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山城(乙訓郡)の式内社/酒解神社
京都府乙訓郡大山崎町天王
祭神--大山祇神(酒解神)・素盞鳴尊
                                                                 20120104参詣

 延喜式新名称に、『山城国乙訓郡 自玉手祭来酒解神社 名神大 月次新嘗 元名山崎社』とある式内社で、通称・酒解神社という。社名は、通常、“タマテヨリマツリキタル サカトケ神社”と訓むが、元名・山崎社を採って“タマテヨリマツリキタル ウネヤマサキノカミノヤシロ”とする古文書もあるという。

 JR東海道線(JR京都線)・山崎駅の北約1.3km、羽柴秀吉の天下取りのきっかけとなった山崎合戦で知られる天王山(H=270m)山頂から少し下った中腹に鎮座する印)

 駅南側の道路を東進、踏切を渡った角に“天王山登山口”との石標、および天王山付近の名所案内看板(右写真)あり。
 途中までは舗装道路だが、ハイキング道に入ると整備不行届きの地道で歩きにくい。登山口より神社まで約30~40分程度か。
 なお、駅から線路沿いの北側道路を右(東北方)へ進み、山崎聖天観音寺への角(石碑あり)を左折してハイキング道(参道)に入る道もある。参道に入って少し進むと一の鳥居が立つことから、こちらが古くからの本参道かもしれない。

 なお駅の西南すぐには、当社の旧鎮座地ともいう離宮八幡宮がある印)

※由緒
 当社の創建由緒・時期等不明だが、二の鳥居脇に掲げる案内板(大山崎町教育委員会)によれば、
 「その創建は奈良時代まで溯るといわれ、平安時代の延喜式神名帳にも月次・新嘗の官祭を受ける名神大社と記されている。神名帳によると旧名を山崎社と称し、元正天皇の養老元年(717・奈良初期)建立の棟札があったという。
 中世には山下の離宮八幡宮の勢力が強大となり、同社は山崎山(天王山)上に遷座し、山上の神はやがて天王社と呼ばれるようになり、山も天王山と呼ばれるようになっていった」
という。

 また、式内社調査報告(1979)には
 ・神社明細帳(1874・明治前期)--元正天皇・養老元年(717)再建(山城名勝志-1711-は養老2年という)
 ・続日本後紀・仁明天皇・承和6年条(839・平安前期)--無位自玉手祭来酒解神社に従五位下を授け奉る
 ・同・承和10年条(843)--従五位下自玉手祭来酒解神社一前に正五位下を授け奉る。名神に預る
 ・延喜式神名帳(927)--山城国乙訓郡 自玉手祭来酒解神社 名神大 月次新嘗 元名山崎社と登載
とある。

 上記案内板に“奈良時代創建”というのは、神社明細帳にいう“養老元年再建説”によるものだろうが、“養老元年建立の棟札”以外にそれを証する史料はない(下記のように江戸中期に社殿焼失というから、棟札も、その時焼失したと思われる)
 しかし、続日本後紀にいう承和6年条以降の記録などからみて、遅くとも平安以前からの古社であることは確かといえる。

 延喜式に“元名山崎社”というのは、旧乙訓郡山崎の地にあることからだろうが、上記案内板に
 “中世の頃、離宮八幡宮勢力の強大化によって、当社は山下から山崎山上に遷座”
したという経緯がはっきりしない。

 ただ、元地といわれる離宮八幡宮(大山崎町大山崎西谷)の由緒に、
 「清和天皇・貞観元年(859)、行教との僧が、宇佐八幡宮からの帰京の途中、山崎の地で八幡神の神託を受けて此地に創建した石清水八幡宮が発祥で、後に神霊を対岸の男山に分祀した」(大意、別稿・「離宮八幡宮」参照)
とあり、これに男山・石清水八幡宮の由緒などをあわせると、男山・石清水神社創建までの間(ただ、両社とも貞観元年創建という)、一旦、当地にあった酒解神社に仮遷座していたとも解され、八幡神の男山への分祀後、八幡信仰の隆盛化に伴って当社の勢力が強くなり、元々の酒解神社が山上へ遷座せざるを得なくなったとも解される。

 その傍証として、離宮八幡宮の参詣の栞に、わざわざ酒解神社の項をもうけ、
 「八幡宮境内のカシキ岩を“玉砥”(タマト)という酒解神(大山祇神)の憑り給う石境(イワサカ)と見立てての遷宮説もある」
とあり、また雍州府志(1684)などに
 「山埼明神 離宮の側に在り」
とあることからみて、当社が離宮八幡宮境内あるいはその近くにあったことは確からしい。

