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山城(乙訓郡)の式内社/乙訓坐大雷神社
A:角宮神社−−京都府長岡京市井ノ内南内畑
B:向日神社(併祭)−−京都府向日市向日町北山
祭神−−火雷神
                                                       2011.05.07参詣

 延喜式神名帳に、『山城国乙訓郡 乙訓坐大雷神社 名神大 月次新嘗』とある式内社だが、上記・角宮神社・向日神社併祭社(以下「向日神社下社」という)が、論社となっている。
 なお、社名を“乙訓坐雷神社”とする史料もあり、祭神を“火雷神”(ホノイカヅチ)とすることから、雷神社が本来かもしれない。
社名は“オトクニニマス オオイカツチ”または“オトクニニマス ホノイカツチ”と読む。山城国風土記には“乙訓社”(オトクニシャ)とある。
なお、論社・角宮神社は“スミノミヤ”、向日神社は“ムコウ”または“ムカヒ”と読む。

 阪急京都線・西向日駅の西約1.2kmに鎮座する。駅西側から国道・上川原交差出て府道205号線、滝ノ町交差点から県道208号線(善峰道)を西へ進んだ左(南側)に位置する。向日神社の西南西約800mにあたる。

※由緒
 当社にかかわって、山城国風土記(713)・賀茂社条に“丹塗矢伝承”、即ち
 「賀茂の建角身命(タケツノミ)の娘・玉依比売(タマヨリヒメ)が、瀬見の小川を流れてきた丹塗矢(ニヌリヤ)によって神の御子・別雷命(ワケイカヅチ)を生んだ。・・・
 丹塗矢は乙訓の郡の社(乙訓社)においでになる火雷命である」(大意)
があり、ワケイカヅチの父神・ホノイカツチが坐す社・乙訓社を式内・乙訓坐大雷神社に比定することに、諸資料とも異論はない。

 当社の正史上での初見は、続日本紀にいう
 「文武天皇・大宝2年(702)7月8日−−山背国乙訓郡にある火雷神は、雨乞いをする度に霊験がある。大弊(オオヌサ)と月次祭の幣帛(ミテグラ)を奉ることにせよ」
との記事で、それ以降、8世紀から9世紀にかけて封戸授与(天平7年-735・大同元年-806)・祈雨幣帛奉斎(宝亀5年-774・承和7年-840)・神階昇叙(延歴3年-784-従五位下・弘仁13年-822-従五位上・嘉3民-850-正五位下・貞観元年-869-従四位下)・社殿修理(延歴3年-784)・などの記事がみえ(続日本紀・日本略記・続日本後紀他)、延喜式には祈雨神祭85座の一座と、名神祭285座の一座と記されている。

 これらの記事からみて、山城国乙訓郡に8世紀以前から乙訓坐大雷神社(乙訓社)なる神社が存在し、平安時代を通じて雨乞いなどに霊験あらたかな神として崇敬されていたことがしられる。ただ、いずれの記事も乙訓神あるいは乙訓社とあるだけで、それが現角宮神社・向日神社下社のいずれを指すかは不明。

◎創建由緒
 両社とも、式内・乙訓坐大雷神社を名乗るものの、その創建由緒・時期は異なっている。
*角宮神社
 「社伝によると、継体天皇6年勅して乙訓社を建営し給ひ、火雷神を鎮め給ふ」(式内社調査報告・1979)

*向日神社下社
 「火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建て火雷大神を祀られたのが創立である」(向日神社・参詣の栞)

 この内、角宮神社がいう“継体天皇6年創建”の確証はない。
 ただ、書紀・継体12年条に「春3月 都を山城国乙訓に遷した」とあり、その地が現長岡京市今里付近(角宮神社の東南東約4km付近)とされることから、当社に関する何らかの伝承があったのかもしれない(ただ、由緒にいう継体6年頃の都は綴喜郡にあったとされ、年次的には整合しない)

 また向日神社がいう“神武天皇創建説”は、神武天皇実在の真偽は別としても、記紀等に、天皇が橿原から大和へ遷り住んだとの記述はなく、また“神々の土地の故事”が何を指すのかも不明であり、何を以て神武天皇創建とするのか不明。後年になっての創作であろう。

◎旧社地
 両社とも、旧社地は現在地とは異なっており、現在地への遷座について次のようにいう。
*角宮神社
 社頭の案内には
 「(旧社殿は)承久の変(1221・北条執権期初期)で灰燼に帰し、容易に復興を許されなかった。旧社地は井ノ内の西部(宮山)にあったが、文明16年(1484・室町末期)今の地に再興され、井ノ内の産土神として祀られている」
とある。これは社伝にいう、
 「文明16年後土御門天皇再び営御し給ひ、卜部兼倶卿をして今の地に弊を捧げ給ふ」(式内社調査報告)
を承けたものであろう。
 今、鎮座地の西約500mに宮山の地名があり、旧社地はこの辺りにあったのかもしれないが、跡地の確認不能。

