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下御霊神社
京都市中京区寺町通丸太町入下御霊前町
祭神--崇道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原吉子・藤原広嗣
・橘逸勢・文屋宮田麻呂・吉備聖霊・火雷天神

                                                                2016.09.27参詣

 京阪電鉄・神宮丸太町駅の西約350m、下鴨神社の北西、賀茂川に架かる丸太橋を渡って西へ、河原町丸太町交差点を過ぎた次の信号(京都御所東南角)を左折、寺町通りを南に下ったすぐの左側(東側)、民家に囲まれて鎮座する。

※由緒
 境内に掲げる案内には、
 「平安初期の貞観5年(863)に神泉苑で行われた御霊会で祀られた崇道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原吉子・藤原広嗣・橘逸勢・文屋宮田麻呂の六座に、吉備真備と火雷天神を加えた八座、即ち八所御霊を出雲路(上京区)の地に奉祀したのが始まりである。
 いずれも無実の罪などにより非業の死を遂げた人物で、疫病流行や天変地異はこの怨霊によるものと考えられ、それを鎮めるために御霊が祀られた。
 当初、御霊神社(上御霊神社)の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命により当地に移転した。
 古来より、京都御所の産土神として崇敬され、享保年間(1716--36)に霊元天皇が当社に行幸され、宸筆の祈願文を納めている」

 また、当社公式HPには、
 ・平安時代の人々は、災害や疫病の原因を貴人の怨霊がもたらすものと考え、御霊として祀ることで、災害から守ってもらえるとして御霊会を行うようになりました。
 ・初めは京の郊外で祀られていましたが、後に八所御霊としてまとめて4お祀りすることで御神徳が高まると考えられ、当社が鎮座されたと思われます。
 ・そんな中で、貞観5年(863)5月20日に、神泉苑で御霊会が行われました。
 ・当社は神泉苑御霊会に祀られた六座に二座を加えた八座を祀り、八所御霊と申しあげます。
 ・創建年次はまったく不明で、おそらくこの頃に祀られたと考えられます。
 ・初め愛宕郡出雲郷の下出雲寺(のちに廃絶)の境内に鎮座されたと伝えられています。
 ・今でいうと寺町通今出川の北辺りと考えられ、後に新町通出水の西に移り(鎌倉時代という)、天正18年(1590)に現在地に鎮座されました(大意)
とある。

 これらによれば、当社は貞観5年の神泉苑御霊会(863)の後、そこで祀られた6座の御霊に2座を加えて創建されたとなる。

 これに対して、日本の神々5(1986)は、当社に伊予親王・藤原夫人が祀られていることに注目して、
 「平城天皇の即位を巡り、藤原仲成の陰謀によって謀反の疑いをうけた伊予親王は、母藤原吉子とともに川原寺に幽閉され自殺した。
 社伝によれば、当社はこの霊を鎮めるために承和6年(839)仁明天皇によって創建されたという」
とある。

 ここでいう承和6年創建にかかわって、続日本後紀・承和6年9月条に、仁明天皇の詔勅として
  「二品・早良親王に一品の位を、無位・藤原朝臣吉子に従三位を贈る」
との記事があり、
 これに合わせて伊予親王・藤原吉子母子の怨霊を鎮めために、当社が創建されたのはあり得ることで、そこに神泉苑御霊会後、崇神天皇以下の4座を合祀したとも思われる。

 下記するように、伊予親王母子は、平城天皇即位に際しての政争に巻きこまれ、川原寺に幽閉され自殺したことから、上御陵神社が桓武天皇即位にかかわる政争の犠牲者が祀られるのに対して、当社は平城天皇即位にかかわるそれらを祀ったとの見解があり、あるいはこれが実態に近いかもしれない。

 なお、HPがいう最初の鎮座地・下出雲寺境内とは、今、上御霊神社の南にある相国寺の辺りで、次の遷座地・新町通出水の西とは現京都府庁の西辺りかと思われ(いずれも推測)、その後、天正18年、豊臣秀吉による京都地割り整備によって現在地に遷座したという。