 また、当社が山上の現在地へ遷座した時期については、離宮八幡宮の創建が清和天皇・貞観元年(859・平安初期)ということ(参詣の栞)、上記案内板に“離宮八幡宮勢力の強大化により・・・”とあることからすれば、平安前期から中期にかけての時期であろうが、遷座時期は確定できない。

 中世以降の経緯については不明だが、江戸後期の史料として
 ・光格天皇・文化年中(1804--17)、天災のため社殿焼失
 ・仁孝天皇・文政3年(1820)、再建
があり、江戸時代には山崎天王社・天神天王社・牛頭天王社・天神八王子社・山埼明神などと呼ばれていたという。

 明治以降の経緯については、
 ・中古誤って天神八王子宮(天王社との史料もある)と称していたが、明治6年(1873)村社に定められ、同10年(1877)延喜式内・自玉手祭来酒解神社に決定の旨、府庁より公達され、当社を延喜式内の古社と決定した。
という(式内社調査報告)
 これからみると、当社が式内・自玉手祭来酒解神社と公的に比定されたのは明治初年となる。延喜式に“元名山崎社”とあることを根拠としたものだろうが、詳細は不明。

※祭神
 今の祭神は、主祭神は大山祇神(オオヤマツミ)、相殿神・素盞鳴尊(スサノヲ)となっているが、オオヤマツミは別名・酒解神(サカトケ)ともいう。
 オオヤマツミとは、イザナギがイザナミの死の原因となったカグツチを三段に斬ったとき、その一つから成りでた神(書紀・一書7)で、山を司る神という。
 また、わが国で最初に酒を醸した神といわれ、そこから酒解神とも呼ばれる。俗説めいた伝承では、酒は、オオヤマツミの娘・コノハナサクヤヒメが皇孫・ホノニニギの御子を生んだとき、喜んだ父神が米から酒を醸して、これを神々にふるまったことに始まるという。
 しかし、サカトケを辟解・堺解(いずれもサカトケ)と解して“祓いの神”・“辟邪の神”とする説もある。

 ネット資料によれば、この酒解神は古代の名族・橘氏の祖神で、当社に勧請したのは橘氏との伝承があるという。
 「当社の創建は元正天皇・養老元年(717)で、その当社は山崎の社(ヤマサキノヤシロ)と呼ばれていた。
 その後、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(檀林皇后・786--850)が、嵯峨の梅宮に一門の氏神として酒解神を勧請し(梅宮大社・右京区梅津フケノ川町)、また天皇ゆかりの地に酒解神を遷した」(大山崎の伝説・大意)
というもので、ともに酒解神を祀ること、続日本後紀に“梅宮の酒解神に従四位下、並びに当社の酒解神に正五位下を授けた”と梅宮社と当社が続けて記されていることから、何らかの関係があったとも推測され、そこから、当社の橘氏勧請というのも無視できないが、出典資料不明のため確認不能。

 橘氏とは、藤原不比等の夫人(再婚)・県犬養宿禰三千代(665?--733・アガタイヌカイノスクネミチヨ)を実質的な祖とする氏族で、新撰姓氏禄(815)に、
 「左京皇別 橘朝臣 敏達天皇皇子難波皇子の男。贈従二位栗隈王男。治部卿従四位下美怒王」
とあるように(美怒王は三千代の最初の夫)、敏達天皇系の皇別氏族といわれ、酒解神(又は大山祇神)との関係はみえない。
 なお、ネット資料は、“当地が嵯峨天皇ゆかりの地だったから、当地に酒解神を勧請した”というが、当社の古社地に嵯峨天皇の河陽離宮(カワミナミリキュウ・813--61)があったことを指す。

 相殿神のスサノヲは、江戸末期まで天王社(山崎天王社・山崎八王子社・牛頭天王社など)と呼ばれていたことからみて、江戸時代に流行した防疫神・ゴズテンノウを勧請したものと解され、当社本来の祭神ではない。明治の神仏分離に際して、同じ神格をもつスサノヲに変更したものであろう。

 なお、当社を山崎八王子社と呼ぶ場合の“八王子”とは、
 ①ゴズテンノウの御子・八王子(七男一女ともいう)を指すもので、伝承により諸説がありはっきりしないが、陰陽道の暦神信仰と習合したものとして、
    ・大歳神(タイサン・別名:総光天王)・大将軍(ダイショウグン・魔王天王)・太陰神(タイオン・倶魔羅天王)・歳刑神(タイギョウ・得達神天王)
    ・歳破神(サイハ・良侍天王)・歳殺神(サイセツ・侍神相天王)・黄幡神(オウハン・宅神相天王)・豹尾神(ヒョウビ・蛇毒気神天王)
 がある(簠簋内伝-ホキナイデン)
  ただ古くは、牛頭天王と八王子は一体の神と認識され、八王子個々の名を挙げて祀ることはなかったらしい。

