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山城(綴喜郡)の式内社/朱智神社
京都府京田辺市天王高ヶ峰
祭神−−迦爾米雷王・建速須佐之男命・天照国照彦火明命
                                                        2012.03.13参詣

 延喜式神名帳に、『山城国綴喜郡 朱智神社』とある式内社。社名は“スチ”又は“シュチ”と訓む。
 なお、当社を式内・天神社(アメノカミノヤシロ)に比定する説があるが(山城国式社考・1711)、式内・天神社は現八幡市松井鎮座の天神社(別項「天神社」参照)とするのが有力で、当社=式内・天神社説は否定されている。

 近鉄京都線・新田辺駅(隣接駅:JR片町線・京田辺駅)の南西約6km。山城国(京都府)・河内国(大阪府)・大和国(奈良県)が府県境を接する高ヶ峰山中(標高約300m)に鎮座する。

 近鉄新田辺駅前より京阪バス・天王経由穂谷行き(81系統・11:01・14:01発)に乗車し、天王下車(約20分、帰路・新田辺行・12:33・15:33)

 天王バス停横の四辻を西へ(斜行する坂路−ガードレールあり、少し先に朱智神社案内看板あり)、狭い坂道(CR舗装・普通車通行不能)沿いに散在する天王集落を過ぎた山中に(途中右折地点に、ちいさな表示あり)、木立に囲まれて一の鳥居が立つ(天王バス停から約10分)

天王バス停前
(中央家の前の坂道を左へ登る)

※由緒
 社殿・拝所脇に掲げる案内(田辺町・昭和32年)には、
 「当社はもと、此地より西方三町余の所に有り、仁徳天皇の69年に社殿を建て、朱智天王と号しました。
 迦爾米雷王は、開化天皇の曾孫で神功皇后の祖父に当たられ、垂仁天皇の御代にこの地を治められて、その子孫朱智姓を名乗りました。
 須佐之男命が相殿として祭られたのは、桓武天皇の御代であります。
 その後、清和天皇の御代に、大宝天王(牛頭天王)を現在の京都 八坂神社に遷し、毎年、榊遷しの行事を行いましたが、何時よりかなくなりました。
 明治維新に至り、神祇官に上請して天王社を古名の朱智神社に復し、明治6年6月郷社になりました」
とあるが、
 「仁徳天皇の時代に、現在地より西方の西峯頂上に創建され、宣化天皇元年(535)天王号を付け、朱智天王と称した」
ともいう。
 創建時の鎮座地・西峯の位置は不明だが、今、当社の南南西約300m付近に“天王峯”との地名があり、その辺りかもしれない。

 当社に対する神階授叙記録等はみえず、公的記録による確認は不能だが、古文書・興福寺官務牒疏(1441・室町時代)に、
 「朱智天王神 同郷(普賢寺郷)西之山上に在り、山代大筒城王の児・迦爾米雷王を祭る、相殿素盞鳴命、大宝天王(牛頭天王)とも号す」(漢文意訳)
とあり、朱智天王社と称していたという。
 下記するように、当社に藤原時代造の牛頭天王像があることからみると、早くから牛頭天王社と認識されていたと思われる。
 (ネット資料・椿井文書他によれば、この興福寺官務牒疏なる古文書は、江戸後期-18世紀末〜19世紀初頭頃か-に作られた偽書として、上記記述も、“山城志-1734-に「所在不明」とした式内・朱智神社を、天王村牛頭天王社に付会したもの”として、その信憑性に疑問を呈している。但し、全文入手不能のため、その信憑性は不明)

◎息長氏
 主祭神・迦爾米雷王(カニメイカヅチノミコ)の出身氏族である息長氏(オキナガ)は、
 ・古代大王や皇族などで、息長氏出身の女性を妃とした人物が多いこと
 ・天武朝における八色(種)の姓(ヤクサノカバネ)制定(685)に際して、最も高貴な姓である“真人”(マヒト)の姓が与えられたこと
など、朝廷との関係が深い氏族だが、政治的には表面に出ることは少なかったといわれ、謎の多い氏族でもある。

