トップページへ戻る

山城(綴喜郡)の式内社/高神社
京都府綴喜郡井出町大字多賀小字天王山
祭神--伊邪那岐命・伊邪那美命・菊理姫命
                                                       2012.04.29参詣

 延喜式神名帳に、『山城国綴喜郡 高神社 鍬靫』とある式内社。社名は“タカ”と読む。

 JR京都線・山城多賀駅の東約700m、駅東をほぼ南北に走る府道70号線を南下、南谷川(西流して木津川に合流する小川)に架かる“上富橋”の北袂を左折、川に沿って東行、二つ目の“宮の前橋”を渡ったところに参道入口があり、社殿は鬱蒼たる鎮守の森に覆われた山中に鎮座する。

※由緒
 当社の創建由緒にかかわって、当社参詣の栞を主に、式内社調査報告(1979)所載の高神社本源記(1652)・日本の神々5(2000)所載・高神社の項などを参照すれば、
 ・欽明天皇元年(540)--綴喜郡菟手玉津岡の東嶽(位置不明)に神霊が降臨し、社宮を建て祀ったのが当社の始まり
   *傍証となる資料なく、伝承にもとずくものと思われる
 ・元明天皇・和銅4年(711)--多賀明神之社として奉祀
   古代から中世にかけての綴喜郡多賀郷(村)を形成していた三郷(東村・久保村・谷村-現在の比定地不明)それぞれに、“多賀明神之社、即ち東村宮(和銅4年)、久保村宮(聖武天皇・神亀2年-725)、谷村宮(同・神亀3年-726)を奉祀した”ともいう(ネット資料引用の平成祭祀データ・この祭祀データは神社庁編というが詳細不明)
   *下記・元慶2年の記述からみて、当社が、古く三社に別れていたのは事実らしいが、その奉祀場所は不明(谷村の地名のみは、当社の西方にある)。また、多賀明神社として奉祀というが、神への尊称である明神の記録上での初見は弘仁5年(814・日本後記)であり(一般には9世紀半ば頃からという)、8世紀初頭に明神を名乗る神社があったかどうかは疑問
 ・聖武天皇・天平3年(731)9月--聖武天皇の勅により、葛城王(後の橘諸兄)が綴喜郡多賀村の現在地に遷座、当時の祭神・高御産日神(タカミムスヒ)の名をとって多賀神社を高神社に、村名を高村に改称
   *上記三社のうち中心となる宮と思われるが、それがどの宮かは不明、
     また続日本紀・聖武天皇の条に之を示唆する記録はない。
 ・陽成天皇・元慶2年(867)--8月、(谷村宮の)龍神祭で死者が出る騒動が起こったが、後、三郷社(東村宮・久保村宮・谷村宮)を一社に合祀することで和解(光孝天皇・仁和元年-885-に和解という)
 ・醍醐天皇・昌泰元年(888)--三郷社を合祀した社殿完成、高神社と称す
 ・醍醐天皇・延長5年(927)--延喜式内社に列す
となる。
 これらのうち、陽成朝以降は何らかの資料・伝承によると解されるが、それ以前の記述を裏付ける傍証はみえず、式内社調査報告は、
 「このような伝承が、いつ、どのような形で成立し、どのような経路をへて、本源記などに書き留められるに至ったのか、今明確にすることは出来ない」
という。

  当社周辺の丘には多くの古代遺跡(殆どが後期古墳-6世紀)があり、当地が古代多賀郷(多可郷)の中心と比定されていることから、古くから人々が居住していたのは確かで、当地を本貫とする氏族として、奈良時代には“多可連”(タカムラジ)なる渡来系氏族が居たという(続日本紀・天平宝字2年(758)6月4日条に、「内侍典侍・従五位下の高麗使主浄日ら5人に多可連の氏姓を賜る」とある)

 ただ新撰姓氏禄には、多可連・高麗使主(コマオミ)の名は見えないが高麗朝臣(コマアソン)なる氏族があり、「左京諸蕃(高麗) 高句麗王好台七世の孫延典王より出ず」とある。この高麗朝臣と高麗使主との関係は不明だが、高麗朝臣が左京居住の氏族であることから、何らかの関係があったか、と思われる。
 ただ、主な高句麗系氏族の渡来は高句麗滅亡(668)以降というから、由緒にいうように当社の創建が欽明朝とすれば、当社との関係はないと思われるが、和銅4年の多賀明神社奉祀を以て当社創建とみれば、関与していた可能性は否定できない。

