[トップページへ戻る]

山城(相楽郡)の式内社/岡田国神社
岡田国神社--京都府木津川市大谷
祭神--生国魂尊・菅原道真仲哀天皇・応神天皇・神功皇后
春日神社(勝手神社内)--京都府木津川市加茂町大野
祭神--春日神社:天児屋根命
                           勝手神社:天大日孁女貴命・天忍穂根命・多久幡千々姫命
                                                        2012.03.29参詣

 延喜式神名帳に、『山城国相楽郡 岡田国神社 大 月次新嘗』とある式内社だが、今、木津川市大谷に鎮座する岡田国神社と、同市加茂町大野に鎮座する勝手神社に併祭されている春日神社の2社が論社となっている。

 岡田国神社の“岡田”については、続日本紀(797)記載の元明天皇・和銅元年(708)9月22日条に、
 「山背国相楽郡の岡田離宮に行幸された。・・・行宮を造った郡司に禄を地位に応じて賜った。これと合わせて人民の調を免じ、特に加茂里と久仁里(恭仁)の二里の戸毎については稲三十束を賜わった」
と、同和銅4年(711)正月2日条には
 「初めて都亭の駅(官道に設けられた一種の中継地)を設けた。山背国相楽郡には岡田駅・・・」
とあり、岡田とは古くからの地名で、加茂郷・久仁郷からなっていたという。

 また式内社調査報告(1979)は、
 「大日本地名辞書(1907・明治末)に、
  “(岡田郷は)是古へ久仁賀茂二郷に分かれたる大邑にして、奈良朝の時離宮(岡田離宮)を置き、亭館(岡田駅)を建てられ、聖武帝は遷都(恭仁宮・740暮--43)の事あり。後世其名亡び、今木津村賀茂村当尾村瓶原村等の地たるべし”
とあるように、古くは、久仁・賀茂の二郷からなり、それぞれの郷に式内社(岡田国神社・岡田鴨神社)が鎮座している。従って当社の社名も地名・岡田久仁(恭仁)から来たものである」(大意)
という。

 なお、正史上での初見は、三代実録(901)所載の清和天皇・貞観元年(859)正月27日条の
 「従五位下・・・岡田鴨神社・岡田国神社・・・に従五位上を奉叙」
で、その後の記録はみえない。

※論社について
 式内・岡田国神社の論社である上記2社には、それぞれの主張もあり、未だに決着はみていない。

 現岡田国神社を式内社とする特選神名牒(1876・明治前期)には
 「山城志(1734・江戸中期)に“国神社大野村に在り、今春日と称する”と云うを以て、近世其の説に雷同するもの多し。是実験の至らざる也。大野村は古来賀茂郷の地なり。・・・故にこの説に従わず。
 久仁の地は皇帝(聖武帝)の都・恭仁宮の地で、この都は鹿背山(木津駅東北東約2.5km)を包み、久仁瓶原賀茂の三郷にまたがり、賀茂は鹿背山の東北に出で、久仁は鹿背山の北より西南に繞れり。
 続日本紀に恭仁京泉橋(現泉大橋-木津駅の北)とある泉橋寺が今尚存して、鹿背山の西北(西南の誤記か)木津駅の東にあれば、所謂久仁郷は木津駅辺りなることを知るべし。
 然れば、岡田国神社は当地において尋べきなり。・・・されど確証なければ定めがたし」(大意)
とあり(式内社調査報告)、確証はないものの、久仁郷内に属する木津駅の南に鎮座する現岡田国神社が式内・岡田国神社だという。
 ただ、現岡田国神社の案内には、“当社は木津郷五ヶ村の氏神・・・”とあり、木津郷に属していたという。

 なお、ネット資料・聖武天皇恭仁京に示す京域推定図によれば、久仁郷を中心に右京が、賀茂郷を中心に左京が計画され、恭仁京は左京の北端に造営されたと推測されており、とすれば宮城域は賀茂郷にあったとなる。
 また、聖武天皇の恭仁京は実質3年間(740暮--43)ほどの都であり、宮城域は造営されたものの、右京・左京の居住区はほとんど未整備だったらしい。