 息長氏の系譜は輻輳していてはっきりしない点もあるが、古事記によれば、
  開化天皇−−日子坐王(彦坐王)−−山代大筒木真若王(山代大筒城真稚王とも記す)
                         −−迦爾米雷王−−息長宿禰王−−神功皇后(仲哀天皇)−−応神天皇
となる(書紀には見えない)
 開化の第三子・日子坐王(ヒコイマスノミコ・崇神天皇の異母弟)には15柱(男子12柱)の御子があり、多くの氏族の祖とされているが、その一柱・山代大筒木真若王(ヤマシロノオオツツキマワカノミコ)からその子・カニメイカヅチ王へと連なる系譜から息長氏が出ている。
 ただ応神紀には、
 「品陀天皇(応神)の御子・若野毛二股王(ワカノケ フタマタノミコ)が弟日売真若比売命(オトヒメマワカヒメ)を娶って生んだ子、太郎子(オオイラツコ)亦の名・意富々杼王(オオホドノミコ)オオホド王は・・・息長の坂君・・・等の祖なり
と、また新撰姓氏禄には、
 「左京皇別  息長真人  誉田天皇(諡応神)皇子稚渟毛二俣王(=若野毛二股王)之後也」
とあり、このオオホド王を以て息長氏の祖とするが(その孫・息長真手王との説もある)、この王は応神の曾孫であり、溯ればヤマシロノオオツツキマワカ王・カニメイカヅチ王に連なる。
(一般には、神武から開化までの9代天皇の実在は疑問視されており、とすればヒコイマス王の実在も疑問符が付くが、天武朝に真人の姓を賜っており、それ以前から実在したのは事実とみられる)

 息長氏の本拠地といえば、通常は近江国とされ、
 「天日矛(神功皇后の母方の祖)が近江国でしぱらく住んだという吾名邑(アナムラ)に比定される坂田郡阿那郷(現米原市箕浦付近か)は、のち息長村と呼ばれ、息長一族の本居であった」
というが(青銅の神の足跡・1989)、本貫は山城国綴喜郡(当地付近)であって、その後、近江国坂田郡や摂津国東成郡(現大阪市平野区付近)に進出したともいう。
 これをうけてか、当社社頭の案内には
 「カニメイカヅチ王は、垂仁天皇の御代にこの地を治められ、その子孫朱智姓を名乗る」
とあり、その父・ヤマシロノオオツツキマワカ王の頃(4世紀中葉末頃か)当地に進出したとするネット資料もある。

 それを証するに足る史料はないが、
 ・ヤマシロノオオツツキマワカ王の名に、“山代(山城)”・“筒木(筒城)”と当地に関連する地名が含まれ、当地との関わりが推測されること
 ・継体天皇が即位した楠葉宮から遷ったとされる筒城宮(511--17)は、現京田辺市内にあったと推定されているが、継体が当地に都したのは、当地一帯が継体と関係の深い息長氏の勢力圏だったのが一因ではないかということ
 なお、筒城宮跡の候補地として、多々羅都谷(当社の北東約4.2kmほどの同志社構内付近)など8箇所ほどが挙がっているが、いずれも地名などからの推定で、発掘調査などで確認されたものではない(筒城宮遷都1500年記念シンポ資料集・2011)
 ・中世の頃、普賢寺庄の庄官であった下司家(ゲシ)が息長氏の後裔と称していたこと
 ・当社の北東約3kmの山麓・普賢寺川沿いにある観音寺(京田辺市普賢寺谷下、大御堂観音寺ともいう)の前身である息長山普賢寺(チョウソクサン フケンジ)が、山号に“息長”を冠すること
 普賢寺について、興福寺官務牒疏に
 「普賢寺 同州綴喜郡筒城郷朱智長岡荘に在り、天平16 甲申年-744-(聖武天皇の)勅願により良弁僧正再造開基、息長山と号す。朱智神社を以て守護神と為す」
とあること、(ただ、この官務牒疏は江戸後期の偽書であって、その著者・椿井政隆が普賢寺に息長山の山号を冠したともいう−−上記・椿井文書)
 現観音寺に天平期-8世紀前半-に製作された十一面観音菩薩像-国宝-があること、付近の発掘調査により、7〜8世紀の瓦や塔心礎跡などの遺構が出土していることから、奈良時代以前に建立された寺院があったのは事実で、息長氏の関与が推測されるという(ネット資料・同志社大歴史資料館館報第10号)
など、当地一帯には息長氏との関係を示唆する事例が多く、息長氏は当地付近を本貫とし、後に近江国・摂津国などに勢力を広げたというのは史実かもしれない。

