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山 崎 神 社
京都府京田辺市三山木山崎107
祭神--額田大中日子命・大友皇子
                                               2019.11.29参詣

 JR学研都市線・三山木駅の南西約250m。駅前から府道22号線を南下、右側最初の辻を右折(西へ)して約150mほど行った民家の横を右(北)へ入った先、樹木に囲まれて鳥居が立つ。

※由緒
 社頭の案内には、
 「現存する石灯籠の銘文から、『八王子宮』・『山神宮』と称した二社があったことが判明する。山神社は子授けの神として近隣の信仰を集めていたという。

 明治20年(1887)、社頭を現在の場所に整備し、もとあった東側の小高い場所を掘り下げたところ、古墳(山崎2号墳)の石室や縄文時代の石棒(京田辺市指定文化財)がみつかった。

 現在の祭神は二柱。
 一社は額田大中彦命(ヌカタノオオナカツヒコ・応神天皇の皇子)で、古事記・日本書紀によると、その母は応神天皇皇后(中日売命・ナカツヒメ)の姉である高木之入日売(タカキノイリヒメ、書紀では高城入姫)と記されている。この「高木」は地名として伝わっている。

 他の一柱は大友皇子で、皇子は古代最大の乱である壬申の乱(672)で敗戦、山崎で自害したことが日本書紀に記されている。
 この山崎の地がどこかについては諸説があるが、この地も山崎で、当時は丘陵が東に伸びており、8世紀には、その先に山本駅が置かれ、西に向かえば直ぐに北河内に、木津川を越えて宇治田原を経て大津の瀬田にも近く、山陽道の要の地であった。
 このため大友皇子についての地元口伝もあり、境内整備の際に祭神の変更があったと推定される。京田辺市教育委員会
とあるが、創建由緒・時期等の詳細は不明。


 当社は嘗て八王子宮と呼ばれていたという。
 これは、当社旧社地にあった山崎2号墳が八王子塚とも呼ばれていたことによると思われる。
 この古墳について、社頭に立つ案内板には
  「この山崎丘陵には古墳が三基以上あり、山崎古墳群と呼ばれていた。
  ○山崎1号墳  
   現在の山崎公民館付近から多くの勾玉がみつかっている。
  ○山崎2号墳(八王子墳)
   山崎神社(もと八王子社)境内に巨石がみえるのは、横穴式石室の玄室(ゲンシツ・遺体を安置する部屋)天井石で、明治20年(1887)に発見されたものである。
   石室内部に金環・須恵器・高坏・亙器椀などが遺体とともにあり、貝殻の堆積もあったらしい(貝殻を敷いた上に遺体などがあったともいわれる)
   出土遺物からみて7世紀前半の古墳で、平安時代にも再利用されたことがうかがえる。
  ○山崎3号墳(権現山) 
   山崎神社の南約50m、道をへだてた南側にあり、長い間禁足地だった。しばしば盗掘され、石片が残るだけである。
  山崎3号墳は継体天皇の御陵
  山崎2号墳は継体天皇第8王子・兎皇子の墓という伝承がある」
とあるが、いずれも、その形態・規模等については不明。
 当社の旧社名を八王子社というのは、この古墳名・八王子塚からのもので、それは継体天皇の第8王子からきた呼称と思われる。
 なお、今の当社周辺には民家が密集しており、古墳旧跡の痕跡はみられない。


※祭神
 上記案内には、祭神は額田大中日子命・大友皇子というが、継体天皇第8王子・菟皇子(ウサギノミコ)とする資料もある。

 *額田大中日子命
  この命は応神天皇の御子で、古事記には
  ・品陀和氣命(ホムタワケ・応神天皇)、品陀真若王(ホムダノマワカノミコ・景行天皇の孫)の女、三柱の女王(ヒメミコ)を娶したくひき。一の名は高木之入日売命、次に中日売命(ナカツヒメ・応神の皇后)、次に弟日売命(オトヒメ)
  ・高木之入日売命の子、額田大中日子命(書紀:額田大中彦皇子)
とあるが、その事蹟等についての記述はなく、この皇子が当社に祀られる由縁は不明。

