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山城(乙訓郡)の式内社/大井神社
大井神社−−京都市右京区嵯峨天竜寺造路町
祭神−−宇賀霊神
大枝神社−−京都市西京区大枝沓掛町
祭神−−高美計神
                                                        2012.02.11・2012.02.22参詣

 延喜式神名帳に、『山城国乙訓郡 大井神社』とある式内社だが、上記・大井神社と大枝神社の両社が後継社と称している(ただ、この2社を論社とする資料はみえない)
 式内・大井神社そのものの創建由緒・年代等が不明であることに加えて、上記両社共に式内社とみなすに足る史料がないことからか、式内社調査報告(1979)は“未詳社”という。

【大井神社】(京都市右京区)
 嵐山・渡月橋北詰東側、土産物店・食堂などに囲まれたレンタサイクル店の前に素木の一の鳥居が立ち、レンタル自転車が並ぶ細い路地の奥に朱塗りの二の鳥居が、その奥、覆屋の中に古びた社殿(一間社流造・銅板葺)が鎮座する。

※由緒
 当社の創建由緒・年代など不明だが、社頭に掲げる案内には、
 「延喜式内社 大井神社
   祭神・宇賀霊神(ウガノミタマ)
   大堰川の守り神、また商売繁昌の神として古来住民の信仰が厚い。また秦氏や角倉了以の信仰も厚いものがあった。
   創立年月日は未詳だが、延喜式神名帳(927)や三代実録・貞観18年条(876)に記録(山代大堰神、従五位下)がある。
   おそらくは、秦氏の葛野大堰造営(8世紀初頭)と密接な関係があろう」
とある。

 当社は今、式内・大井神社と称しているが、
 ・延喜式にいう大井神社は乙訓郡にあった神社だが、当地は葛野郡に属すること、また当社が乙訓郡から葛野郡へ遷ったとする史料がないこと
 ・神社覈録(1870・明治初期)に、
  「按ずるに、こは葛野郡松尾神社の末社・堰神を祭れるより、堰神は今も大井神社(大堰神社)と称して、即ち大井川(大堰川)の北臨川寺の西に在す、その号を称したるにて、当郡の地名にはあらざるべし。故に、大井神社は廃れたるならむ」
とあること(式内社調査報告)
 ・案内にいう三代実録云々とは、実録・貞観18年7月21日条に記す
  「山城国正六位上・・・山代大堰神に従五位下を授く」
との記録を指すのだろうが、ここでいう山代大堰神とは、神名からみて松尾神社の末社とされる大堰神社を指すと思われること
などから、当社を式内・大井神社とするには疑問がある。

 松尾神社末社という大堰神社に関わって、松尾大社(松尾大社編・2007)には
 「大堰川にかかる渡月橋の北詰には、古くは松尾大社とゆかりのあったとされる大堰神社(大井神社)が祀られている」
とはあるものの、それが末社であったとは記していない。
 ただ、ネット資料(京都寺社案内)には、
 「かつては松尾神社末社だったが、現在は野宮神社によって管理されている」
とあり、古くは松尾神社の末社だったものが、野宮神社との関係が生じたことから“ゆかりがあった”と表現されたのかもしれない(案内には、今の社殿は野宮神社の旧社殿を移設したものとあり、松尾大社より野宮神社との関係が深いらしい)

 当社が、古くから大堰川の畔にあったとすれば、秦氏が建造したという葛野大堰に関係する神社で、大堰神社と見るのが妥当であろう。

※祭神
 今、当社祭神は宇賀霊神(ウガノミタマ)という。
 ウガノミタマとは、稲の神・食物の神(いわゆる稲荷神)で、穀物の豊穣を願う人々が祀ったのも頷けるが、上記・ネット資料には
 「かつては大綾都日神(オオアヤツヒ)・大直日神(オオナオビ)・神直日神(カムナオビ)を祀ったという」
とある。

 オオナオビ・カムナオビとは、亡くなったイザナミを訪ねた黄泉国から戻ったイザナギが、筑紫のアワギハラで禊ぎをしたとき、黄泉国で身に付いた穢れ・禍を祓い浄めるために成りでた神で、“直・ナオ”は穢れ・禍を祓い浄めて正常な状態に直すこと、“日・ビ又はヒ(毘とも書く)”は神霊をいう。
 オオアヤツヒとは、同じ黄泉国段・一書に出てくる神で、その神格は不詳だが、オオナオビに続いて成り出ているから、同じ神格をもつ神かと思われる。

 この三柱を祭神とする真偽は確認できないが、これが事実とすれば、当社は大堰川(桂川)の畔にあって禊ぎ祓いに関係する神社だったものが、葛野大堰の造成による農耕地の拡大など周辺状況の変化に伴って、穀物の神・ウカノミタマに替わったのかもしれない。

大井神社/一の鳥居
大井神社・一の鳥居
大井神社/二の鳥居
同・二の鳥居
大井神社/社殿
同・社殿


【大枝神社】(京都市西京区)
 阪急京都線・桂駅の西約4kmに鎮座する。
 桂駅西側のバス停から西5・桂坂中央行(時間2本)に乗車、桂坂口下車。すぐ横の交差点を西へ、府道142号線を約5分ほど行った右側(北側)山麓に鳥居が立つ。社名は“オオエ”と訓む。

