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吉田神社
京都市左京区神楽岡町吉田山
祭神--健御賀豆智命・伊波比主命・天之子八根命・比売神
付--大元宮
祭神--天神地祇八百万神
                                                               2016.12.01参詣

 京阪電鉄・出町柳駅の東南東約1.2km、京大キャンパスの東、吉田山(H=121m)の山麓に鎮座する。式外社。
 駅南の今出川通りを東へ、百万遍交差点を右折(南へ)、東大路通りを南下した東山東一条交差点を左折(東へ)、東一条通りを東進した突き当たりに鎮座する。

※由緒
 当社は、江戸時代までは、9世紀中頃に創建された藤原氏の氏神を祀る吉田神社と、15世紀中頃、境内に創建された吉田神道の根本斎場・大元宮(ダイゲンキュウ)の2社から成っていたが、明治以降、大元宮は吉田神社の末社とされている。

【吉田神社】
 社頭に掲げる案内には、
  「祭神として健御賀豆智命(タケミカヅチ)・伊波比主命(イハヒヌシ)・天之子八根命(アメノコヤネ)・比売神(ヒメガミ)の四神を祀る。
 清和天皇(858--76)の貞観元年(859)4月、古くからの霊域であった吉田山に、中納言・藤原山蔭卿が平安京の鎮守神として春日の四神を勧請し、以来、朝廷の信仰も厚く、延暦2年(991)には朝廷から特別の奉幣をうける『二十二社』の前身である十九社奉幣に列する。

 次いで、室町時代の中頃、神官の吉田(卜部)兼倶(カネトモ)が吉田神道(唯一神道)を大成し、山上に斎場所大元宮(ダイゲンキュウ)を造営してから、吉田流神道の総家として明治に至るまで神道界に大きな権威を誇った。
 大元宮(重要文化財)には全国の神々が祀られ、ここに参ると全国の神社に参ったのと同じ効験があると信仰されている」
とある。

 この由緒は大きく二つに分かれ、前半には吉田神社の創建由緒が、後半には近世の神道界で大きな権威をもっていた吉田神道の創祀について記している。

 吉田神社の創建年次について、二十二社注記(1469・室町前期)には
  「鎮座年紀不分明
   或云、人皇五十六代清和天皇貞観年中(859--77)鎮座、中納言山蔭卿、始奉渡之勧請」
とあり、当社では、これを承けて貞観元年創建というのであろう。
 
 なお、伊呂波字類抄(平安末期)には
 「永延元年(987)、山蔭中納言之奉鎮」
とあるが(日本の神々5・1986)、中納言山蔭の生没年は天長元年(824)~仁和4年(888)であり、永延元年は死後百年ほど経っているので、この説はとれない。

 この永延元年について、二十二社註式には
  「人皇六十六代一条院・永延元年11月25日甲申、今年始祭礼・・・」
とあり、これは、その前年・寛和2年(986)12月の
  「詔 吉田社を以て、大原野に准じて二季祭を行え、四月中申日、十一月中酉日」
との勅令よる最初の官祭(秋祭)が行われた年と思われる。

 当社は、由緒にみられるように藤原山蔭によって創建された神社で、
 ・春日大社(奈良市)・大原野神社(京都市西京区)と共に藤原氏の“氏神三社”と呼ばれる私的な氏神社だったが、
 ・山蔭の曾孫にあたる藤原詮子(952--1002、太政大臣・兼家の娘)と円融天皇(64代・在位969--84)との間に生まれた懐仁親王が一条天皇(66代・在位986--1011)として即位したことから、国家祭祀を受けるようになり、
 ・正暦2年(991)、二十二社の前身てある十九社奉幣に列し
 (二十二社--祈雨を中心に止雨・天変地異・国家の大事といった臨時祭や、五穀豊穣を祈願する祈念祭に、朝廷からの特別の祈願・奉幣をうけた神社で、康保3年-961の16社奉幣にはじまるという。
  当社について、二十二社註式に「一条院5年正暦2年-992、炎天日を送り万物色を変ゆ、之に依り、6月24日祈雨奉幣の時、吉田・広田・北野以上三社が官幣を奉献され十九社と為る」とある)。

 ・後光厳天皇・延文5年(1360)には正一位の神階が授けられたという。

◎藤原山蔭
 奈良・春日大社から祭神4座を勧請したという藤原山蔭卿(824--888)とは、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇3代(858--887)に仕えた公卿で、官位は従三位・中納言・民部卿。
 平安朝で政権の中枢にあった藤原北家出身である山蔭が、平安京における藤原氏全体の守護神として、奈良・春日大社から勧請したのが当社という。