※祭神
 公式HPには
 [本殿八座]
 ・吉備聖霊  
 ・崇道天皇   皇太子・早良親王 桓武天皇同母弟
 ・伊予親王   桓武天皇皇子
 ・藤原大夫人  桓武天皇夫人 伊予親王御母 藤原吉子
 ・藤大夫     藤原広嗣
 ・橘大夫     橘逸勢
 ・文大夫     文屋宮田麻呂
 ・火雷神     よく菅原道真と解釈されるが、道真が天神として祀られたのは当社鎮座の後で時代が合わない
           当社では六座御霊の荒魂と解釈している
 [相殿 一座]
 ・霊元天皇
とある。

 社頭案内・公式HPともに、神泉苑御霊会で祀られた御霊6座に2座を加えて祀るというが、神泉苑御霊会の祭神6座には当社祭神の一・藤大夫(藤原広嗣)はみえず、代わりに観察使とある。

 当社の主祭神かと思われる伊予親王・藤原大夫人とは
 *伊予親王(783--807)
    桓武天皇の第3皇子、母:藤原吉子
   大同元年(806)に中務卿兼太宰帥に任ぜられるが、翌大同2年(807)反逆の首謀者として母・藤原吉子とともに川原寺に幽閉され、食を絶ち毒を飲んで自害したという。
   この事件は、異母兄・平城天皇の側近であった藤原式家・仲成に操られた藤原宗成によって失脚させられたものといわれ(日本後紀・巻16に、宗成云「首謀叛逆是親王也」とある)、後に無実が判明し、承和6年に一品の位が追贈されている。

 *藤原大夫人(?--807、藤原吉子ともいう)
   桓武天皇の夫人で伊予親王の母(藤原南家出身)
   大同2年(807)、謀反の疑いがかけられた皇子・伊予親王とともに川原寺に幽閉され、飲食を絶ち毒を飲んで自害

 当社のみに祀られる藤原広嗣(ヒロツグ)とは、
 *藤原広嗣(?--740)
    藤原北家の祖・藤原宇合の長男で、天平9年(737)藤原四兄弟の死亡後に朝議に列し従五位下・式部少輔に任じられたが、同10年、親族を誹謗したとして筑紫の太宰府(太宰少弐)に左遷。
    天平12年(740)8月、天変地異等災厄がおこる元凶は反藤原勢力の要である吉備真備と僧・玄昉に起因するとして、これを排除すべしとの上奏文を送ったが、これが謀反に当たるとして召還令が出されたが従わず、9月、1万余の兵を率いて反乱。
   しかし、朝廷から派遣された追討軍に敗れ、捕らえられ11月肥前国松浦郡で処刑されたという。
   弱体後の藤原家復活を図って橘諸兄を中心とする反藤原勢力との政争に敗れ、反乱を起こすも敗れ処刑された犠牲者で、怨霊化する理由はある。

 上記以外、崇道天皇以下の5座については上御霊神社参照。

 相殿神・霊元天皇(1663--87、112代)とは江戸時代前期の天皇で、享保8年(1723)・同13年(1728)、修学院御幸の途上当社に立ち寄られ祈願されたことによるものであろう。

[付記]
  神泉苑御霊会で祀られた御霊は、崇神天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使・橘逸勢・文屋宮田麻呂の6座で、当社祭神とは一座を除いて同じ。
  当社と異なる祭神・観察使が誰を指すのかは不明だが、藤原仲成(746--810)ともいう。
  藤原仲成とは、延歴4年に暗殺された藤原種継の子で、桓武朝後半から平城朝にかけて活躍したが(従四位下・参議)、平城天皇から嵯峨天皇への譲位(809)後、重祚を図る平城上皇に従って嵯峨天皇と対立し、弘仁元年(810)嵯峨天皇の命により捕縛・射殺されている(薬子の乱-平城上皇は出家剃髪、薬子は仲成の妹)
  皇位を巡る平城上皇と嵯峨天皇との争いの犠牲者といえる。

  この藤原仲成を観察使に当てるのは、仲成が大同4年(809)北陸観察使に任命されていることからと思われるが、何故、仲成とはせず監察官としたかは不明。
  なお観察使とは、平城天皇治世の4年間(806--09)、桓武朝での勘解由使に代わっておかれた官職(地方官-国司-の行政実績を監査する官職)で、嵯峨天皇朝では廃止されている。

