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山城(葛野郡)の式内社/梅宮大社
京都市右京区梅津フケノ川町
祭神−−酒解神・大若子神・小若子神・酒解子神
                                                        2012.02.11参詣

 延喜式神名帳に、『山城国葛野郡 梅宮坐四座 並名神大 月次新嘗』とある式内社。昭和25年、梅宮大社と改称。

 阪急嵐山線・松尾駅の北東約750m。駅北から松尾橋を渡り府道186号線(四条通)を東へ、次の交差点(梅宮大社前)の北東角に「梅宮大社表参道」との表示があり、一の鳥居が立つ。

※由緒
 当社配布の由緒略記によれば、
 「当社は、橘氏の祖・諸兄(モロエ・684--757)の母・県犬養三千代(アガタイヌカイノミチヨ・665?--733)が、山城国綴喜郡井出寺の中に橘氏一門の氏神として祀ったのが始まり。その後、聖武天皇の妃・光明皇后(701--60、立后729)が之を祀り度々所在を転じたが、嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子(786--850、檀林皇后・立后815)が今の神域に遷し、自ら御幸して祭られたのが梅宮祭の起源である」(大意)
とあるが、伊呂波字類抄(平安末期の古辞書、以下「字類抄」という)によれば、
 「譜牒男巻下(推定−奈良末〜平安前期作成・異説あり)に云う。太后(檀林皇后)氏神を円提寺(=井出寺)に祭る。
 此神始め犬養大夫人(橘三千代)祭る所の神也。大夫人の子・藤原太后(光明皇后)及び乙牟漏女王(695--746・橘諸兄の妹・光明皇后の異父姉、藤原房前の室)洛隅内頭に祭る。其後相楽郡提山(現綴喜郡井出町付近)に遷し祭る。
 此神仁明天皇(在位・833--50・太后=檀林皇后の皇子)に祟りを為す。御卜に出づ。復官人に託宣して云く、我今天子の外家の神也、我、国家の大弊を得ず、是何縁か云々。天皇之を畏み、神社を立て、諸大社に準じて毎年崇壮せしめんと欲す。太后背せず曰く、神道遠くして人道近し、吾豈先帝外家を与え斉を得るか。天皇固く之を請く。太后曰く、但し恐らくは国家の為に崇を成す。仍て近く葛野川頭に移祭す、太后自ら幸拝し祭り焉んぬ。今梅宮祭是也」
とあり、県犬養三千代(以下、橘三千代という)による奉斎以降の経緯をこまかく記している。

 これを整理すると、
 @はじめ、犬養大夫人(橘三千代)が、神を祀り、
 A次いで、藤原太后(光明皇后)・乙牟漏女王が、洛隅内頭に祀った。
 Bその後、相楽郡(綴喜郡)提山に遷祀され、太后(檀林皇后)が、円提寺に氏神として祀った。
 Cしかし、仁明天皇の請いにより、太后が葛野川頭(現在地)に移祭した。これが梅宮祭の始まり。
となる。

 当社由緒略記によれば、当社は、橘三千代が綴喜郡井出寺(旧相楽郡井出荘)に祀ったのが始まりというが、井出寺=円提寺は橘諸兄が建立した氏寺ということから(左大臣時代の建立とも、母・三千代の一周忌に因んでの建立ともしいう)、橘三千代在世時には存在しておらず、円提寺において氏神を祀ったというのは疑問。
 また字類抄によれば、円提寺における奉祀の始まりは太后・檀林皇后によるそれで、橘三千代とはなっていない。

 その字類抄には橘三千代の奉祀場所は記されていないが、前後の文脈からみて、光明皇后・乙牟漏女王が奉祀した洛隅内頭とみるのが妥当だろうという。
 洛隅内頭とは、平城宮の東隅に位置した橘三千代の夫・藤原不比等の屋形・不比等第(現奈良市法華寺町)と推測され、橘三千代はその邸内に於いて神を祀り、その死後、父・不比等の邸宅を相続した光明皇后(ここに皇后宮が置かれた、後の法華寺)が異父姉・乙牟漏女王とともに、同じ邸宅内で、母・橘三千代が奉じた神を祀ったという。

 なお円提寺とは、今、JR奈良線・玉水駅の東約500mに立つ石碑・「井提寺跡」付近に比定されているが、旧相楽郡井出の地は橘諸兄の本拠地だったといわれ、一帯には橘諸兄公旧址・諸兄夫妻の供養塔など諸兄(橘氏)関連の遺構が散在する。

 光明皇后死亡後の当社がどのように祀られていたかは不明だが、法華寺の一隅で忘れられた状態だったと思われる。それを約50年ほど後、橘氏中興の担い手として登場した太后が、出身氏族の氏寺内に氏神として遷座・奉祀したのが当社の再出発で、字類抄・梅宮の項に記す「末社 一所 山城国井出寺内」がその旧祠だという。(円提寺は15世紀前半頃には興福寺の末寺となっていたといわれ、遅くとも、その時点で梅宮末社は消滅したであろうという)