 なお、藤原山蔭は四条流包丁式(料理法)の創始者として知られる人物で、光孝天皇の命によって新しい包丁式を編み出したといわれ、当社末社・山蔭神社に、包丁の神・料理の神として祀られている。
 包丁式とは、烏帽子・直垂あるいは狩衣をまとった料理人が、大きな真名板(マナイタ)の前に座り、食材に直接手を触れず、右手に包丁、左手に箸を持って食材を切り分け並べる料理法(儀式)で、日本料理法大全によれば、藤原山蔭が行った鯉料理の儀式の切形(魚の切り方・身の並べ方)が始まりという(Wikiprdia)

 その後の吉田神社は、藤原氏の庇護のもとにあったとはいえ、南北朝期に入った応永3年(1396)「境内に牛馬を入れないこと、境内の家屋を壊して持ち出さないこと」などの禁制が出されるほどに衰退し、一時、その復興が図られたものの、応仁の乱によって社殿のほとんどが焼失・荒廃したという(応仁2年・1468)

【大元宮】(ダイゲンキュウ)
 その再建を担ったのが当時の吉田神社宮司・吉田兼倶(カネトモ・1435--1511)だが、兼倶は吉田神社本体の再建より、それまで自邸(足利将軍・室町殿の南にあったというから、現京都御所の西辺りか)で祀ってきた斎場所(サイジョウショ・文明2年頃創祀という)を吉田山に遷すことを先行させ、文明16年(1484)、大元尊神(ダイゲンソン)即ち天地開闢のとき最初に成り出た国常立尊(クニノトコタチ・書紀)を主祭神に、日本国中の天神地祇3,132座(式内社祭神総数)を勧請して一社に祀り、大元宮(ダイゲンキュウ)と称したという。

 斎場所は「日本最上神祇斎場」とも称し、吉田家に残る資料(兼到卿記)によれば、
 「初代天皇・神武天皇が日向から東へ進んで大和に至り、まつろわぬ荒き神々を平定して橿原に都した時、近傍の鳥見の山に日本国中全ての神を斎き祀って以来、都の近傍に設置されてきた神社」
であり、日本国中の神々を祀る総本社という。

 ここで、斎場所は神武天皇が初めて神々を祀られた神マツリの場を引き継ぐものというが、これは書紀・神武紀4年春条に、
 「勅して『わが皇祖の霊が天から降り眺められて、我が身を助けてくださった。今、多くの敵はすへて平らげて天下は何事もない。そこで天神を祀って大孝を申しあげたい』と。
 神々の祀りの場を鳥見山に設けて、そこを上小野の榛原・下小野の榛原という。そして高皇産霊尊を祀った」
とあるのを承けたのだろうが、実在したとすれば弥生時代と思われる神武の頃に、どのような神マツリが行われたかは不明で、上記伝承は吉田家が自邸の斎場所を最高の神社として格付けしようとする思惑から、神武天皇に付会して作られた偽伝といえよう。

 この遷宮に際して、兼倶は後土御門天皇(在位1464--1500)に「日本国中三千余社 天神地祇八百万神」との神額の下賜を願い出、これを快諾した天皇は神額を染筆下賜し(今、大元宮正面にレプリカが懸かっている)、あわせて「神国第一之霊場 本朝無双之斎庭(ユニワ)也」との綸旨(天皇の意を記した文書)を出したという。

 降って延徳元年(1489)11月、兼倶は後土御門天皇に、
 ・3月15日、激しい風雨に見舞われ、雷も鳴り止まない中、黒雲を八つに切り裂き、目映いばかりの光とともに、不思議な物が吉田山斎場所に落下してきた
 ・また10月4日、今度は天から光が降り注ぎ、それが消えた後には、やはり不思議な物が多数残されていた
と奏上し
 これを受けた天皇は、「それはお伊勢さんのご神体に、間違いなかろう」と答えたという。

 15世紀という時代は室町幕府の威令に陰りがみえ、応仁の乱にみられるような騒然とした乱世で、そんな中、伊勢神宮も皇室からの財政支援が失われたため、御師(オシ)とよばれる下級神職が全国をめぐって、各地の有力武士たちを“檀那”として信徒化し、彼らから寄進された荘園や金品によってかろうじて維持されたという。
 そんななか、内宮・外宮の神職団の間に檀那の争奪をめぐる抗争が頻発し、文明18年(1486)には、内宮・外宮の神人間(内宮の門前町・宇治と外宮の門前町・山田との争いでもあったという)で流血の争いに起こり、この時、外宮正殿以下の社殿が炎上し、外宮のご神体も行方不明と噂されたという(また延徳元年-1489には外宮勢が内宮の一部を焼き討ちしたという)

 これらをうけて世間では、内宮・外宮の抗争・流血の騒ぎを嫌った伊勢の大神が、伊勢の地を離れて各地に飛び遷られたという噂が流布し(飛神明)、飛来された地には伊勢の分社ともいうべき社(今神明社)が建てられたという。