※祭神
 当社祭神には2説がある。
  ・伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)・菊理媛命(ククリヒメ)--現祭神
  ・ 高御産日命(タカミムスヒ)、(相殿)伊弉諾尊(イザナギ)・素盞鳴尊(スサノヲ)--高神社本源記
    (上記由緒の天平3年条にも“当時の祭神・タカミムスヒ”とある)

 ・タカミムスヒ--天地初発のとき成り出でた造化三神の一柱で、後にアマテラスとともに国譲り交渉の使者派遣・天孫降臨に際しての司令神とある
 ・イザナギ・イザナミ--神代七代最後に成り出でた夫婦神で、国生み・神生みをなした神
 ・スサノヲ--黄泉の国から帰ったイザナギが禊ぎをしたとき、アマテラス・ツクヨミとともに成り出た三貴神の一
と、いずれも記紀神道譜に連なる神々だが(ククリヒメは別)、古事記・日本書紀が未だ成立していない欽明朝あるいは元明朝に創建されたという当社の祭神を、これら記紀神道譜の神々とするには疑問がある。

 ただ、当社の主祭神(延喜式では一座)をイザナギとみたとき、イザナギは
 ・古事記--伊邪那岐大神は、お亡くなりになり、淡海(オウミ)の多賀に坐すなり(現滋賀県多賀町、又は兵庫県淡路市多賀-伊弉諾神社あり-の両説あり)
 ・書紀--伊弉諾尊は神功既に終えたまひて、幽宮(カクレノミヤ)を淡路の洲(クニ--上記・淡路市多賀に比定)に構(ツク)りて、寂然(シヅカ)に長く隠れましき
と、淡路島の多賀あるいは近江の多賀に鎮まられたという。
 このイザナギの鎮まられた地である多賀と、当社の地名・多賀が同じであることからイザナギを主祭神としたともとれるが、当地・当社とイザナギとの関連性はみえない。

 なお、現祭神の一・ククリヒメとは、書紀(一書10)にのみ現れる女神で、そこには、イザナギが亡くなった妻・イザナミを連れ戻すために訪れた黄泉の国で、見るなの禁忌を犯して逃げ帰る際、泉津平坂(ヨモツヒラサカ)でイザナミと争論となったときに現れて、イザナミの代弁(その内容は記載なし)をしたとある。
 その出自・神格には諸説があり、主なものとして
 ・イザナギ・イザナミの仲を取りもったことから縁結びの神
 ・ククリを潜りとみて禊ぎ祓いの神
ともいわれ、後に白山比売神と習合して白山神社の祭神とされる。
 記紀の記述からみて、イザナギ・イザナミと無関係ではないが、当社に合祀される由縁は不明。

 とはいえ、当社本来の祭神を推測できる史料はない。
 憶測すれば、
 ・最初のそれは四季の順調な推移と穀物の豊饒をもたらす自然神(山の神・水の神・穀物神など)であり、
 ・それに多可連の祖神が何らかの形でからみ、
 ・更に後世になって、万物の生成・成熟・発展をもたらす神、換言すれば豊饒をもたらすムスビの神でもあるタカミムスヒへと集約された
 ・イザナギ・イザナミも国生み・神生みの神であり、無理すれば豊饒と連なる
と解することもできる。

 当社本殿前と末社殿の前に古い石燈籠が立つ。
 本殿前の古い石燈籠には、竿の正面に「奉造立石燈籠□大梵天王」(慶長10年-1605-との紀年銘があるというが、摩耗激しく判読不能)との刻銘が、末社殿前の竿正面には「大梵天王」との刻銘がある(奉建年次不明だが、本殿前のそれより新しい)

 当社栞に記す沿革には、
 「宇多天皇・仁和元年(885)、現在地に合祀され、宇多天皇御真筆による“大梵天王社”の額と称号をたまわり、“天王山多賀大梵天天王”と称する」
とある(これに関係して、多賀郷大梵天王之由記との古文書もあるという)
高神社/本殿前の石燈籠
石燈籠(本殿前)
高神社/末社殿前の石燈籠
石燈籠(末社殿前)
高神社/石燈籠・刻銘
同左・刻銘

 この沿革には“合祀”とあるが、新に大梵天王(梵天ともいう)を勧請・合祀したのか、神仏習合思想により、当社祭神を大梵天王として祀るようになったのかは不明。

 ただ、本殿前の石燈籠に“慶長10年”(1605)の紀年銘があり、その前年に再建された現在の本殿の棟札に、「奉当社大梵天王造立祈天下泰平当郷安穏子孫繁栄昌処」とあることからみると、江戸初期(あるいはそれ以前から)の当社は、イザナギ(あるいはタカミムスヒ)以下の神々というより、“太梵天王”を祀る社と認識されていたのは確かといえる。