*向日神社下社
 向日神社参詣の栞によれば、
 「(式内・向神社と式内・火雷神社の)両社は、同じ向日山に鎮座され、向神社は上ノ宮、火雷神社は下ノ社と呼ばれていた。
 建治元年(1275・北条執権期初期-元寇の頃)下ノ社の社殿荒廃により、上ノ社に併祭した。以降下ノ社の再興がならず、向日神社として今日に至っている」(大意)
とあり、下ノ宮併祭の経緯について、向日神社の古文書・旧聞抄(成立時期不明)には、
 「向神社と火雷神社(向日神社下社)とは本来別社であったが、承久の変(1221)に火雷神社の神主・六人部(ムトベ)氏義が天皇方に組して敗れ、その子孫は丹波に隠棲した。曾孫・氏貫の代の建治元年旧里に帰ったが、社殿の頽廃はなはだしく、向神社の神主・葛野義益の建議によって、火雷神社の御樋代(ご神体)を向日神社に納めた」
とあるという(式内社調査報告)

※祭神
 両社とも主祭神を火雷神とするが、両社が山城国風土記にいう乙訓社である限り、その祭神をワケイカツチの父神としてのホノイカツチとするのに異論はない。
 
◎火雷神
 火雷神は、山城国風土記・賀茂社条に“乙訓の国に坐す神”として出ているが、その出自・神格についての記述はない。
 記紀神話には、イザナギの黄泉国訪問譚の中に、腐爛したイザナミの身体の上に成り出た8雷神の一として“火雷神”があり、“落雷が起こす火(炎)”を指すといわれる。ただ、この火雷神と乙訓に坐す火雷神とはニュアンスを異にする。

 雷神とは所謂・“カミナリさま”で、古く、雷や雷光(稲妻)は天に居る雷神の荒々しい動きの表れで、落雷はその神の地上への示現であると信じられていた、という。
 農耕民にとっての雷神は、農耕(稲作)に必要な水を恵んでくれる雨水の神ひいては農耕神であったという。イナヅマを稲妻、イナビカリを稲光とも書くこと、稲光が稲の実を孕ませてくれるという信仰、旱魃に際して雷神に対して雨乞いを祈願するなどは、いずれも雷神が水神であることからの信仰といえる。
 鎌倉時代以降の雷神といえば、連太鼓の輪を背負って手に桴(バチ)をもつ鬼形として表されるが(俵屋宗達の風神雷神図など)、古くは、竜蛇形として表されたといわれ、これも水神としての神格を示すものという。

 この恵与神としての雷神は、人々に禍を与える災厄神としての一面ももっていた(神は和魂・荒魂の2面性をもつ)。落雷による火災・大雨による氾濫などがその端的な現れだが(イザナミの身体に成り出た火雷神もその一つ)、平安時代になると、この素朴な雷神信仰に、怨みを持って亡くなった人(特に菅原道真)が怨霊となって禍をもたらすという所謂・御霊信仰とが結合し、祀り鎮めるべき災厄神としての雷神信仰が広まったという。(以上・神道事典・1999)

 当社の火雷神がいずれの神格をもつものかははっきりしない。風土記にいう火雷神が、丹塗矢となって川を流れ来たというが、それは水神が丹塗矢(蛇の変形ともいえる)として示現したと解されることから、水神としての雷神であり、それが、当社が雨乞いに験ある社として朝野から崇敬された理由といえる。

 両社の祭神は次のとおり。
*角宮神社
   主祭神−−火雷神
   相殿神−−玉依姫命(タマヨリヒメ)・建角身命(タケツヌミ)・活目入彦五十狭茅尊(イクメイリヒコイサチ・垂仁天皇)
  相殿神について、社伝(成立時期不明)によれば、
  「延歴4年(785)2月12日桓武天皇勅してタマヨリヒメ命・タケツヌミ命・イクメイリヒコイサチ尊を火雷神と共に鎮め給ひ、・・・」
  という。

*向日神社下社
   主祭神−−火雷神
   相殿神−−玉依姫・神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコ・神武天皇)
   なお向日神社の祭神は、向日神(御歳神)
  旧聞抄には、
  「養老2年(714)8月10日、社殿大破のため仮殿にあった上社(向日社)の御樋代(ご神体)を新社に遷し奉り、亦同月15日、下社の御樋代を新社に遷し奉った。此の時、ホノイカツチ命の妃・タマヨリヒメ命とカムヤマトイワレヒコ尊(神武天皇)を下社相殿に鎮め奉った」(大意)
とあり(式内社調査報告)、相殿神は養老2年の奉斎という。
 ただ、下社が遷った新社が下社単独のものか上社のそれを指すのかは不明。上社・下社共に社殿大破したというのは疑問だが、上記のように、下社の上社への併祭は建治元年というから、下社単独と解すべきか。