 その円提寺内にあった氏神を現在地に遷したのもまた太后といわれ、それを証するのが続日本後紀(869)に記す
 ・承和3年(836)11月7日条−−無位酒解神に従五位上を、無位大若子神・小若子神に従五位下を授け奉る。此三前は山城国葛野郡梅宮社に坐す
との記録で、天皇が檀林皇后出生の皇子であることから、即位後まもなく、それまで橘氏の氏神でしかなかった当社を、皇室外戚神として官社に列せしめ神階叙授に至ったのであろう。

 その後、承和10年(843)には四座共に従四位下に昇り、その後も順調に昇階して、治承4年(1180)には正一位の極位まで昇りつめ、また正暦5年(994)には、国家の重大事や天変地異の時に特別の奉幣を受ける二十二社に列している(下8社の2番目・全体では16番目)

 檀林皇后がはじめたといわれる梅宮祭は、仁明・文徳・清和朝時には毎年おこなわれていたようだが、三代実録などの史料によれば、
 ・陽成天皇・元慶3年(879)−−停止
 ・光孝天皇・同8年(884)−−再開
 ・宇多天皇・仁和5年(889)−−停止
 ・一条天皇・寛和永延年間(985--88)−−再開
など、停止・再開を繰りかえしている。
 梅宮祭の停止理由は不詳だが、資料によれば、陽成天皇(57代・仁明の曾孫)にとって、曾祖母である檀林皇后が奉じた神は縁遠いものと意識されたことからの停止で、それを再開した光孝天皇(58代)は仁明天皇の皇子(文徳・清和・陽成と続く皇統とは母親が異なる)であることから、直接に仁明を継ぐものとしての意識が強かったためではないかという。
 また宇多天皇(59代・光孝の皇子)による停止に際して、天皇は自分の母方の祖母・当宗氏の氏神を祀るよう勅しており、同じ外戚神であっても自分により身近な氏族の神を祀ることが優先したと思われるという。
                        (以上、橘氏の成立と氏神の形成・1980−日本古代の氏の構造所収、及び日本の神々5・2000による)

◎橘氏 
 当社の原点となる奉祀を始めたという県犬養三千代とは、天武朝の頃から朝廷に出仕し、軽皇子(後の文武天皇)の乳母になるなど後宮の実力者として皇室と深い関係にあった女性で、はじめ敏達天皇の孫・美努王(ミノ)に嫁して葛城王(カズラギ)・佐為王(サイ)を生んだが、後に藤原不比等と再婚して光明子(光明皇后)を生んだという。
 元明天皇・和銅元年(708)、その永年の功績が称えられ、天皇から、橘の浮かんだ杯とともに“橘宿禰”の氏姓が贈られたことから(聖武天皇・天平8年−736−の葛城王・佐為王による橘姓継承を願う上奏文のなかに同意文あり)、橘氏の実質的な始祖とされる。
 三千代の死後(733)、その子・葛城王と佐為王とが聖武天皇に臣籍降下並びに橘姓の継承を願い出、許されて、葛城王は橘諸兄(タチバナモロエ)と、佐為王は橘佐為(タチバナサイ)と改名(天平8年・734)、聖武・孝謙両帝の御代には、諸兄が左大臣・太政官首席となるなど最盛期を迎えたが、諸兄の死後、その子・奈良麻呂が藤原仲麻呂との政争に敗れ、沈滞。
 その後、奈良麻呂の孫・橘嘉智子が嵯峨天皇(809--23)の皇后に立てられことから(弘仁6年-815、藤原氏以外からの立后の最初)、橘氏は朝廷内の有力氏族として大いに勢力を伸ばしたが、10世紀末には宮廷貴族としての橘氏は絶え、以後は中流貴族あるいは在地の有力氏族として存続したという。

※祭神
 当社本殿4社の神々は冒頭に記すとおりで、主祭神・酒解神(サカトケ)とその御子神からなっている。

 サカトケ神とは、記紀などに登場しない神で、その出自・神格などは不詳だが、由緒略記には
 「オオヤマツミ神は、コノハナサクヤヒメがヒコホホデミ尊を御安産になったのを非常に喜び給ひ、狹奈田(サナタ)の茂穂を以て天甜酒(アメノタムサケ)を造ってお祝いされたと日本書紀に載っておりますが、是が穀物を以て酒を醸した始まりで、オオヤマツミを酒解神、コノハナサクヤヒメを酒解子神と称へ奉る由縁であります」
とあり、山の神・オオヤマツミの別名とする。
 また、この伝承を根拠にサカトケ神=オオヤマツミとする資料は多いが、日本書紀には、オオヤマツミの娘・コノハナサクヤヒメが天孫・ニニギの御子を生んだとはあるものの、そが出産祝いにオオヤマツミが酒を醸したとの記述は見えず、この伝承の出所は不明。

