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山城(綴喜郡)の式内社/佐牙乃神社
現社名−−佐牙神社
京都府京田辺市宮津佐牙垣内
祭神−−佐牙彌豆男神・佐牙彌豆女神
                                                        2012.01.13参詣

 延喜式神名帳に、『山城国綴喜郡 佐牙乃神社 鍬靫』とある式内社だが、今は“佐牙神社”と称している。社名は“サガノ”と訓むが、“サカノ”・“サケノ”・“サメノ”などと訓む資料もある。

 JR学研都市線(片町線)・JR三山木駅の南約600m(近鉄京都線・近鉄宮津駅の東約500m)、駅西側を南北に通る府道22号線を南下、三山木小学校前を過ぎた左側に鳥居が立つ。周囲には宮津の市街地が拡がる。

※由緒
 頂いた当社由緒略記には、
 「社伝には、敏達天皇2年(573)始めて祭られる。造酒司(サケツクリノツカサ)の奉幣があったと伝えられている。また、東朱智とも言ったらしい。
 当社は昔、山本村にあったのが、桓武天皇・延歴13年(794)現在の地に創建されたと伝えられ、平城天皇・大同元年(806)神領寄進あり、醍醐天皇・延喜5年(905)撰集の延喜式神名帳に記載された式内社である」
とある。
 また特選神名牒(1876)・酒屋神社の項に引用する“佐牙神社神記”(延喜式内佐牙神社本源記−1185−か)には、
 「敏達天皇2年、勅して酒部連友三と云う人に命じて、佐賀弥豆男神(サガミツオ)・佐賀弥豆女神(サガミツメ)を咋岡(クイオカ)の山本に鎮座なし玉ひて、大内酒造司官人毎年幣帛を奉る神社となれり」
とあるという。

 これらによれば、当社は、敏達天皇2年に旧山本村に創建され、桓武天皇・延歴13年に現在地に遷座した、となるが、それを証する史料はない。
 ただ、今も生きている伝承として、当社の北東約1.3kmにある三山木垣内の地内に“大神宮跡”との区画があり、ここが佐牙乃神社の旧跡という。

*旧社地跡(京田辺市三山木垣内33-2)
 三山木駅の北側を東西に走る府道65号線を東進した玉水橋の手前、畑地と民家生垣の間の狭い農道を北に入った先の畑の中に、数本の木立がある一画があり、傍らに“大神宮跡”との案内板が立っている。
 案内板(京田辺市教育委員会)には
 「現在江津区にある式内・佐牙神社の旧跡で、かつてはここにあった。
 社伝によれば、敏達天皇2年の創祀で、造酒司の奉幣があったという。
 佐牙神社は、水害のため宮津に移されたが、山本を御旅所として、祭日(10月17日)には、神輿の渡御があり、10月20日には、山本宮座の太夫八人が、この地へお参りする」
とある。
 資料によれば、曾ては木造の小祠2基があり、上の大神宮・下の大神宮と呼ばれていたというが、今、小祠はなく、疎林のなかに祠の基礎かと思われる平たい石が2個あるのみ。祭礼の神輿が渡御する御旅所というが、それらしい雰囲気はみえない。

 当社の創建が由緒にいうように敏達朝とすれば、未だ駅鈴の中継地・山本駅(下記)は設置されていないが、下記するのように、当地が大和と山陰を結ぶ道路沿いで拓けていたとすれば、ここに当社が創建されたとしてもおかしくはない。
 ただ、その場合、立地からみて、由緒にいう酒造りに関係する神というより、木津川の水路安定を祈る水神、あるいは旅の安全を祈る神であったとも考えられる。

佐牙神社/旧社地全景
大神宮跡・全景
佐牙神社/旧社地1
大神宮跡
佐牙神社/旧社地2
同左
(祠の基礎らしい石が2個ある)

*旧山本駅趾
 縁起がいう“旧山本村”とは、JR三山木駅・近鉄三山木駅の東方に残る中世の環濠集落趾(山本集落)の付近という。
 JR三山木駅の北を通る府道65号線を東進した左側(北側)にある山本構造改善センター前(寿宝寺の北隣)の植え込みの南西隅に
 『和銅四年設置 山本駅旧跡』
との石碑が立っている。