 これに対して、勝手神社に併祀されている春日神社を式内社とみる山城相楽郡誌(1711・江戸中期)
 「岡田国神社は、もと岡田恭仁郷鎮護の大社にして、今の木津川南岸なる大字大野小字一町久保の官林中に、その古跡と称する地にありしを、木津川上流の開拓とともに川底に土砂が堆積し、木津川が時々浸水するに至り、社地として適せざるにより、中世傍近の勝手神社の境内に一社を創立し、旧国神社の祭神並びに境内に祭り来たれる春日社とを合祀して春日社と称し、又国神社假借(イソロ)社とも称し来りしこと事実たり」(大意)
として、勝手神社内の春日神社が式内・岡田国神社という(式内社調査報告)
 (他に、勝手神社が鎮座する大字大野の地は久仁郷だったとする資料を引用してあるが、地理不案内もあって、よくわからない)
 なお、相楽誌にいう“大字大野小字一町久保”とは、加茂駅から勝手神社に至る道路沿いにある“一丁久保”の地で、そこには、『式内岡田国神社旧社地』と刻した石碑があるというが、未確認。

 これとは別に、今、木津川北岸の加茂町例弊(レイヘイ)地区に聖武天皇の恭仁京跡があることから、この辺りを久仁郷とみて、
 「現岡田国神社は幕末まで“天神社”と呼ばれた木津郷の氏神で、式内・岡田国神社ではない。・・・岡田郷は和名抄(937)の賀茂郷と久仁郷を含む地であり、岡田の社名からすれば、岡田郷に含まれる久仁郷(恭仁郷)の鎮守的性格の社となろうか。
 興福寺官務牒疏(1441-室町時代)・海住山寺(カイジュウセンジ・伝天平7年-735開基、加茂町例弊海住山・恭仁京跡の北約1km)の項に、“鎮守恭仁神”とあることから、おそらく、現加茂町の恭仁京跡の北部にある海住山寺の近くに鎮座していたものと考えられる」(大意)
として、現岡田国神社を式内社とみるのを否定している(日本の神々5・2000)
 ただ興福寺官務牒疏なる古書は江戸時代の偽書との説があり、その記述を以て、海住山寺の近くに鎮守社として式内・岡田国神社があったとするのは誤解かもしれない。

 これらをみると、古の久仁郷・加茂郷の範囲を何処ら辺りとみるかが論点ととれるが、郷域確定に資する史料などなく、また郷界の変動もないとはいえず、岡田国神社本来の史料が発見されないかぎり、この論争は決着しないであろう。

【岡田国神社】(木津川市大谷)
 JR木津駅の南約600m、駅西を南北に通る国道24号線を南下、大谷交差点(T型交差点)の東側に立つ朱塗りの一の鳥居(神額には天神宮とある)をくぐり、参道を東へ進み、JR線を跨ぐ跨線橋(神社への専用橋)を渡り境内へ入る。

 当社は南北2つの区画に分かれ、南側(境内入口側)に昭和58年(1983)造営の新社殿が建ち並び、その北側の一段低くなった区画に旧社殿が保存されている(京都府登録文化財-昭和63年指定)

※由緒
 新拝殿前に掲げる由緒(昭和57記)には、
 「本社の創立は人皇37代斎明天皇5年(659)9月と伝えられ、生国魂尊を奉斎せられました」
 旧社地入口の案内には
 「岡田国神社は、近世まで『天神社』と称し、木津郷五ヶ村の氏神として祀られてきました。創立については明らかでありませんが、明治11年(1878)に延喜式内岡田国神社に比定されました」
とある。

 当社の創建を斎明朝(飛鳥時代)とするのは何らかの伝承にもとずくものだろうが、正史上での初見として、三代実録・貞観元年(859)に従五位上を授けたとの記録(上記)があり、9世紀中葉以前の創建であるのは確かといえる。

 その後の経緯は不詳だが、諸資料を参考に略記すれば、
 ・朱雀天皇・天慶元年(938・平安中期)--八幡宮奉斎
 ・平安時代--菅原道真を合祀し天神宮(天神社)と称したというが、後宇多天皇の御代(1274--87・鎌倉執権時代初期)の勧請ともいう。
          いずれにしても、平安後期から鎌倉前期にかけての天神信仰の興隆によるもので、以降・天神宮と称す。
 ・永禄10年(1567・室町末期)--社殿焼失(多門院日記・当年条に「木津へ人数遣わさる、散郷天神宮まで悉く焼払了」とあるという)
 ・慶長9年(1604・江戸初期)--徳川幕府より境内山林の寄贈あり
 ・明治11年(1878)--天神宮から式内・岡田国神社へ改称
 ・昭和58年(1983)--旧社殿を残したまま、南側に新社殿造営
となる。