※由緒
 創建由緒・年代等の詳細は不明だが、社頭に掲げる案内(大枝神社奉賛会)によれば、
 「康保4年(967)施行の延喜式には、神社の名前として『乙訓郡 大井神社』と記載されている。
  現在の祭神は高美計神(タカミケ神)である。この地の先住民である大枝氏の祭祀神といわれている」
とあり、式内・大井神社の後継社と称している。
 ただ、神社覈録(1870・明治初年)には、
 「山城志(1734・江戸中期)に、“沓掛村に在り、今千兒明神(チゴミョウジン)”と云ふ。然れども他書にかくいへるものなく、もとより地名なるべきに、此辺に大井てふ名の残れる所もなければ、今従はず」
とあり(式内社調査報告)、式内社であることに疑問を呈している。

 当社の祭祀にかかわった大枝氏とは、新撰姓氏禄(815)に、
 「右京神別(天神) 大枝朝臣 土師宿禰同祖 乾飯根命七世孫大保度連之後也」
    (土師宿禰−−右京神別 天穂日命十二世孫可美乾飯根命之後也)
とある氏族で(渡来系氏族との説あり)、伝説的人物・野見宿禰(垂仁紀)を出した土師氏(ハジ)から別れたという。

 一族から桓武天皇の母・高野新笠(タカノニイカサ、?--790・光仁天皇中宮、母方が土師氏)が出るに及んで、続日本紀(797)桓武天皇・延暦9年(790)12月1日に、天皇の詔として
 「朕は即位して10年になるが、亡くなった人を追尊して称号を贈ることをしなかった。そこで、母方の祖父・高野朝臣乙継と祖母の土師宿禰真琴にそれぞれ正一位を追贈する。
 また祖母の氏である土師氏を改めて“大枝朝臣”とするように。・・・」
とあり、同年12月30日条には、
 「正六位土師宿禰諸士(モロジ)らに『大枝朝臣』の氏姓を賜った。
 その土師氏にはすべてで四つの系統があり、中宮(高野新笠)の母親の家は毛受(モズ)の系統に属していた。そこで、毛受の系統の土師氏には“大枝朝臣”を賜い、その他の三つの系統の者には“秋篠朝臣”や“菅原朝臣”を名乗らせた」
とあり、桓武の母・高野新笠が出た系統が大枝氏という。

 その大枝氏が当地に居たことを証する直接的な史料は見えないが、
 ・当社一帯の地名に“大枝”を冠すること
 ・当社の西約300mほどに“高野新笠大枝陵”があること(宮内庁管理)
などから、当地が大枝一族の根拠地であったこと、当社が大枝氏奉斎の神社であったのは確かであろう。
 なお大枝氏は、後に同じ読みの“大江”と改姓している(866)

 以上からみて、当社が相当古い神社であるとはいえるが、当社を式内・大井神社とするのは、並河誠所(1668--1738、江戸中期の国学者、当時、既にわからなくなっていた畿内の式内社を調査検証し、式内社として比定したという)が編纂した山城志のみで、そこには比定根拠が記載されておらず、何を以て式内社としたかは不明。

 なお、山城志には「今、千兒明神と云ふ」とある。
 チゴ明神とは、曾て、当社に聖徳太子幼児像が祀られていたことからの呼称で(奉祀由緒など不明)、今は分離して、当社の東約900mの大枝塚原町に遷り、兒児神社と称している(分離時期不明)

※祭神
 今の祭神は高美計神(タカミケ)というが、記紀等にその名は見えず出自・神格等は不明。
 ただ古く、タカミケの“ミケ”が食物を意味したことから、嵐山の大井神社の祭神・ウカノミタマと同じ神格とみられ(タカは尊称)、大枝氏あるいは在地の人々が、五穀の豊饒を願って祀ったのであろう。
 しかし、当社が大枝氏の氏神社であるとすれば、氏の祖(土師氏の祖や高野新笠など)を祭神とするのが順当とも思われ、現祭神が創建当初からのものかどうかは不詳。

※社殿等
 道路脇からの石段の上に鳥居が立ち、参道を進んだ先のやや急な石段を登った上が境内。
 背後に山が迫る境内の中央に拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥に朱塗りの柱・白壁の本殿覆屋(流造・瓦葺)が建つ。
 覆屋内の中央に一間社流造・檜皮葺の本殿が鎮座し、その右に社名・祭神名不明の小祠がある。

大枝神社/鳥居
大枝神社・鳥居
大枝神社/拝殿正面
同・拝殿正面
大枝神社/拝殿
同・拝殿
大枝神社/本殿覆屋
同・本殿覆屋
大枝神社/本殿
同・本殿

 社殿右に稲荷社が、左に末社合祀殿(八幡社・天満宮)が、境内左手に山の神を祀る小祠があるが、いずれもそ勧請由緒・年代など不明。

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