 *大友皇子
  この皇子は天智天皇の御子で、書紀には
  ・後宮の女官で男女の子を生んだ者は4人あった・・・
  ・また伊賀采女宅子娘(イガノウネメヤカコノイラツメ)があり、伊賀皇子を生んだ。後の名を大友皇子という
とある。
 天智の死後、皇位を継ぐはずであったが(即位の有無は不明だが、明治3年に皇統譜に列せられ弘文天皇と諡された)、天智の弟・大海人皇子(おおあま・後の天武天皇)との皇位継承戦(壬申の乱・672)に敗れ自死したといわれ、書紀・天武即位前記には
  ・こうして大友皇子は逃げる所もなくなった。そこで引返して山崎に身を隠し、自ら首をくくって死んだ
とある。
 当社が大友皇子を祀るのは、皇子が自死した山崎を当地とみてのことからだろうが、書紀に、「22日、大友皇子と群臣らは瀬田橋の西に大きな陣を構えていた」とあり、そこで最後の決戦がおこなわれたというから、そこで敗れた皇子自死の地・山崎とは大津市付近の何処かとみるのが順当で、遠く離れた当地で自死したというのには疑問がある。

 *菟皇子(兎皇子)
  継体天皇の御子で、
 書紀には
  ・天皇は皇后の他に8人の后を入れられた
  ・根王(ネノオオキミ)の娘を広媛といい二男を生んだ。長男を兎皇子といい、これは酒人公の先祖である
 新撰姓氏録には
  「大和国皇別 酒人真人 継体皇子兎王之後也」
とあり、上記したように当社境内にあった山崎2号墳が菟皇子の墓との伝承によるものであろうが、社殿構成(下記)からみて無理があるように感じられる。

 このように、当社祭神二柱(あるいは三柱)のいずれも当社あるいは当地との確たる接点はなく、何れも伝承によるものであって、本来の祭神は別なのかもしれない。

※社殿等
 民家と畠の間の小道を入り(案内表示等なし)、道なりに少し進んだ小道の左側に東面して鳥居が立つ。


山崎神社への入口 
(電柱横の民家と畠の間を左に入る)
 
山崎神社・社頭
(道路左の鳥居の左側が神社)

同・鳥居 

 鳥居を入り、石段を上ったすぐに割拝殿があり、左右に透塀が伸びる(社頭に樹木繁茂し全体は見づらい)
 拝殿から少し離れて、白壁に囲まれた中、小さな鳥居の奥に切妻造・平入りの本殿が東面して建つが、本殿というより覆屋的な社殿で、中に小祠2宇が鎮座する。


同・割拝殿 
 
同・本殿覆屋(正面)
 
同・本殿覆屋(側面)

 本殿覆屋の中に、やや色あせた朱塗りの春日造・厚板葺きの小祠2宇が並んで鎮座する。
 案内がいう祭神・額田大中日子命及び大友皇子に対応する社殿だろうが、案内なく、どちらがどの神を祀るのかは不明。
 推測すれば、低い基壇上に建つ右側の小祠(左側は基壇なし)が額田大中日子を祀る社殿かもしれない。


本殿2宇 

本殿(左)

本殿(右) 

◎境内
 境内には大小の石が幾つか置かれている。
 拝殿を入ってすぐの右側、玉垣に囲まれたなかに置かれている巨石が、山崎古墳群案内がいう「横穴式石室の玄室天井石」であろうが、案内等はない。。

 
拝殿左下・玉垣内が巨石
 
巨石正面(玄室天井石か)
 
巨石表面

 境内左右に並ぶ大小の石も古墳に関係した石(石室を構築していた石か)かとおもわれるが、詳細不明。

 
境内北側の石列
 
同南側の石列

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