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山城(相楽郡)の式内社/相楽神社
京都府木津川市相楽清水
祭神−−足仲彦命(仲哀天皇)・誉田別命(応神天皇)・気長足姫命(神功皇后)
                                                        2012.03.39参詣

 延喜式神名帳に、『山城国相楽郡 相楽神社』とある式内社。社名は、“サガナカ”と読むが、神名帳などの古資料では“サカラカ”と読んでいるという。

 JR片町線(学研都市線)・西木津駅の西約300m。駅西の踏切からの道を西南方に進んだ先、国道163号線との相楽清水交差点の南側・叢林の中に鎮座する。踏切近くから、道路のずっと奥に当社の叢林が見える。

※由緒
 由緒不詳だが、社頭に掲げる案内及び頂いた資料によれば、
 「当社は、木津町大字相楽地区(北ノ庄区・大黒区・曾根山区)の産土神として古くから祀られてきた社だが、創立は定かでない。
 近世までは単に八幡宮と呼ばれていたが、明治10年(1877)延喜式神名帳に、相楽郡の一座・相楽神社と明記されていることが分かり、相楽神社と定められた」
とある。

 当社に対する神階授叙記録などみあたらず、創建以降の沿革・経緯は不明だが、
 ・当社本殿(重要文化財)が、建築様式などから室町初期のものと推定されること
 ・多門院日記・天文8年(1539・室町後期)11月1日条の、栂尾(京都市右京区)参詣から帰った多門院英俊を出迎えた記事のなかに、
  「迎衆、前の如く“サカナカの八幡”にて中黒殿より道迎え之有り」
 ・山城国式社考(1711・江戸中期)に、
  「此社相楽郡に在り。今八幡と称す。はせ村より大和歌姫へいたる道衢なり。是郡山道なり」
 ・山城名跡巡行志(1754)
  「今八幡と称す」
などの古資料からみて、室町以前から、大和と山城を結ぶ奈良街道(歌姫越)の道筋に当たる当地にあり、八幡宮として知られていたのは確かという。

 その八幡宮を、明治10年に式内・相楽神社と比定したのは、延喜式にいう社名と鎮座地の郡名・地名との一致からだろうが、その比定根拠を記した資料はみあたらない。

※祭神
 今の祭神は、仲哀天皇・応神天皇・神功皇后となっており、社頭には“八幡宮”の神額が掛かっている。
 八幡神は、延喜式制定時には知られていたことから、当社が創建当時から八幡神を祀っていてもおかしくはないが、八幡神を祀る神社で、式内社に列しているのは豊前国の宇佐八幡宮三座と筑前国の筥崎八幡宮一座のみで、他に見えないことから、式内・相楽神社の祭神が当初から八幡神であったかどうかは不詳。

 為に、式内社調査報告(1979)には
 ・神社覈録(1870)−−祭神詳ならず
 ・特選神名牒(1876)−−今社伝を按ずるに、祭神足仲彦命誉田別命気長足姫命とあれど、何に依たるにや詳ならず
 ・神名帳考証(1733)−−祭神・韓神(ただし根拠不詳)
との資料をあげ、現祭神に疑問を呈しているが、隣接する綴喜郡に“神功皇后通過伝説”があることから(田辺町史・未確認)、相楽郡の当社でも、綴喜郡との関連のもとに、上記3座を祭神とする説が発生したのかもしれない、という。

 ただ、創建当時の祭神が八幡神でなかったとしても、当社に関連する古代氏族名などの不明なこともあって、本来の神名は不明。

※社殿等
 当社の入口は、南側の国道側にはなく東側から入る。
 東側に立つ鳥居をくぐった参道の奥に表門(四脚門・瓦葺)があり、境内に入る。
 境内奥の正面に横長の拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥、透塀で区切られた神域中央に本殿が、いずれも東面して鎮座する。

 本殿−−三間社流造・檜皮葺、各処に華麗な彫刻を施した造りで室町初期の造営、国の重要文化財(1911指定)

相楽神社/鳥居
相楽神社・鳥居
相楽神社/拝殿
同・拝殿
相楽神社/本殿
同・本殿

◎末社
 神域中央の左右に末社5社が並ぶが、いずれも祭神名・鎮座由緒などは不明。
 本殿左−−若宮神社(一間社春日造・檜皮葺、室町後期の造営、京都府登録文化財-1985登録)・鳥懸神社・待枝神社
 本殿右−−子守神社・清水神社(この社のみが南面)
 また、神域左前に豊八稲荷神社がある。

相楽神社/末社・若宮社
末社・若宮社
相楽神社/末社・松枝社・鳥懸社
末社・松枝社・鳥懸社
相楽神社/末社・子守神社
末社・子守社
相楽神社/末社・清水社
末社・清水社

 なお境内には、社務所・客殿の他に、表門を入った左右に“仮舎”と称する縦長の建物があり、恒例神事の際、宮座の面々が着座する舎殿という。

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