 両社とも、主祭神・ホノイカツチと相殿神の一座・タマヨリヒメ(ホノイカツチの母神)は同じだが、その他の相殿神は異なっている。
 角宮神社にいうタケツヌミは、タマヨリヒメの父神であり異論はないが、垂仁天皇を祀る由緒は不明。角宮大明神来由書(年代不明)との古文書に崇神天皇との関係が記されているらしいが(長岡京市・ふるさとファイル41号)、判読不能。
 また向日神社下社に神武天皇を祀る由緒も不明。

※論社
 上記のように、両社とも火雷神を祀る式内・乙訓坐大雷神社と名乗っているが、ホノイカツチとタマヨリヒメを祀る以外に、その創建由緒・時期・現在地への遷座経緯などは異なり、別々の神社といわざるを得ない。

 この両社のどちらが式内・乙訓坐大雷神社かについては、古来から緒説があるが、決め手となるものはなく、管見したかぎりで、次の資料がある。
*角宮神社とするもの
 ・桓武天皇・延暦4年(785)−−天皇行幸奉幣し、角宮乙訓大明神と仰ぎ給ふ(角宮神社社伝)
 ・大日本史(1676)−−乙訓坐火雷神社 又乙訓神と称す、今角宮と称す
 ・山城志(1734)−−乙訓社 井内村にあり、今角宮と称す。広隆寺記に見ゆ
 ・山城名勝誌(1711)・乙訓社条−−神名帳頭注に曰、坐火雷神は賀茂建角身命也
 ・兼古物抄(江戸時代というが年次不明)−−乙訓社 建角身命は須美明神の事也。今建角身を略して角宮と称す
 桓武天皇の行幸奉幣云々については続日本紀に記述なく確認不能で、これを以て乙訓社即角宮神社とはできないが、その他史料からみて、江戸時代には角宮神社が乙訓坐火雷神社(乙訓社)と考えられていたらしい。

 この流れは明治になっても引き継がれたようで、明治時代の特選神名牒(1876)は角宮神社に比定し、その理由として“向日社略記の遷座説を支持し”とあるというが(日本の神々5)、向日社略記には上記のように“下社社殿荒廃のため上社(向神社)に併祭”とあり、遷座説を支持し角宮神社としたというのは平仄があわない(原本未確認のため詳細不明)

*向日神社下社とするもの
 ・太秦広隆寺来由記(1499)−−山城国乙訓郡に一宇社あり、乙訓社と号す。今の向日明神是也
 ・山城名勝志(1711)広隆寺条−−檀像薬師如来 縁起云件の像は山城国乙訓郡に社有り。乙訓社と号す今向日明神也
 いずれも向日神社々誌(1930、著者・向日神社宮司)の記述だが、太秦広隆寺由来記は図書館等でも原本が見当たらず確認不能。
 名勝誌にいう“今向日明神也”とは、前後の記述からみて、乙訓社そのものの説明というより薬師像の造像縁起に付記された注記(伝聞によるものか)であり、これを以て乙訓社即向日神社下社とするのは疑問。
 また名勝誌・乙訓社条には“火雷神は建角身命也”とあり、建角身命は角宮神社の併祭神であることからみて、名勝誌の著者は乙訓社は角宮神社と理解していたと思われる。

 式内・乙訓坐火雷神社が角宮神社か向日神社下社の何れとするかは古来から諸説があり、未だ決着していないというのが実態であろう。

※社殿等
【角宮神社】
 府道208号線(善峰道)の角を境域植込みに沿って南に曲がったすぐに鳥居が立ち、傍らの石標には“式内乙訓坐火雷神社 角宮神社”とある。
 境内正面に入母屋造(妻入)・瓦葺きの大きな舞殿(拝殿を兼ねるか)が、その背後の本殿覆屋の中に祠2社が収まっている。
 左か当社本殿(流造)で、主祭神・火雷神と相殿神・玉依姫・建角身命・垂仁天皇を祀り、右に境内社の春日社(春日造、春日三神)が並ぶ。春日社が本殿と並ぶことは、それだけ重視されていることを示すが、その理由は不明。 

角宮神社/鳥居
角宮神社・鳥居
角宮神社/舞殿
同・舞殿
角宮神社/本殿覆屋
同・本殿覆屋
角宮神社/本殿
同・本殿(左)春日社(右・境内社)

 本殿の右に、境内社・八幡社の小祠および3社合祀殿(太神社・稲荷社・向日社)が並ぶが、詳しい由緒書きなどなく奉斎由緒など不明。


境内社・八幡社

境内社(太神社・稲荷社・向日社)

【向日神社下社】
  式内・向神社(現向日神社)本殿に併祭のため、下社としての社殿なし。(別稿・向日神社参照)

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