※祭神
 新社殿の本殿は一棟だが、旧本殿は南北に2殿が並び、神社明細帳(1876・明治初期)には
 ・右殿--生国魂尊(岡田国神社祭神)・菅原道真(天神宮祭神)
 ・左殿--仲哀天皇・応神天皇・神功皇后(八幡宮祭神)
とあるという。

 岡田国神社の祭神・生国魂尊(イクタマノミコト)とは、その土地に坐す神、いわば産土神を意味する普通名詞的な神名で、当地一帯の氏神社という岡田国神社の祭神としては相応しい。
 ただ当社が、幕末まで菅原道真を祀る天神宮と称していたことから、生国魂尊は、当社が式内社に比定されたときに、新に迎えられた神とも思われ、式内・岡田国神社本来の祭神かどうかは不詳。

※社殿
◎新社殿
 境内の中央を占める広場を囲んで、東奥に拝殿(入母屋造・銅板葺)が、その奥、透塀の中に朱塗りの本殿(春日造・銅板葺)が、いずれも西面して鎮座する。
 広場の南北に東西に長い仮屋(氏子詰所・切妻造・瓦葺)が、広場の西(社殿正面)に社務所が建つ。
 なお、境内入口の右手に、「岡田恭仁神社」と刻した古い石燈籠2基が立ち、社名の“国”が“恭仁”であることを示唆している。

岡田国神社/一の鳥居
岡田国神社・一の鳥居
岡田国神社/境内全景
同・境内全景
岡田国神社/拝殿
同・拝殿
岡田国神社/本殿
同・本殿

◎旧社殿
 旧社殿域の南西隅に立つ鳥居を入ると、境内中央の舞台(方一間切妻造・瓦葺・1910-明治末-改築)を取り囲む形で社殿が建つ。
 舞台の東側に横長の大型拝殿(切妻造・瓦葺・1620-明治前期-建造)が、その奥、石垣の上に透塀を構えた一段高い神域に、本殿2社(一間社春日造・檜皮葺・17741江戸中期-再建)が並び、その左右に摂末社が建つ。
 また、舞台の両側に、南北に長い仮屋(氏子詰所・切妻造・瓦葺・1907-明治末-改築)2棟が建つ。

 当社案内によると、
 「当神社にみられる、舞台を中心に拝殿・南北氏子詰所が配された構成は、府南部の相楽郡地域に伝わる配置形態ですが、現在この形式を保存している神社は少なく、山城地方の室町時代の惣の社の姿を伝えるものとして貴重な遺構となっています」
とあり、この旧社殿は昭和63年(1988)3月、京都府登録文化財として、背後の森を含む境内一帯は、文化財環境保全地区に指定されている。

 いずれの社殿も相当に古びており、特に本殿2社の屋根は苔生しているが、欄間などには緻密な飾り彫り物などが残っている。

岡田国神社・旧社殿/鳥居
岡田国神社(旧社殿)・鳥居
岡田国神社・旧社殿/全景
同・全景(跨線橋より)
岡田国神社・旧社殿/能舞台と拝殿
同・能舞台と拝殿
岡田国神社・旧社殿/左本殿
同・左本殿
岡田国神社・旧社殿/社殿正面
同・社殿正面
岡田国神社/旧社殿右本殿
同・右本殿

◎摂末社
 神域内・本殿の左に摂末社合祀殿と末社の小祠が、右に末社の小祠が、いずれも西面して並ぶ。
  合祀殿--左:摂社・恵美須神社(祭神:オオクニヌシ)、右:末社・水谷神社(ハヤアキツヒメ)
  その右の小祠--末社・白太夫神社(渡邊白太夫)
  神域北隅の小祠--厳島神社(イチキシマヒメ)--この祠のみ南面
  本殿右の小祠--八王子神社(クマノクスヒ)・天王神社(スサノヲ)・日出神社(アメノオシホミミ)

