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山城(相楽郡)の式内社/岡田鴨神社
京都府木津川市加茂町北
祭神−−賀茂建角身命・菅原道真
                                                        2012.03.29参詣

 延喜式神名帳に、『山城国相楽郡 岡田鴨神社 大 月次新嘗』とある式内大社。

 JR関西本線・加茂駅の北東約1.2km。駅北側の道路(府道47号線)を北東に進み、木津川に架かる恭仁大橋の南詰めを右折、堤防道路から道なりに岡田の集落へ入った先・集落の北東地区に朱色の鳥居が立つ。

※由緒
 当社配布の由緒によれば、
 「御祭神・賀茂建角身命(カモタケツヌミ)は、釈日本紀収載の山代風土記・逸文によると、日向の高千穂の峰に天降られた神で、神武天皇東遷の際、熊野から大和への難路を先導した八咫烏が賀茂建角身命の化身である。・・・
 (カモタケツヌミ命は)大和平定後は葛城の峰に留まり、ついで山城国岡田の賀茂に移られ、その際に賀茂建角身命を賀茂氏族の祖神として創祀されたのが本社である。崇神天皇の御代と伝える。その後、命は山城川を下り洛北の賀茂御祖神社(下鴨神社)に鎮まられた」
とある。

 この由緒は、山城国風土記(713)・逸文にある賀茂の社条(丹塗矢伝承)をうけたもので、
 その前半は、祖神・カモタケツヌミ命の出自を神武東征時の八咫烏神話に付託した神話的伝承だが、
 後半にいう賀茂氏の大和葛城から洛北賀茂への移動は史実に近いと推測され、賀茂氏は雄略朝の初期の頃(5世紀中頃)に葛城から岡田への移住を始め、その後、乙訓(桂川と賀茂川の合流点付近)を経て賀茂川を北上し、雄略朝から清寧朝の頃(5世紀後半頃)に洛北賀茂の地へ進出したという(日本の神々5-2000・賀茂別雷神社他)

 その移動の途上、最初に留まった当地に創建されたのが当社となるが、その時期ははっきりしない。
 上記由緒によれば、当地に留まっていた頃すなわち5世紀中頃の創建ととれるが、ネット資料によれば、洛北の賀茂社から賀茂明神を勧請したものともいう(全国神社祭祀祭礼総合調査-1995、ただし根拠資料不明)

 今、洛北賀茂の地には上賀茂社(賀茂別雷神社、祭神−ワケイカヅチ)・下鴨社(賀茂御祖神社、祭神−タマヨリヒメ・カモタケツヌミ)の2社が鎮座するが、上賀茂社の創祀は天武6年といわれ(678、二十二社註式に「天武6年に、山背国に命じて賀茂神宮を営なませた」とあり、官による社殿造営とみられる。ただ、それ以前・遅くとも6世紀頃から、賀茂氏による祭祀はおこなわれていたと推測される)、下鴨社は天平(729--748)の末年から天平勝宝2年(750)までの間に上賀茂社から別れたという(別稿、賀茂別雷神社賀茂御祖神社参照)
 ネット資料がいう洛北の賀茂社がどちらを指すのか不詳だが、上賀茂社からの勧請とすれば7世紀後半以降(下鴨社分離まではカモタケツヌミも祀っていた)、下鴨社からとすれば8世紀中葉以降となる。
 5世紀後半・7世紀後半・8世紀後半のいずれにしろ上記由緒とは異なり、崇神朝(4世紀前半頃)創建とは根拠のない伝承に過ぎないといえる。

 なお、正史上での当社関連記事は少なく、管見したかぎりでは、三代実録(901)・貞観元年(859)正月27日条に「従五位下・・・岡田鴨神・・・従五位上奉授」とあるのみで、その後の昇格記事などは見えない。

◎旧鎮座地
 今の当社は岡田集落の北東部に鎮座するが、上記由緒には、
 「現社地は、元明天皇の和銅・天平時代における岡田離宮の旧跡を保存するために創祀された天満宮の境内と伝えられる。
 木津川(古名・鴨川)は元は岡田山(現加茂町流岡−−当社の北西方・木津川の対岸に流岡の地名と小山あり)の北側を流れていたが、後に南側を流れるように変化して水害が頻繁になったため、岡田鴨神社を旧社地より天満宮境内に遷されたと伝える」
とあり、山背国相楽郡誌(1900・明治後期)にも
 「社の北方木津川河岸に鴨大明神趾と称する地あり。今藪となる。洪水に遭遇し移転せるものなるべし」
とある。
 いずれも、木津川の流路移動によって多発する水害を避けるために、旧岡田離宮の跡に祀られていた天満宮境内(現在地)に遷したというが、その遷座時期は不詳。

 ただ、山城名勝志(1711・江戸中期)
 「今木津渡し(国道24号線・泉大橋の下流付近にあったという)の東二里ばかり、賀茂郡内里村に賀茂明神社有り。泉河(木津川)南端の森の内に坐す小社也」
とある。
 木津川南の森の中にある小社いうことから現岡田鴨神社を指すとみられ(今も社殿の周りに鎮守の森あり)、とすれば、江戸中期には既に現在地へ遷座していたと思われる。

