地(現在地)に子守神社として復座した。
 その根拠として 
  ・拾遺都名所図会(1789・江戸中期)に、「当社(巨椋社)はじめ祭る所の神、賞罰厳重にして、社地にある所の一枝を採るも神囂(カマビス)しきゆえに、他所に遷し今の神(春日神)を祀るなりとぞ」とあること
   (ただし式内社調査報告によれば、この伝承は境内社・八幡社に関わるものという)
  ・近世中期の小倉村絵図に、小字春日森の巨椋池畔に“小森(子守)大明神”と記されていること
  ・小森明神跡と推定される付近から、白銅製の鏡が出土したが、これは春日神に追われた巨椋神を鎮めるために奉納された鏡ではないか
などを挙げており、これによれば、式内・巨椋神社の後継社は摂社・子守神社となる、という(日本の神々5)
 古い神社で、新しく勧請された祭神によって、本来の祭神が脇に追いやられ摂・末社化した事例は多く、当社もその一例かもしれない。

 今の祭神は春日四神(春日大社の祭神)となっているが、江戸時代以降の古資料においても、
 ・山城名跡巡行志(1754・江戸中期)--巨椋村に在り、街道東傍、鳥居・拝殿・社南向、祭る所春日の神
 ・都名所図会(1780)--巨椋の社は入江の南、小倉の里の東にあり、春日明神を祭る
 ・久世郡村誌(1902・明治後期)--式内村社、俗春日社と 称す
とあり、参道入口に立つ石燈籠に「天明五(1785)乙巳年九月建之 春日社」との刻銘があるように、江戸中期以前から春日社と称していたという。

 当社に春日神が祀られた時期などについて、式内社調査報告には、
 「藤原氏の勢力拡大、さらには藤原忠文(873--947・式家藤原宇合5代の孫)の別荘の存在などより、今日みるような祭神が奉祀されたのであろう。巨椋氏から藤原氏へ祭主が変更していった時期は、平安後期に想定される」
また日本の神々5には
 「平安後期に入ると、当地には巨倉庄・小巨倉庄と呼ばれる荘園が成立し、藤原氏が勢力を伸ばした。それに伴い荘園鎮守社として勧請されたのが春日神社であろう」
とあり、いずれも藤原氏の勢力拡大と当地への進出に伴って勧請されたもので、その時期は平安末期頃ではないかという。
 なお、“嵯峨天皇(在位:809--823)の勅願による”とするネット資料もあるが、それを証する史料はみえない。

 以上のように、当社は江戸時代までは春日神社と呼ばれていたが、明治10年(1877)に式内・巨椋神社と認定され、以後、巨椋神社と称している。ただし、久世郡村誌にいうように、明治になっても春日社と俗称されていたらしい。

※祭神
 今の祭神は、上記のように、平安時代に春日大社から勧請したもので、当社本来の祭神ではない。
 当社本来の祭神は、当地に居たとされる巨椋氏がその祖神を祀ったものと推察されるが、それがどのような神だったかは不明。

※社殿等
 鳥居をくぐりやや長い参道を進んだ奥に横長の拝殿(入母屋造割拝殿・瓦葺)が、その奥、透塀に囲まれた神域内に大きな本殿覆屋がある。
 覆屋内に、朱塗りの本殿(三間社流造・檜皮葺)が鎮座するが、外からはよく見えない。

巨椋神社/鳥居
巨椋神社・鳥居
巨椋神社/拝殿
同・拝殿
巨椋神社/本殿覆屋
同・本殿覆屋
巨椋神社/本殿側面
同・本殿1側面
巨椋神社/本殿正面
同・本殿正面

◎境内社
 当社境内には、境内社・五社がある。
*子守神社
    祭神--天磐樟船神(アメノイワクスフネ)・蛭子神(ヒルコ)

 境内右手(東側)に低い玉垣に囲まれて鎮座する小社。社殿(一間社流造・銅板葺)は、他の境内社に比べてやや大きい。
 上記したように、元から当地にあったとか、春日森から遷ったとかいわれる社で、宇治市史に式内・巨椋神社の旧社とあるためか、今、祭神は本社殿に合祀されていて、子守社は空殿となっているという。
 なお、境内西側入口に朱塗りの鳥居があり、子守神社との神額が掛かっている。子守神社単独の鳥居があることは、当社が特別の取扱をうける社であることを示唆している。