※社殿等
 寺町通りに面し、西面する朱塗りの鳥居をはいった直ぐに正門があり、傍らの案内には、
  「天明の火災(1788)後に造営された仮皇居(御所)の建礼門を下賜され移築したものと伝えられている。
   大きい梁の中央には龍が飾られ、表側の化粧梁には玄武と朱雀に乗った仙人が、また裏側の梁には麒麟と鳳凰が飾られている」
とある。

 
下御霊神社・鳥居
 
同・正門
 
同・正面梁の龍の彫刻

 正門を入った正面に拝殿(入母屋造・こけら葺、寛政10年造営)が、その奥に、唐破風を有する拝所、その奥、弊殿に続く大きな覆屋のなかに本殿が西面して鎮座する(一部のみ実見可)

 境内に掲げる案内(京都市)には
  「現社殿は、天明8年(1788)の大火で旧社殿が焼失した後、再建されたものである。
 本殿は天明8年に仮皇居の聖護院宮において造営された内侍所仮殿を、寛政3年(1791)に移築したもので、仮殿造営当初の規模・形式をよく残している。
 本殿の前には切妻造の弊殿(寛政5年)が取りつき、その前には更に唐破風造の拝所(寛政5年)がつく。
 また、弊殿からは南北に入母屋造の廊(文政13年・1830)がのびている。
 本殿・弊殿・拝所そして南北廊が、屋根をそれぞれ交錯させて一連の内部空間をつくる特異な社殿構成は、市内の御霊社に特有なものであり、なかでも当社の社殿は造営の年代が古く貴重である」
とあり、京都市指定の有形文化財という。

 ただ、当社社殿のほとんどは屋根が苔むし部分的に壊れているなど相当に古びており、改修費用の寄付が求められている


同・拝殿 
 
同・拝所
 
同・本殿(一部)
 
同・覆屋

◎末社等
 境内右手(南側)に五社相殿社が、その隣に大国主社(祭神:大国主命・事代主命)が北面して鎮座し、西南隅に天満宮社(北野大神)が東面して鎮座するが、五社相殿社・大国主社の屋根は苔むし壊れかけている。

 五社相殿社は5座に分かれ、左から、日吉社(日吉大神)・愛宕社(愛宕大神)・高知穂社(高知穂神)・大将軍社(大将軍八神)・斎部社(天太玉命:社家の祖神とある。
 斎部社の案内に「天太玉命 社家の祖神」とある。天太玉命(アメノフトタマ)とは忌部氏(後の斉部氏)の祖とされる神だが、当社社家と斉部氏との関係は不明。

 
五社相殿社

大国主社 
 
天満宮社

 境内西側、正門の北側に猿田彦社(相殿-柿本歌聖社:柿本人麻呂・垂加社:山崎闇斎)・稲荷社(稲荷大神)が東面して、
 その北側に宗像社(宗像三女神)が南面して鎮座する。
 垂加社とは、垂加神道の提唱者・山崎闇斎(1619--82)を祀ったものというが、闇斎と当社との関係は不明。


猿田彦社 

稲荷社 
 
宗像社

 なお、当社HP・境内社項には大国主命社は見えず、神明社(天照大神・豊受大神)・八幡社(八幡大神)・春日社(春日大神)の名があるが、境内にそれらしい祠はない(見落としたかもしれないが)

◎感応水の井戸

 境内入った左手・手水舎のなかに井戸がある。
 傍らの案内・「地下水についての社伝」によれば、
 ・明和7年(1770・江戸中期)の秋、京の市中が旱魃に見舞われた
 ・当時の神主・出雲路定直(28代)が夢告によって境内の一ヶ所を掘ると、涸れることのない清水が湧き出し、万人に飲ませることができたので、これを感応水と名付けた
 ・今、この井戸の痕跡はないが、現在の井戸も同じ水脈である
という。
 滞在中も、幾人かの人が容器をもっての水汲みに訪れていた

 

伝感応水の井戸

 今の当社は、民家に囲まれた古びた小さな神社となってしまっているが、江戸時代には、それなりの規模を有し盛大な祭礼が行われていたようで、配所脇に都名所絵図(1780)に載る社殿の様子、天保年間(江戸後期)の祭礼の様子を描いた古絵図の写しが掲げられている。


境内古絵図(江戸中期) 
   
祭礼の図(天保年間)

神輿・剣鉾などを連ねた
長い行列が描かれている

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