岡田国神社・旧社域/末社
神域西北西隅の末社(厳島社)
岡田国神社・旧社域/摂末社合祀殿
摂末社合祀殿(左:恵美須社・右:水谷社)
(右小祠:白太夫社)
岡田国神社・旧社域/末社
本殿右の末社
(左より八王子社・天王社・日出社)


【春日神社
-勝手神社併祭社

 勝手神社は、JR関西本線・加茂駅の西約1.3kmにある。JR・加茂駅前の三叉路を西へ府道47号線を進み、鹿背山に突きあたり、道なりに北へ進んだ左手に朱塗りの鳥居(神額には中央に勝手神社、脇にやや小さく春日神社とある)が立ち(傍らに社務所らしき建物があるが無人)、道路に沿った参道を進み石段を登った上、山腹を切り開いた狭い境内に鎮座する。眼下に、道路をはさんで木津川の流れが見える。

※由緒
 勝手神社の由緒・創建年代など不明。また当社関連の資料なく、唯一見つけたネット資料には
 「勝手神社由緒  
   当社は往古より寛永年間(1924--44)まで鹿背山明神と称せり。即ち文武天皇の御宇(697--707)、大宝年間(701--04・飛鳥時代末期)の創立と云う。然れども、古書類等、木津川洪水のため流失して伝わらず。明治6年(1873)7月、村社社格に定められる」
とある。文武朝創立というが、その根拠は不明。

 ネット検索によれば、勝手神社は近畿・東海などに何社かみられ、その中で、吉野勝手神社(奈良県吉野郡吉野町・H13社殿焼失・再建の状況不明)からの勧請というものが多い。憶測すれば、当社も吉野からの勧請かもしれないが実態不明。。

 また春日神社については、
 「往古は当村壱町久保と称する藪の近くに鎮座ありしに、木津川水害を憂いて今の地に移すと伝わる。然れども、古書類は洪水のため流失して伝わらず、よって詳らかるは能わず。
  山城誌は云う、本郡延喜式内岡田国神社は即ち当社なりと。但し、他に確証を得ず」
とあるが、壱町久保の地に春日神社が祀られた由緒・時期などは不明。
 なお、当春日神社が式内・岡田国神社かどうかについては、上記・論社の項参照。

※祭神
 一の鳥居脇に立つ案内板には、
 「御祭神  天大日孁女貴命(アマノオオヒルメムチ)・天忍穂根命(アマノオシホネ)・多久幡千々姫命(タクハタチヂヒメ)
とある。
 アマノオオヒルメムチ命即ちアマテラス大神を主祭神に、アマテラスとスサノヲの誓約(ウケヒ)によって生まれたアメノオシホミミ尊(天孫・ホノニニギの父)とその妃・タクハタチヂヒメ(タカミムスヒの娘)を併せ祀るもので、勝手神社に祀られる祭神であろう。
 なお、上記・吉野勝手神社の祭神はアメノオシホミミ命他となっており、アメノオシホミミを祭神とする勝手神社は結構多い。

 春日神社の祭神については記載がなく不明だが、上記ネット資料には「天児屋根命」(アメノコヤネ)とある。
 アメノコヤネ命とは中臣氏(藤原氏)の祖神で、奈良・春日大社祭神4座の中の一柱。当社が春日神社と称することからの祭神であろう。
 ただ、春日神社を式内・岡田国神社とみた場合の祭神名は不明。

※社殿等
 石段を登った上の境内奥(北寄)、トタン屋根の大きな覆屋の中に朱塗りの本殿(春日造・銅板葺き)2棟が鎮座する。社名表示なく、どちらがどの神社かは不明。
 上記・ネット資料によれば、覆屋前に拝殿があるというが、今はない。本殿が美麗で新しく見えること、狭い境内に柱材など用材が積まれていることなどから、今、改修工事中と見える。

勝手神社/鳥居
勝手神社・鳥居
勝手神社/本殿
同・本殿
勝手神社/本殿(右)
同・本殿(右)

 覆屋の左の崖裾に末社3社(小祠)が並ぶ。
  市杵島姫社(イチキシマヒメ)・八柱神社(五男三女神)・海神社(オオワタツミ)
という。
 なお、小祠の間に置かれた狛犬(陶製)の表情はマンガチックで面白い。


勝手神社・末社

同・狛犬

同・狛犬

[トップページへ戻る]