 このような風潮を利用したのが兼倶で、彼は伊勢の大神が大元宮に飛来されたとしたのが上記の奏上で、これを天皇に認めさせることで、大元宮を伊勢の大神以下の天神地祇を祀る天下第一の神社へと格上げし、これを背景に神道界に君臨しようとしたという。

 兼倶によれば、吉田家が神道界の頂上に立つのは、その血統によるもので、それは当家に伝わる
 ・承安5年(1175)6月10日付け六条上皇(?)院宣(インゼン・上皇の意を伝える文書)
  「当家(吉田家)は、祖先神天児屋根命の妙業を受け継ぎ、代々之を伝えてきた。その妙業は神国の根源であり、朝家の枢要であって、他に代えようがない。当家はまさに神道の棟梁と呼ぶにふさわしく、実際に神祇官を差配している。
 だから神祇官に参列するときは、律令制度の序列に関係なく、最上席を占めてよい。上皇陛下はこのようにお考えである」
 ・嘉禄3年(1227)付け後堀河天皇綸旨(リンジ・天皇の意を伝える文書)
  「昔から他の家の人を交えることなく、天児屋根命の大業をただ一人受け継いできた」
との2通の文書にあるように、
 “吉田家は、神代の昔、高天原で神マツリの大業を司った天児屋根命(アメノコヤネ)の後裔氏族で、その神事をただ一人受け継ぎ伝えてきた”
と主張し、それが朝野で認められたことによるという。

 確かに、吉田家に伝わる系譜(唯受一流血脈)には、
 ・天児屋根命の11世孫・雷大臣の時に卜部姓を賜り、18世孫・常磐大連の時に卜部姓を改めて中臣性を賜り、21世孫・大織冠鎌足が藤原の姓を賜ったが、23世孫・清麻呂の時に中臣姓に復帰、大中臣と称し
 ・25世・智治麻呂の子・平麻呂に至って元の姓である卜部を賜った
 ・平麻呂16世孫・兼煕(カネヒロ・1348--1402、兼倶の4代前)のとき吉田を改名
とあり、ネットにみる姓氏類別大観にも
  「卜部氏 中臣氏と同族 天児屋根命裔・大中臣智治麻呂の子・平麻呂が卜部姓を賜るに始まると伝えられる」
とある。

 しかし、上記系譜とは別に、
 ・中臣氏本系帳(延喜6年・906)所載の中臣氏系図(群書類従所載)によれば、智治麻呂の子供5人の中に平麻呂の名はみえず
 ・朝臣の姓をもつ智治麻呂の子が、それより一段低い宿弥を称したのは考えがたい
などから、吉田家を中臣氏と同族とするには疑問があり、幕末の神道家・平田篤胤等によって“吉田家が中臣氏の系譜を盗んで偽作したもの”と批判されたという。

 吉田家の前身とされる卜部氏とは、律令制以前から亀卜(キボク・亀の甲羅を灼いておこなう占い)をもって宮中の神事に従事した伊豆出身の品部(トモベ)で、律令時代になると意岐・対馬出身の卜部とともに神祇官に出仕し、そこでおこなわれる神事に従事した下級官人であったといわれ、中臣氏との間で血統的な繋がりはないとみるのが順当であろう。
 ただ、卜部氏は古代から長年に亘って中臣氏の配下として亀卜等の神事に関わっていたことから中臣氏とは上下関係にあり、そんななかで、吉田家が勝手に大中臣氏の系譜に自家の祖を結びつけたか、大中臣氏の暗黙の了解のもとで作られた系譜かと思われる。

 吉田家は、古事記・日本書紀・先代旧事本紀といった古資料に精通した学問の家柄だったといわれ、神祇官の中で次第に頭角を現し、神祇伯(長官・白川家世襲)に次ぐ神祇大副(次官)の地位につきこれを世襲していたが(11世紀中頃かららしい)、兼倶は、これに加えて神祇管領長上(シンギカンリョウチョウジョウ・神祇長上ともいう)なる肩書きを自称したという(文書上では、文明8年・1476初見)
 神祇官領長上とは律令制に基づく神祇官組織にはない肩書きで、亀卜などの祭祀実務に従事する職能者の最高位を示す称号といわれ、神祇伯が事務方のトップとすれば、神祇管領長上は祭祀専門職のトップということになる。

 吉田家は、この神祇大副・神祇管領長上との二つの肩書きをもつ神社界の棟梁として、宗源宣旨・神道裁許状・鎮札なる文書を神社・神職に与え、これにによって中近世の神社界のほとんどを支配下に置いたという。
 ・宗源宣旨--神に対して高い神格を示す称号や神階を授与・承認する文書で、これらは、本来天皇の勅許を得て朝廷(神祇官)から授与されるべきところを、吉田家が朝廷の承諾を得ずして独自に与えたという
 ・神道裁許状--神社・神職にかかわる諸事項に免許を与える文書で、神職への位階授与や神事執行時神職相応の衣冠装束の着用を許すなど、神職としての身分を保障する意味があったという
 ・鎮札--神の祟りを和らげ鎮めるための護符