 このサカトケ神=オオヤマツミ説に対して、サカトケに“辟解”・“境解”の漢字を当て、罪・穢れを祓い浄める“祓除の神”あるいは悪霊・邪霊の侵入を遮り排除する“塞の神”・所謂道祖神との説もある。
 今の当社は桂川近くに鎮座するが(地名・梅津の“津”がミナトを意味することから、渡し場あるいはそれに類するものがあったとも推測される)、古代の川は現世と幽界の境であって、境界は神霊は勿論・悪霊邪霊も往来すると解されていたことからすれば、その地に坐すサカトケ神が道祖神的神格をもつのは頷けるが、これが創建当初からの神格であったかどうかは不明。

 当社のサカトケ神が、どのような神格を以て祀られたのかは不明だが、今、当社ではサカトケ神をオオヤマツミとして、以下の神々を当てている。
 ・酒解神(サカトケ)−−大山祇神(オオヤマツミ)
 ・酒解子神(サカトケコ)−−木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)
 ・大若子神(オオワクコ)−−瓊瓊杵尊(ニニギ)
 ・小若子神(コワクコ)−−彦火々出見尊(ヒコホホデミ)

 これらの神々は、記紀・日向神話にいう天孫・ニニギとその妃・コノハナサクヤヒメを中心に、両神の御子であるヒコホホデミ及びコノハナサクヤヒメの父神・オオヤマツミで、コノハナサクヤヒメを中心として天孫・ニニギ一家を祀っているともとれる。

 当社にかかわる橘三千代が聖武天皇の外祖母であること、その血を引く橘嘉智子が嵯峨天皇の皇后であること、橘氏の男系の祖である美努王が敏達天皇の孫であることなど、皇室との関係が深いことから、その祖神としてニニギ一家を祀ったとも解される。
 しかし、橘氏が皇室との関係が深いとはいえ、その氏神社にニニギ一家を祀る必然性はなく、憶測すれば、当社興隆の元となった檀林皇后をコノハナサクヤヒメに擬し、ヒメに関連する神々を祀ったとも思われる。

 なお、由緒略記には、相殿4座として
 ・橘清友(橘嘉智子の父・橘諸兄の孫)
 ・橘嘉智子(檀林皇后)
 ・嵯峨天皇(橘嘉智子の夫)
 ・仁明天皇(嵯峨天皇・檀林皇后の皇子)
を祀るとある。
 この相殿神は、コノハナサクヤヒメを中心とするニニギ一家に、檀林皇后を中心とする嵯峨天皇一家を擬したもので、橘氏の氏神を祀る社としては、これらの神々が似つかわしいが、これら相殿神は後世になっての付会で、橘三千代が奉祀した神ではないことは確かであろう。

 由緒略記には、コノハナサクヤヒメを“授子の神(血脈相続の守護神)”として
 「コノハナサクヤヒメは天孫ニニギに召され給うや、一夜にして懐妊されたと伝えられている。これが授子の神、即ち血脈相続の守護神としての由来である。
 皇子の坐さぬを非常に憂い給うた檀林皇后も、この故事によって当社に祈願され、懐妊の時には、社殿の下の砂を産床の下に敷いて仁明天皇を御安産になられた」(大意)
とあり、これを以て、当社が子授け・安産の守護神である由来として、今もって、産砂を安産の御守りとして、岩田帯とともに授与しているという。

※社殿等
 道路(交差点)から北へ入った処に一の鳥居が立ち、参道を進み朱塗りの二の鳥居、二層建の楼門をくぐって境内に入る。
 境内中央に拝殿(入母屋造・銅板葺)が、その奥、唐風破風を有する弊殿(檜皮葺)と、左右に連なる回廊に囲まれた神域内に本殿(流造・間口四間・奥行二間・檜皮葺)が、いずれも南面して建つ。
 なお社頭の説明(京都市掲示)には、本殿・拝殿・弊殿・回廊・中門などの建物は、元禄13年(1700)の再建によるものという。

梅宮大社/一の鳥居
梅宮大社・一の鳥居
梅宮大社/二の鳥居
同・二の鳥居
梅宮神社/楼門
同・楼門
梅宮神社/拝殿
同・拝殿
梅宮大社/弊殿正面
同・弊殿正面
梅宮大社/本殿
同・本殿

◎摂末社
 若宮社−−本殿の右に鎮座する小社
   祭神:橘諸兄  流造・檜皮葺
 護王社−−本殿の左に鎮座する小社
   祭神:橘氏公(ウジキミ・檀林皇后の弟)  春日造・檜皮葺

 護王社の左、瑞垣に接して末社・8社を祀る合祀殿がある。
   幸神社(サルタヒコ・ウカノミタマ)・天皇社(イザナミ)・愛宕社(スサノヲ)・薬師社(オオナムチ・スクナヒコナ)
   ・住吉社(住吉三神)・厳島社(イチキシマヒメ)・春日社(アメノコヤネ)・天満宮(菅原道真)

梅宮大社/摂社・若宮社
摂社・若宮社
梅宮大社/摂社・護王社
摂社・護王社

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