 息長氏の始祖であるヤマシロノオオツツキマワカ王が、崇神天皇(4世紀前半末頃)の次世代ということからすれば、当社案内が、“その子・カニメイカヅチ王が垂仁天皇の御代(4世紀後半初頃)にこの地を治めた”というのは、年代的には、もう少し後になるかとも思われるが、仁徳36年(5世紀前半)に、カニメイカヅチ王を祀る当社が創建されたというのは平仄があう。しかし、その確証はない。

◎牛頭天王
 上記案内に、
 「清和天皇の御代(858--76)に、大宝天王(牛頭天王)を現在の京都・八坂神社に遷し、毎年、“榊遷し”の行事を行っていたが、何時よりか無くなった」
とあり、山城綴喜郡誌(1908・明治末)にも、
 「清和天皇貞観11年(869)、勅に依り、大宝天王を洛東愛宕郡八坂郷の感神院(旧祇園社・現八坂神社)側の荒町にに遷座し、同18年(876)に感神院に遷座した。
 それ以降、毎年6月(旧暦)に行われる祇園会には朱智神社から神榊を移す神事がおこなわれ、“榊遷”と称した」(大意)
とあり、祇園社の祭神・ゴズテンノウは当社からの遷座で、祇園祭に際して、当社の榊(神霊が憑いた依代)を祇園社に奉移するのが恒例だったという。

 しかし、祇園社の創建由緒・年代には諸説があり、それら諸説の中に貞観18年創祀説はあるものの、それが朱智神社からの遷座というのは見えない。
 また榊遷しについても、八坂関係の諸資料にそれを示唆する記述はなく、八坂神社に問い合わせても確認できない。

※祭神
 当社は、冒頭に記すように、主神として迦爾米雷王(カニメイカヅチノミコ)を、配神(相殿神)として建速須佐之男命(タケハヤスサノヲ)と天照国照彦火明命(アマテルクニテル ヒコホアカリ)を祀る。
◎迦爾米雷王
 当社が息長一族が奉祀した神社であることからみて、系譜にいうカニメイカヅチ王を祖神として祀るのは順当だが、社頭の案内には、「社伝に、主神の御父・オオツツキマワカ王を祭り、二座相殿とある」との注記がある。 

 ただ、当社祭神は古くからゴズテンノウとされていたようで、江戸中期頃からカニメイカヅチ王との見解が現れ(神名帳考証・1733他)、明治の神仏分離によってカニメイカヅチ王とされたともいう(式内社調査報告・1979)

◎建速須佐之男命
 相殿神・スサノヲ命について、社頭の案内には
 「スサノヲ命が相殿として祭られたのは桓武天皇の御代(781--806)
とあるが、山城綴喜郡誌には、
 「社記に曰、大宝元年(701・文武朝)、山城・河内・大和の国境(当地)に白髪の老翁の姿をした神が出現し、素盞鳴命と名乗った。
 時の郡司・息長兼理が、この山の頂きに社殿を建てて“三国天王”あるいは“大宝天王”と称したが、延暦12年(793)には大宝天王と朱智天王を同殿に祀るようになり、その後、弘法大師が当社に来て素盞鳴命の本地を牛頭天王としたため、以後“牛頭天王”と称した」
とあり、いずれも8世紀の奉祀とする。
 しかし、大宝元年と桓武朝とでは年代が離れすぎており、案内がいう桓武朝とは、社記にいう延暦12年の朱智・大宝両天王の相殿奉祀を指すのかもしれない。

 社記にいうスサノヲ=大宝天王→ゴズテンノウというのは、本地垂迹説によるものだが、神仏習合・本地垂迹説の理解としては、
 「(仏教史学者・辻善之助-1877--1955-によれば)“神仏習合の現象は奈良朝以前(天武・持統朝頃)から徐々に現れ、奈良時代に顕著になったもので、本地垂迹思想は平安中期、おそらくは延喜(901--23)の前後から起こった。したがって、最澄・空海の時代には本地垂迹思想は形成されていなかった”」(神と翁の民俗学・1991、大意)
といわれ、社記は“弘法大師云々”というが、大師在世の頃には本地垂迹説が未だ成立していなかったことからみると、ゴズテンノウの奉祀理由を、時代を無視して大師に付託したものであろう。