 梵天王とは、インド・ヒンドゥー教でいう最高神三柱(ブラフマン・シヴァ・ヴィシュヌ)の一・ブラフマンのことで、仏陀に帰依し仏法の護法神となったとされる天部の神で、神仏習合が常態だった江戸時代には仏神(仏と一体となった神)として祀られていたが、梵天の名が、一般にはどれだけ認知されていたかは不明。
 一般の人に理解では、同じ天王と呼ばれ、より身近な疫病排除の神として崇敬されていた牛頭天王(ゴズテンノウ)だったのかもしれない。

※社殿等
 宮の前橋を渡った先・左に「式内・郷社 高神社」と刻した石標が立ち、長い石段の途中に鳥居が立つ。
 石段を登り切った境内中央に、横長の拝殿(切妻造割拝殿・瓦葺)が、その奥・透塀に囲まれた神域内に本殿(三間社流造・檜皮葺・慶長9年-1604-建造・京都府指定文化財)が南面して鎮座する。

高神社/鳥居
高神社・鳥居
高神社/拝殿
同・拝殿
高神社/本殿
同・本殿

◎末社
 当社境内には、末社14祠がある。
 境内右手の末社殿には、中央・太神社(祭神・天照大御神)の左右に計8祠が、
 右側--若宮八幡宮(仁徳天皇) ・八皇子社(天穂日命) ・天忍穂社(天忍穂耳命) ・恵比須社(事代主命) 
 左側--春日社(天児屋根命) ・伏拝八幡宮(仲哀天皇) ・粟島社(大己貴命) ・愛宕社(火産霊命)
と並ぶ。いずれも朱塗りの一間社流造で、中央の大神社のみがやや大きい。
 上記以外に
 本殿左手--稲荷社(宇賀御魂命)・祈雨社(高龗神・天水分神)、同右手--聖神社(不明)
 境内右手--一ノ御前社(武速須佐男命・櫛稲田姫)
 末社殿の左横--誉田神社(応神天皇・神功皇后・玉依姫)
 これら末社のうち祈雨社(アマゴヒ)については、“もと岩谷の滝(当社の東約1km、南谷川中流域にある滝)のほとりにあったもので、明治中期の移転前は雨乞いの場として霊験あらたかであったと伝える”とあるが、他祠の奉祀由緒・時期など不明。

高神社/末社殿
末社殿
高神社/末社・太神社
末社・太神社
高神社/末社・若宮八幡宮・八皇子社
末社・八皇子社(左)若宮八幡宮(右)
(太神社の左右に、同形の小祠が4社ずつ並ぶ)
高神社/末社・聖社
末社・聖社
高神社/末社・一ノ御前社
末社・一ノ御前社
高神社/祈雨社
末社・祈雨社
高神社/末社・誉田社
末社・誉田社

◎宝堅神事--猿楽能の初見
 当社蔵の高神社造営流記(1271・鎌倉後期)
  一、宝堅事(ホウカタメノコト)
    四月三日 散楽 一村紀州石王権寺・一村宇治若石権寺 各競能之間尤有其興・・・
   散楽 石王座社頭南脇 若石座社頭北脇 地下座シキ我々造作ス
   当座懸物 真垂六具 紺二切・・・
とあり、当社栞には、大永3年(1523・室町後期)に初めて催行され、
  「上を始め下方万民に至るまで喜の歌をうたい、千秋万歳の扉を開いて如意満足す」
とある。

 宝堅神事とは、神域の境界である結界(ケッカイ)守護のための神事(神域内の清浄を保つために、その四方を守る神事)というが、旧暦4月のはじめに行われることからみれば、夏の初めに猖獗する疫病を撒き散らす疫神の退散を祈る古代の道饗祭(ミチノアエノマツリ)あるいは鎮花祭(ハナシヅメノマツリ)に類する神事であって、その神事に際しておこなわれた散楽(サンガク=猿楽・サルガク-能楽の前身)とは、神事の後の直来(ナオライ)の場で演じられたのであろう。
 なお、この記述は、猿楽能に関する初見史料として貴重な記録であり、身分の上下を問わず里人全員が参加する神事芸能として、この地方で中世後期にかけて展開する惣の祭の先魁というべきものという(日本の神々5)

トップページへ戻る