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山城(乙訓郡)の式内社/與杼神社
京都市伏見区淀本町
祭神−−豊玉姫命・高皇産霊神・速秋津姫命
                                                              2011.10.08参詣

 延喜式神名帳に、『山城国乙訓郡 與杼神社』とある式内社。
 明治10年(1877)以降、與杼神社(ヨド、与杼・與度とも記す)を正式社名としているが、古くは淀大明神・水垂社とも呼ばれたという。

 京阪本線・淀駅の西南約400m、淀城趾の一画・北側に鎮座する。

※由緒
 当社由緒書によれば、
 「この神社は、僧の千観内供(ナイグ・天皇の側にあって仏教儀礼に奉仕した高僧)が応和年間(961--63)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのが始まりとある。
 しかし、延喜式第9巻・山城国乙訓郡の中に與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられる」
とあり、式内社調査報告(1979)には
 「水垂社縁起(応安年中-1368--75・藤原資利著)では、“この社が応和年中肥前国佐嘉郡河上社から神功皇后の姉・豊玉姫を勧請して創建され、時の村上天皇から正一位淀姫大明神の爵号を得た”とある。・・・」
という。

 由緒記前段にいう“肥前国の與止日女神社”とは、佐賀市にある式内・與止日女神社(祭神・與止日女-ヨドヒメ-大神、伝欽明朝創建、神階:正一位、別称:河上神社)を指すと思われる。
 しかし、三代実録(901)・貞観元年(859)正月27日条に、
 「(山城国)正六位上與度神・・・等に従五位下を授く」
とあり、また延歴5年(927)撰上の延喜式神名帳にその名があることからみて、由緒書がいうように、9世紀中葉以前から鎮座していた古社といえるが、その創建年代は不明。

 由緒書にいう僧・千観の勧請以前の旧社にかかわって、ネット資料(京都史跡散策会48号)には
 「古くは大与等(オオヨド)氏の祖先神を祀っていたと考えられる」
とある。
 大与等氏の出自ははっきりしないが、新撰姓氏禄(815)
 ・山城国皇別 与等連 塩屋連同祖 (孝元天皇の皇子)彦太忍信命(ヒコフツオシノマコト)之後也
 ・河内国皇別 塩屋連 武内宿禰男葛木曾都比古(カツラギソツヒコ)之後也
があり(彦太忍信命は武内宿禰の父、あるいは祖父という)、塩屋連とは製塩・漁猟・海運などに従事した氏族という
 大与等氏が与等連(ヨドノムラジ)・塩屋連(シオヤノムラジ)に連なる氏族とすれば、同氏は桂川・鴨川・宇治川などが合流する当地(淀)にあって、水運・漁撈などに従事した氏族と思われ、その大与等氏が祖神を祀ったのが当社の始まりとも推察される。

 当社は今、淀城趾の一画(北側)に鎮座しているが、曾ては桂川の対岸(右岸)の川原(旧乙訓郡水垂村−現伏見区淀大下津町)にあったが、明治33年(1898)の桂川河川敷改修工事により同35年6月に現在地へ遷座したという(当社由緒書)
 その旧社について、山城志(1734)には
 「水足村に在り。正殿礼殿舞殿小祠二前 地蔵堂多宝塔鐘楼有り。淀町 納所大下津村相共に祭に与る。・・・」
とあるが(式内社調査報告)、今は桂川右岸2線堤防の北側に小祠を残すのみで、当社の御旅所となっている(後述)

※祭神
 由緒書によれば、
 「祭神は、中央に豊玉姫(トヨタマヒメ)、向かって右側に高皇産霊神(タカミムスヒ)、左側に速秋津姫命(ハヤアキツヒメ)の三柱である」
とある。

 トヨタマヒメは、海神・ワタツミの娘で皇曾孫・ホホデミの妃となった女神(水神)。俗信では、由緒記にいう僧・千観が勧請したヨドヒメ大神(淀姫大明神)と異名同神、あるいは神功皇后の妹(或いは姉)という。
 ハヤアキツヒメは、イザナギ・イザナミ双神の国生み・神生みによって生まれた女神。水戸(湊)・河口を司る水神で、大祓祝詞では祓除(祓い浄め)の神ともされる。
 タカミムスヒとは混沌の中から成りでた造化三神の一で(古事記)、アマテラスに代わって皇孫・ホノニニギに降臨を命令するなど高天原の中心的な役割をなした神。
 また、“産霊”(ムスヒ)と称するように、“生成”・“成長”を表す“ムス”と“神霊”を表す“ヒ”とからなる“ムスヒの神”で、天地・万物を産みだし・育て・成長成熟させる霊的な力を持つ根源的な神ともいわれ、産巣日・産日・産魂とも記す。