 今、当社では相殿神の一座をスサノヲ命とするが、本殿内に藤原時代(平安末期)造というゴズテンノウの神像が安置されていることをみると、平安末期には、すでに息長氏の祖神というより、疫病除けの防疫神・ゴズテンノウとして意識されていたと思われ、それが、明治初年の神仏分離により、仏教的色彩の強いゴズテンノウが邪神として排除されたことから、同じ神格をもつスサノヲに変わったものであろう。

 当社のゴズテンノウ像(右写真)は一木彫彩色の立像で、三面(正面は忿怒相)二臂、右手は2本の指を立てて印を結び左手に宝珠を捧ぐ。高さ約1m。
 頭上に牛頭があったと思われるが摩耗していてはっきりせず、また、かつては美麗な彩色があったらしいが、今はほとんど落剥している。 

朱智神社/牛頭天王像
牛頭天王像
(ネット資料転写)

◎天照国照彦火明命
 アマテルクニテルヒコホアカリ命とは、書紀・一書8ではアマテラスの御子・アメノオシホミミの長子で、天孫降臨の主役・ホノニニギ命の兄とあり、古事記及び書紀一書6にいう天火明命(アメノホアカリ)と同神、また先代旧事本紀(9世紀後半・物部氏系歴史書)ではニギハヤヒ命(天照国照彦火明櫛玉饒速日命)と同神とされる。
 旧事本紀に、神武天皇に先立った大和に天降ったというニギハヤヒは別として、記紀にいうヒコホアカリ(アメノホアカリ)の事蹟は何も記されておらず、ただ、“ヒコホアカリは尾張連らの遠祖”とある(一書6では、アメノホアカリの子・アメノカグヤマが遠祖とある)

 ただ、このヒコホアカリ命が、息長氏の氏神社とされる当社に合祀された由緒・年代は不明で、ヒコホアカリを相殿神とすることに疑義を呈する資料(特選神名牒・1876)もあるという。

※社殿等
 道路脇の低い石段を登った上に一の鳥居が立ち、ちょっとした躍場となっている。
 躍場の左側に又石段があり、石段の途中に朱色が薄くなった二の鳥居(四脚の控柱をもつ両部鳥居)が立つ。
 石段を登り切った上が境内で、中央に唐破風向拜を有する拝所(檜皮葺)があり、左右に伸びる透塀に囲まれた神域内に朱塗りの本殿(一間社流造・檜皮葺)が鎮座している。

 案内によれば、社殿は養和3年(1184・平安末期)の焼失以降幾度も焼失再建を繰りかえし、現在の本殿は慶長17年(1612・江戸初期)再建のもので、本殿擬宝珠に「奉寄進 山城綴喜郡普賢寺牛頭天王 慶長拾七年吉日 藤原朝臣宗勝敬白」との銘があるという。近年になって修復されたようで、桃山様式を引き継いだ彫刻・装飾は華麗。京都府指定文化財。

朱智神社/一の鳥居
朱智神社・一の鳥居
朱智神社/二の鳥居
同・二の鳥居
朱智神社/拝所
同・拝所
朱智神社/本殿
同・本殿

◎末社
 社伝の左右に末社13社の小祠が並ぶ。
 (社伝左−7社)
   住吉神社(住吉三神・朱塗りでやや大きい)・大高神社(タカミムスヒ命)・三社神社(フツヌシ命・タケミカヅチ命・カムヤマトイワレヒコ尊=神武天皇)
   ・朝日神社(アメノオシホミミ尊)・大土神社(大山御祖神)・白山神社(オオヤマツミ命)・稲生神社(トヨウケヒメ神)
 (社伝右−6社)
   天津神社(イザナギ命・イザナミ命、やや大きい)・皇大神宮(アマテラス大~)・春日神社(アメノコヤネ命)・鎮火神社(ホムスビ命)
   ・祈雨神社(アメノミクマリ神)・金神社(カナヤマヒコ神・カナヤマヒメ神)
 いずれも、その鎮座由緒・年代など不明。

朱智神社/末社(左側)
朱智神社・末社(左側)
朱智神社/末社(右側)
同・末社(右側)

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