 今、当社の背後(北側)に残る田畑と、その先・木津川との間には、北から西方へかけて竹薮が密生しているが、その田畑の畦をつたって西へ約200mほど進んだ突きあたりの竹薮の縁に小路の入口(幅1m未満・両側に簡単な竹柵がある)があり、それを入った左側の竹薮に囲まれた一画に、『岡田鴨神社旧跡地』と刻した石碑が立つ。
 ただ、発掘調査などがおこなわれた形跡はなく、伝承によるもののようで、旧社地である確証はない。

 なお殆どの資料には、旧社地は社殿の北とあるが、現地は西・正確には社殿の西北西に当たる。ただ、案内表示等何もなく、外からは見つけにくい。当日も、社務所で“裏の竹薮の中にある”とだけ聞いて、田畑の畦を歩きまわったがわからず、たまたま畑作業をしていた老婦人に出合い教えてもらった。


旧社地跡の石碑

旧社地

 由緒がいう岡田離宮とは、続日本紀(797)・元明天皇・和銅元年(708)9月22日条に
 「山背国相樂郡の岡田離宮に行幸。・・・行宮を造った郡司に禄を地位に応じて賜る。合わせて人民の調を免じ、特に加茂里と久仁里(恭仁)の二里の戸毎に稲三十束宛を賜る」
とあり、元明天皇の御代(707--15)に当地付近にあったのは確かだが、当離宮に関する資料は見当たらず、離宮の範囲・存在した期間などの詳細は不詳。

 また、天満宮創祀について、由緒資料の裏面に載る古絵図・岡田鴨神社之景(明治33年-1900判)には
 「後、離宮の荒廃するや、郷民、元明帝の恩賜に感佩(カンハイ)し、離宮の旧跡を保存せんが為、ここに一社を設け天神社といへり。これ岡田離宮の一部分なり」
とあるが、その創祀時期は不詳。
 天神社(天満宮)ということからみて、菅原道真(天神)を祀る祠が北野の地に創祀された天慶元年(947)以降と思われるが、元明天皇の恩賜云々(各戸に稲30束を賜ったことを指すか)というには年代が2世紀以上と離れすぎており、“元明帝の恩賜に感じ、離宮の旧跡を保存せんがため”というのは後年の付会であろう。

 なお、岡田の地には上記の加茂里・久仁里(恭仁・後の瓶原-ミカハラか)が含まれ、加茂里の鎮守として岡田鴨神社が、久仁里(恭仁里)のそれとして岡田国神社があるという。

※祭神
 岡田鴨神社の祭神・カモタケツノミ命、および天満宮祭神の菅原道真についての異論はない。

※社殿等
 道路際、朱塗りの一の鳥居をくぐり、参道を進み表門を入って境内に入る。
 境内奥の正面に二の鳥居(朱塗り・改修中)が立ち、その奥、低い基壇の上に朱塗りの本殿が2棟並ぶ。いずれも一間社春日造・檜皮葺。
  右−−岡田鴨神社−−賀茂建角身命
  左−−天満宮−−菅原道真
 なお、表門前の左右にある古い石燈籠の、右のそれには“賀茂大明神”、左のそれには“天満宮”との刻銘があり、当社と天満宮の本殿2棟が並ぶことと相まって、当社の前身が天満宮であったことを証している。

 由緒裏面にある古絵図・岡田鴨神社之景をみると、社殿配置などは殆ど変わっていないが、今は神社に隣接するまでに住宅が建つなど大きく様変わりしている(ただ北側には、今も田畑が残っている)

 参詣した日、境内は改修工事中で雑然としていた。本殿などはほとんど終わっているようだが、二の鳥居の改修など、もう少し続くらしい。

岡田鴨神社之景(部分)
岡田鴨神社/一の鳥居
岡田鴨神社・一の鳥居
岡田鴨神社/表門
同・表門
岡田鴨神社/二の鳥居
同・二の鳥居(補強パイプあり)
岡田鴨神社/天満宮・本殿
天満宮・本殿
岡田鴨神社/本殿
本殿(左:天満宮・右:岡田鴨神社)
岡田鴨神社・本殿
岡田鴨神社・本殿

◎末社
 境内右手に末社3社が並ぶが、その鎮座理由・時期等は不明。
 ・金刀比羅神社−−大物主命−−改修工事が終わった直後で美麗。
 ・三十八社神−−鹿嶋神御子38神−−タケミカヅチの御子神らしいが詳細不明
 ・八幡宮(遙拝所)−−応神天皇−−小祠の右横に八幡神と刻した自然石あり

岡田鴨神社/末社・金刀比羅神社
末社・金刀比羅神社
岡田鴨神社/末社・三十八社神
末社・三十八社神
岡田鴨神社/末社・八幡宮(遙拝所)
末社・八幡宮(遙拝所)

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