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新 宮 社
京都府京田辺市多々羅新宮前35
祭神--素盞鳴命
                                                   2019.11.29参詣

 JR学研都市線・同志社前駅の南西約1.4km、同志社大学キャンパスの西に接する小山の西側中腹に鎮座する。
 社名は“シングウシャ”と称する。

※由緒
 境内に掲げる案内には、
 「この付近は、欽明天皇のとき、我が国に来た百済人・爾利久牟王(ニリクム)の住居があったと伝えられる。
 この人は鉄工業を伝えた人で、朝廷から多々羅(タタラ)の姓をもらったとされる。
 当社は、その子孫のものが、祖神とする百済の余璋王(ヨショウ)を祭神として祭ったと伝える。
 古くは多々羅田中山にあり、田中山宮と称したともいう。
 現在は天王にある朱智神社(シュチ・スチ)の境外末社となり、そのためか素盞鳴命を祭神としている。
 かつて、この付近に渡来人がいたこと、彼らが鉄工業を行っていたことを窺わせることなど、京田辺市の古代史を考えるうえで興味深いことである」
とある。

 書紀・欽明天皇段に、当社創建にかかわる爾利久牟王の名はみえないが、その後裔という多々羅氏について、新選姓氏録に
 ・山城国諸藩(任那) 多々良公  御間名(任那)国王 尓(爾)利久牟王(ニリクム)より出る也
                       欽明天皇の御代 参りて 金多々利(コガネノタタリ)・金乎居(コガネノオケ)等を献ず 
                       天皇之を誉めて 多々良公(タタラノキミ)の姓を賜ふ
とある。

 爾利久牟王は百済王(姓氏録では任那王)の後裔というが、当社付近には多々羅○○との地名が集中していることから、この辺りに居住してタタラ製鉄を行った渡来人の首長であって、当社の旧社地という多々羅田中山もこの辺りの何処かにあったと思われるが、今は周辺山地のほとんどが削平されているため場所の推定は出来ない。

 通常、新宮とは何処かの神社に対して新宮と呼ぶ場合が多いが、当社の新宮が何を指すのかは不明。
 熊野の新宮大社と関係するのかもしれないが、由緒・祭神からみるとそうとは見れない。


※祭神
 案内は、今の主祭神は素盞鳴命というが、上記案内には百済の余璋王とある。

 余璋王とは、百済王家系譜(ネット資料)によれば30代武王(在位:600--41)の項に「別名:余璋」とあり、あるいは武王を指すのかもしれない。
 百済は武王の嫡男・義慈王(641--660)の時に唐・新羅に攻められて滅亡し(660、義慈王の子・豊璋の時-663-の白村江の戦いで敗れ完全滅亡)、王族の多くがわが国に逃れたというから、爾利久牟王もその一人かもしれない。

 今の祭神が素盞鳴命となっているのは、当社が朱智神社の境外末社であることからという。
 しかし、朱智神社末社となる以前、創建時の祭神は、上記由緒がいうように、百済・余璋王(武王)か多々羅氏の祖・爾利久牟王であったとみるのが順当であろうが、今の当社にそれを示唆するものはみあたらない。

 朱智神社は、当社の南西約3km程の天王高ヶ峰に鎮座する式内社で、今は息長氏の祖神・迦爾米雷王(カニメイカヅチ)を主祭神とし、相殿神として須佐之男命を祀るが、江戸時代までの相殿神は防疫神・牛頭天王(ゴズテンノウ・社蔵品として牛頭天王立像あり)であったが、明治の神仏分離に際して牛頭天王が仏教色が強いとして排斥されたことから、須佐之男命に変更したのであろう(別項・朱智神社参照)
 当社が朱智神社の末社となったのが何時の頃かは不祥だが、明治以前であれば、それ以前(江戸時代)の祭神は牛頭天王であって、当社祭神は 余璋王(あるいは爾利久牟王)→牛頭天王→素盞鳴命と変遷したかと思われる。


※社殿等
 同志社大学正面を南下、3つ目の信号(同志社南交差点の少し北側、学園前橋の北詰)を右折、普賢寺川北岸添い(途中から民家の中を通る、地図必要)の小道を西へ進んだ突き当たり、緩やかな石段(60段余り)を上った処に鳥居が立ち、境内に入る。


新宮社・石段入口

同・参道(奥に鳥居あり)

同・鳥居 

 鳥居を入り、やや急な石段を上った上が境内で、雑木と竹林に囲まれた狭い境内の正面に一間社切妻造・銅板葺きの社殿(まだ新しい)が南面して建つのみ拝殿はない。反対側に案内板か立つほかは何もない。


新宮社・社殿 
 
同・側面 

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