 また、道路の反対側(南側)にある中世の環濠集落趾(山本集落−今、集落の北側に環濠跡とおぼしき狭い水路が残っている)の東南角に立つ石碑(古代山本里ならびに山本駅遺跡之碑)には、
 「ここには大和飛鳥から山陰地方に至る古代の道が通じていた。大化の改新(646)で定められた班田収授制に伴う条里制(土地区画制度)によって設けられた綴喜郡第四条・山本の里は、この辺りと推定される。
 和銅4年(711)には山背国綴喜郡山本駅が、ここに置かれた」(大意)
とあり、この辺りは交通の要衝として早くから拓けた土地であったという。 
旧山本駅趾の碑
旧山本駅跡の石碑
旧山本駅・石碑・全景
石碑・植え込み全景
(左隅に石碑が立つ)
 なお、ここでいう“駅”とは、孝徳天皇・大化2年の改新の詔によって設けられた“駅鈴制”に伴う施設(一種の中継地−−江戸時代の宿場に似た公的施設)で、公用で旅する官吏は、この駅で身分を示す駅鈴を見せることで、旅に必要な人馬の供給などを受けることが出来たという。

 一方、この敏達朝創建説に対して、大日本地名辞書(1907・明治末)には、
 「三山木村大字宮津に旧江津村(エノツ)と云ふあり。其の西北に天神あり、即是とぞ。社地を切山と云ふ。地妖ありて地裂けたるによりて祭る所か」
とある。

 これは、三代実録・貞観12年(870)7月29日条に記す
 「山城国言う。綴喜郡山本郷の山が頻りに裂け陥ちき。長22丈・・・。小山堆起し、草木は変動(ウゴ)くことなし。時の人、陥地地中に入りて、更に堆起して山を成すかと疑ふ」
を受けたもので、何らかの理由で地殻変動が起こり、土地の陥没・隆起があった、というもの。
 上記地名辞書は、この時出来た小山を“桐山と呼ぶ”とあり、“切山”・“桐山”とが同音で“裂ける”に通ずるとして、この時、神の怒りを鎮めるために創建されたのが当社で、当社名は“サケノ”(裂ける)と読むべきという。

 天変地異を神の怒りとして、これを鎮めるために社を建て神マツリをおこなったのは多々みられることであり、その意味では、この創建由緒はおかしくはない。しかし、この場合の祭神は現祭神とは異なると思われるが、その神名は不明。
 当社の近傍(北北東)に切山(宮津切山・三山木切山)との地名があるが、上記の旧社地跡(旧山本)とも近く、同じ場所を指すものと思われる。

 創建後の経緯としては桓武朝の遷座記事以外にみえず、神階授与の記録もないが、神抄格勅符抄が引用する大同元年牒(806・神社に与えられた封戸の記録)に記す「佐牙神 九戸」とは当社への封戸授与を指すという(略記にいう“神領寄進”)
 とすれば、当社が9世紀以前から実在したことは確かといえる。

※祭神
 祭神・佐牙彌豆男神(サカミズオ、又はサケヤズオ)・佐牙彌豆女神(サカミズメ、又はサケヤズメ)の出自・神格ははっきりしないが、
 ・延喜式神名帳・宮中神の中に
   「造酒司坐神六座大四座小二座 大宮売神社四座大月次新嘗 
                      酒殿神社二座 酒彌豆男神・酒彌豆女神」
 ・特選神名牒(1876)
   「社伝に祭神・天津神吉田大明神とあれど、佐牙神社神記というものには酒彌豆男神・酒彌豆女神の二神なりと云えり。由緒ありげなり猶よく考べし」
とあり、佐牙彌豆男神・佐牙彌豆女神を酒彌豆男神・酒彌豆女神と同神とみている(読みは同じ)
 また当社由緒略記にも
   「造酒司の奉幣があったと伝える」
とあることからみて、酒造りに関係する神であろう。

 酒造りに関して、応神記に
 「酒を醸す技術を心得ている人で、名は仁番(ニホ)亦は須々許理(ススコリ)等が渡来してきた。このススコリが酒を醸して天皇に奉った。天皇は、このお酒でよい気持に酔って・・・」
とあり、また新撰姓氏禄・右京皇別・酒部公の注記に
 「応神天皇の御代、韓国より曾々保利(ソソホリ−ススコリと同じ)と名乗る兄弟二人が渡来してきた。天皇が何の才があるかと問うたところ、酒造りの才があると答えたので、酒を造らせた」(大意)
とあり、当社に伝わる延喜式内佐牙神社本源記には、
 「朝廷酒司の館舎に祭る所酒殿神にして御名を称して佐牙弥豆男神・佐牙弥豆女神の二座にして、造酒司の官人等貴び敬う所の神也。・・・唐国より来朝する所の人在り、其の名を曾保利弟と云、曾々保利と云う弐人在り・・・」
とある(ネット資料・竹取物語の里・京田辺)
 これらからみると、我が国に酒造りをもたらしたのは渡来人・ソソホリ(又はススコリ)という兄弟で、当社の祭神二座は、この二人と何らかの関係があったかと推測される。なお、ここでの佐牙は“サケ”と読み“酒”を意味しており、とすれば、社名は“サケノ”と読むべきかもしれない