 鳥井脇に立つ案内板には、
 「子守神社は、文徳天皇の皇子・惟喬親王の子供愛護の大御心によって建立された神社であります。
 そのいわれは、昔、三疋の大烏何方ともなく来たり子供を悩ましければ、帝この由を聞かれ、惟喬親王弓矢を以て諸国を巡り退治されました。
 その時、河内の渚の院にて大烏を射止め、帰路、その故を以て小倉村中の小路に子守大神を祀られたのが当神社の創立でありまして、御祭神は天磐樟船神であります」
との伝承が記されている。

 惟喬(コレタカ)親王(844--97・母は紀氏)とは文徳天皇(在位850--58)の第一皇子で皇位継承権を持っていたが、異母帝・惟仁親王(第四皇子・母は藤原良房の娘)が皇位を継いだ(清和天皇・在位858--76)ことから隠棲し、風雅を友として過ごしたという。
 (大阪府枚方市渚元町に“渚の院跡”と称する市史跡があり、親王が在原業平・紀有常らとともに屡々訪れ、遊猟や作歌・饗宴に憂さを晴らしたという。業平の“世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし”との和歌は、その時詠われたものという)

 親王は、帝位を継げなかったことから悲劇の皇子として、親王にことよせた多くの伝承があり、上記伝承もそのひとつだが、木地師集団に伝わるものとして、
 「親王は、比叡山麓の小野から近江の小野(現滋賀県東近江市永源寺町付近という)に移り、土地の人々に木盆・木碗などを作る轆轤(ロクロ)技術を教えたことから、木地師職能の祖とされるが、その時、京から従ってきた側近・藤原実秀に小椋の姓を名乗らせ、木地師集団を統括させた」(要旨)
との伝承がある。

 当社は、惟喬親王→木地師集団→小椋氏→巨椋氏との伝承のなかで、惟喬親王創建とされたものだろうが、親王が木地師に関係したというのは完全なフィクションで、木地師集団が、自由に各地を移動・活動する際に有利な取扱をうけんがために、その旗印として親王を担いだのだろうという。
 また、木地師集団を統括したとされる小椋氏についても、宮廷に仕えていた轆轤師が野に下り、近江の小椋庄で勢力を得て小椋実秀を名乗り、木地師等を統合したというのが事実に近いようで、親王の側近というのは作られたものともいう。

 なお、祭神のアメノイワクスフネ神とは、書紀・神生みの段に
 「つぎに蛭子を生んだ。3年経っても足が立たなかった。だから天の磐櫲樟船(イワクスフネ)にのせて、風のまにまに放流した」
とあり、神が乗船される立派で丈夫な船を神格化したものという(ニギハヤヒが降臨の際に乗った“天の磐船”も同じか)
 当社がアメノイワクスフネ神とヒルコ神(後にエビス神と習合している)の2座を祀るのは、上記神話によるものだろうが、子守神社との接点は見えない。
 憶測すれば、当社が巨椋池の畔にあったことから、舟行・漁業などに関係して祀られたのかもしれないが、それが何故子守神社なのかはわからない。

巨椋神社/西側鳥居
西側鳥居(子守神社の神額あり)
巨椋神社/境内社・子守神社
子守神社

*天満宮(祭神:菅原道真)--本殿の背後左に鎮座する
*大国主社(祭神:大国主命・事代主命)--本殿背後に鎮座し、勝手社との合祀殿となっている
*勝手社(祭神:手力雄命)--各地に勝手神社と称する神社があるが、祭神も一定しておらず、よくわからない神社である
*八幡宮(祭神:仁徳天皇・天押雲神)--本殿右手前にあり、近世には若宮八幡宮と称していた
 いずれも、その鎮座由緒・時期など不明。

巨椋神社/境内社・天満宮
天満宮
巨椋神社/合祀殿
 合祀殿
(左-大国主社・右-勝手社)
巨椋神社/境内社・八幡社
八幡社

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