 ②祭神がスサノヲと変更された明治以降は、アマテラスとスサノヲの誓約(ウケヒ)によって生まれた五男三女の神々で、
    天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)・天穂日命(アメノホヒ)・天津彦根命(アマツヒコネ)・活津彦根命(イクツヒコネ)
    ・熊野櫲樟日命(クマノノクイヒ)・田心姫(タゴコロヒメ)・瑞津姫(タギツヒメ)・市杵嶋嶋姫(イチキシマヒメ)--(表記は日本書紀による)
 をいうが、少数ながらスサノヲの御子とされる
    八嶋土奴美神(ヤシマジヌミ)・五十猛命(イタケル)・大歳神(オオトシカミ)・大屋毘古命(オオヤヒコ)
    ・大屋津比売命(オオヤツヒメ)・抓津姫命(ツマツヒメ)・宇迦之御魂神(ウカノミタマ)・須勢理比売命(スセリヒメ)
 をいうことがある。いずれも、無理に振り充てたこじつけの感が強い。。

※社殿等
 山崎聖天観音寺前から約50mほど登った参道(ハイキング道兼用)途中に“一の鳥居”が立つ。
 参道とはいっても、ハイキング道として利用されているだいぶ荒れた道で、途中の展望台横に“二の鳥居”(神額:酒解神社)が立ち、鳥居脇に山崎合戦の模様を描いた大きな絵看板が2枚掲げてある(堺屋太一氏の説明文付)
 ちいさな木製展望台には山崎合戦時の諸将陣構えを描いた絵図があり、傍らに“山崎合戦の地”と刻した石碑が立つ。いずれからも眼下の眺望は良好(京阪本線・樟葉駅当たりから二の鳥居が見える)

 二の鳥居をくぐり、やや緩やかな参道(山道)を進むと、左手の石段上に“三社宮”があり、その右手少し進んだ処が境内入口で、入口両側に三の鳥居の柱下部のみ(H=2mほど)が残り、脇に2本の青竹に注連縄を張った仮の鳥居が立っている。

 山間の狭い境内左手に東面して本殿(切妻造・五間×四間、銅板葺)が、右手に拝殿(切妻造・五間×三間、瓦葺)が建ち、その間を弊殿が結ぶ。社殿の周りには金網柵が巡っていて近寄れず、本殿内部の様子は不明。
 資料によれば、昭和44年(1969)の台風で倒壊、その後改築したというが、だいぶ荒れている。特に、拝殿は休憩所を兼ねているらしいが、内部は埃だらけ。
 なお、ハイキング道は弊殿下をくぐった先を左折して山頂へ至る。

酒解神社/一の鳥居
酒解神社・一の鳥居
酒解神社/二の鳥居
同・二の鳥居
酒解神社/境内入口
同・境内入口(三の鳥居基部あり)
酒解神社/拝殿
同・拝殿(左:拝殿、右:弊殿、間を道が通る)
酒解神社/本殿
同・本殿
酒解神社/本殿正面
同・弊殿より本殿正面を望む

◎末社
 本殿右手の簡単な覆屋の中に“後見社”が、左手に同じく“宮主社”が鎮座し、その左・一段高いところに“神輿庫”が建つ。
 また、境内左すこし離れた石段上に“三社宮”が、その先の貯水タンク脇を入った先に“厳島神社”がある。
 ・後見社--祭神:大己貴命(オオナムチ)
 ・宮主社--祭神:足名稚命(アシナヅチ)・手名稚命(テナヅチ)--八岐大蛇伝承に登場するスサノヲの妃・クシナダヒメの両神
 ・三社宮--覆屋の中、右から天照大神・月読神(ツクヨミ)・蛭子神(ヒルコ)を祀る小祠が並ぶ
 ・厳島神社--祭神:市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)--宗像三女神の一・航海守護の女神・厳島神社の祭神
 いずれも鎮座由緒・時期等不明。

 ・神輿庫--神輿の収納庫で、鎌倉時代後期の建立といわれ、室町時代の古い神輿2基を納めるという。
         建物は、厚さ約14cmの厚板を積みあげた切妻造板倉形式で、現存する板倉としては最古の遺構といわれ、
         国指定の重要文化財。

酒解神社/末社・後見社
末社・後見社
酒解神社/末社・宮主社
末社・宮主社
酒解神社/末社・厳島社
末社・厳島社
酒解神社/神輿庫
神輿庫
酒解神社/末社合祀殿・三社宮
末社合祀殿・三社宮
酒解神社/末社・蛭子社・月読社
末社・左:蛭子社、右:月読社
酒解神社/末社・大神宮
末社・大神宮

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