 当社の旧鎮座地が桂川右岸にあったことからみて、水運・漁撈などの守護神である水の女神2座と、万物を生み出し成長させるムスヒの神(端的にいえば豊饒神)を併せ祀ったもので、それは、当地一帯の水運・漁撈などに従事したと推測される大与等氏の祖神にも通じるといえる。

 なお水垂社縁起に、当社創建時に“村上天皇(946--67)から正一位淀姫大明神を贈られた”とあるが、貞観元年(859)以降、当社に対する神階授叙記録はみえず、村上天皇時の正一位授叙というのは確認不能。
 勧請された與止日女大神が、当縁起成立時(1368--75)には既に正一位の神階を有していた(1260年授叙という)ことから、当社祭神も同じとしたのかもしれない。

※社殿等
 京阪高架線に面して南面して鳥居が立つが(右角にコンビニあり)、何故か笠木が右に傾いている。

 鳥居を入り左に折れた参道の先、少し高くなった境内正面、低い木柵の中に拝殿が東面して建つ。曾ての舞殿を移築したものと思われ、入母屋造(桁行二間・梁行二間)・こけら葺き。桃山様式をよく残しているとして国の重要文化財に指定されている(昭46)

 拝殿奥に建つ本殿(切妻造・桁行三間・銅板葺)も拝殿と同じ理由で重文指定をうけていたが、昭和50年8月、子供たちが打ち上げた花火によって焼失し、重文指定を解除されたという。今の社殿は昭和55年再建によるもの。

与杼神社/鳥居
与杼神社・鳥居
与杼神社/拝殿(舞殿)
同・拝殿(舞殿)
与杼神社/本殿
同・本殿

◎末社
 社殿左手に、朱塗りの鳥居を有する末社3社、左から川上社・豊丸社・長姫社(長姫弁財天)が並ぶ。長姫社前の提灯には長姫弁財天とあるが、他の2社の祭神名は表示なく、鎮座由緒を含めて詳細不明。

 社殿右手奥、木柵に囲まれた中に神明造・高床の社殿が鎮座する。社名表示はないが、由緒書にいう日大臣社(ヒダイジンシャ)であろう。
 日大臣社の祭神・由緒など不明だが、社名および神明造社殿からみて太陽信仰或いは伊勢信仰に関係するのかもしれない。

与杼神社/末社群
末社群(左より川上社・豊丸社・長姫社)
与杼神社/末社・長姫社
末社・長姫社
与杼神社/末社・日大臣社
末社・日大臣社

※旧社地(現御旅所)
   京都市伏見区大下津町
 当社の北方・桂川に架かる宮前橋を渡り、府道204号線を少し進んだ左側、桂川の2線堤防沿いに2列に並ぶ住宅地中の道を左(西)へ入った先の右手に鎮座する(東隣は児童公園)。与杼神社との関係を示す何らの表示もないが、11月3日の秋季大祭には神輿3基が渡御するという。

 低い土塀に囲まれた境内中央に朱塗りの鳥居が立ち、その奥・簡素な覆屋の中に朱塗りの小祠(一間社流造・銅板葺)が鎮座する。社殿・覆屋ともに古くは見えないが(近年整備改修されたらしい)、鳥居の両側に金網に囲まれて立つ古い灯籠一対は古社殿からの移設かもしれない(表示なし)

 ただ、明治の河川改修工事に支障となったため遷座したという本社由緒からみると、本来の旧社地は、今よりも川寄り(現河川敷内)にあったと思われ、改修工事時に今の場所に移ったのかもしれない。

与杼神社/御旅所・正面
御旅所・正面
与杼神社/御旅所
同・鳥居と覆屋
与杼神社/社殿
同・社殿

 遷座前の旧社殿について、
 ・明治33年の本殿修理に際して狛犬の体内から発見された銘に
   「慶長12年9月、豊臣秀頼公の命により普請奉行片桐市守之を再造す」
とあり、旧社殿は本殿・拝殿は慶長12年(1607)豊臣秀頼による造営と思われる。
 ・安政5年(1858)の寺社明細書によれば、淀大明神の建物として、本殿・舞殿の他に拝殿・若宮殿・日大臣社・地蔵堂・多宝塔・鐘楼等があったことが知られる。
とあり(以上、式内社調査報告)、神宮寺を有する桃山様式の華麗且つ規模広大な神社だったと思われる。


※稻葉神社
 与杼神社の南、境内を接して“稻葉神社”との小社がある。

 社頭に掲げる由緒によれば、
 「享保8年(1723)から廃藩置県(明治4年-1871)までの淀藩主であった稻葉家が、その藩祖・稻葉正成(1571--1628)を祀った社」(要点のみ)
という。
 社殿はそこそこに整備されているが、境内はだいふ荒れていて、祭祀が継続しているかどうかは不詳。
稲場神社/社殿
稲場神社・社殿

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