 これらに対して、
 ・田辺町史所載の近世古絵図に、江津村の出郷とされる石戸村の地に並記されている「佐賀天神宮・若松大明神」が当社を指し(「号東朱智社」との注記あり)
 ・京都府地誌(1884)に、
 「本村西北にあり、維新前天神宮又は吉田明神と称す。式内村社。・・・祭神二座 一は斎主神(イハイノウシ)を祀り若松明神と称す。一は佐牙弥豆男・弥豆女の神を祀る」
とあることから、本殿二社のうち一社は斎主神を祀る若松明神だという伝承があったらしい、という(日本の神々5・2000)
 斎主神・イハイノウシ神とは、祭祀をおこなう神で、記紀では経津主神(フツヌシ−香取神宮・春日大社の祭神)がそれとされるが、当社にフツヌシが祀られる由緒はみえず、単に祭祀を司る神として祀られたのかもしれない。しかし、今の当社に斎主神(あるいは若松明神)を祀ったとする痕跡はみえない。

※社殿等
 府道西側に一の鳥居が、傍らに“式内 佐牙神社”との石標が立ち、参道を進んだ先に朱塗りの二の鳥居が立ち、やや急な石段を登って境内に入る。
 石段は大きく二つに別れ、その間にちょっとした平場がある。明治初年まであった恵日寺(神宮寺)の跡といわれ、片隅に「恵日寺跡」と刻したちいさな石碑および案内板が立っている(下記)

 境内中央に拝殿(切妻造・間口七間・奥行二間・瓦葺)が、その奥、白壁に囲まれた神域内に朱色が鮮やかな本殿2社(いずれも春日造・間口六尺・奥行五尺・檜皮葺)が、東面して鎮座する。
 本殿は国指定の重要文化財(昭和25年指定)で旧国宝(大正12年指定)

 略記によれば、
 ・永正6年(1509・室町後期)12月、菱田監物と森村信濃守との土地争論から兵火にかかって焼失
 ・同11年(1514)8月、山本主馬介義吉一族によって再建 
 ・天正4年(1576・織田時代)10月、火災により焼失
 ・同13年(1585・豊臣時代)9月、再建
 ・大正12年(1923)3月、本殿国宝指定
 ・昭和8年(1933)、解体修理・再建当初の姿に復元
 ・同9年の室戸台風およびそれ以降の台風により度々被災、その都度補修
 ・平成14年(2002)、文化財国庫補助事業により、屋根葺変・塗装塗替などの保存修理施行
という。


佐牙乃神社・一の鳥居

同・二の鳥居

同・恵日寺跡(右上部に石段あり)
佐牙乃神社/拝殿
同・拝殿
佐牙乃神社/本殿
同・本殿

◎境内社
 神域内、本殿の左右に境内社2社(一間社流造・銅板葺き)が鎮座する
 由緒略記によれば、
 ・大神社(本殿左)−−祭神:天照皇大神
              天明6年(1786)寄進
 ・蛭子神社(本殿右)−−祭神:事代主命(コトシロヌシ)
               寛政8年(1796)寄進
 平成2年6月寄進により再建
という。
佐牙乃神社/境内社・大神宮
大神宮
佐牙乃神社/境内社・蛭子神社
蛭子神社

◎恵日寺跡
 恵日寺跡に立つ案内板によれば、
 「明治初期の神仏分離により、境内にあった神宮寺の恵日寺も廃寺となった。そのため、本尊・不動明王像(南北朝時代造)以下の諸仏像は近くの正福寺(江津)と寿宝寺(山本)に分けて移され、大般若経600巻も両寺で折半された。
 文政12年(1829)の古文書によれば、秋祭りの御旅所への神輿渡御には恵日寺と寿宝寺の僧侶も列に加わったとの記録があり、1月10日の当社の初座(弓始め)には、恵日寺の法印が弓射の神事をおこなったと伝える。
 なお、当社本殿南隣の丘陵地には奈良時代以前に創建された寺があったとみられ、現在、三山木廃寺跡の碑が立っている」
という(大意)
 ここに寿宝寺との寺が出てくるのは、上記の旧社地(山本)との関係からであろう。三山木廃寺跡は不参詣。

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