 江戸前期の神社界は、吉田神道・伊勢神道といった幾つかの流れが混在していたことから、神社界の一元的な統制を図ろうとする幕府は寛文5年(1665)神社禰宜神主法度(神社御条目とも)との法令(5ヶ条)を発布し、その第3条で
 「無位の社人、白張を着すべし。その外の装束は、吉田の許状をもってこれを着すべし」
として、官位をもたない禰宜・神主が、吉田家の神道裁許状を受けないで白張以外の装束を着ることを禁ずるなど、神社界の一元的統制を図ったという。

 この法度によって幕府からのお墨付きを得たことで、全国の神社を一手に支配する権威を手に入れた吉田家は、求めに応じて宗源宣旨・神道裁許状を発行することで勢力を拡大したという。

 白張とは真っ白な無地の衣服のことで、中近世では「官人下賤の服」として身分の低い人が着る服とされたといわれ、村々での上層階級を自任する神職が白張を着ることは屈辱的なことであって、神職に相応しい衣冠装束を着用せんがために、法度発布後は吉田家の裁許状を求めてのコンタクトが著しく増加したという(今各地の神社に残る裁許状をみると、「神事参勤の時風折烏帽子狩衣を着す可し 神祇管領長上・花押」というものが多い)

 しかし、江戸も中期に入ると、諸事の根拠を文献等によって論考する考証学の興隆等から、吉田家がもつ独占的な権威に対する疑義がうまれ、伊勢神道などからの反撃が生じたという。
 特に、伊勢外宮の権禰宜・出口延経は弁卜抄なる文書(18世紀初頭頃)で、
 ・吉田家を天児屋根命の後裔とすることへの疑義
 ・吉田家が根拠とする綸旨・院宣等への疑義
 ・斎場所あるいは宗源宣旨・神道裁許状の神道界での位置づけへの疑義
等から論考を進め、
 “吉田家の系譜は偽造されたものであり、元々は亀卜に携わる神祇官の下級官人であって、神祇管領長上とは亀卜に携わる技能者の長にヒントを得た吉田家の創作である”として吉田家の権威に対しての叛旗を揚げたという(この裏には、宗源宣旨・神道裁許状発行に対する礼金が吉田家に独占されることへの反発があったという)。

 これに対して、吉田家から綸旨等の原本を提示しての的確な反論がなかったことから、これに同調する神社が生まれ、吉田家の権威には次第に陰りがみえるようになり、寛保3年(1743)には、神位の獲得には必ず天皇の裁可が必要とすることが決定され、これによって宗源宣旨は存在意義を喪失したという。
 しかし、このような動きは中央の著名な神社からのもので、一般の地方神社の神職にとっての吉田家は、相変わらず、望みに応じて位階等を授けてくれるありがたい存在だったという。

 幕末になると、平田篤胤等に代表される復古神道の興隆等によって吉田家の権威は次第に失墜し、加えて明治新政府による神祇官制度の復活によって吉田神道による神社界統制は停止され、大元宮は吉田神道の根本斎場から吉田神社の末社へと格下げされ現在に至るという。

◎吉田神道
 吉田神道(唯一神道)とは、簡単にいえば、神は仏が垂迹したものとする本地垂迹説に基づく神道理論(両部神道:真言系・山王神道:天台系など)に対して、神こそが唯一の根源であって、仏はその垂迹であるする神本仏迹説(反本地垂迹説)に基づく神道理論で、兼倶は
 ・神道は、日本にあって種子として生まれ、中国では枝葉と成り、インドでは花実となった
 ・仏教において万法の花実となって開き、儒教において万法の枝葉と為ったもので、その万法の根本が神道である
として(漢文意訳)、“神道は万法の根本であり、仏教・儒教はその神道より分化した花実・枝葉である”という(名法要集)

 また、本地垂迹説にいう仏を以て本地とし、神を以て垂迹とする(本地垂迹説)のは浅略の議であり、神を以て本地とし、仏を以て垂迹とする神本仏迹説ことこそが本質であるとして本地垂迹説を一蹴し、加えて、
 「習合の神道、天竺の真言、大唐の易道、吾朝の神道等は全て同じ類のものであるが、唯一神道だけは、これらとはまったく異なるものである」
として、唯一神道(吉田神道)こそが絶対無二なるもの、一つの混じりけのない純粋無垢な神道であるという。

 兼倶によれば、神道には本迹縁起神道・両部習合神道・元本宗源神道という3っの流れがあり、
 ・本迹縁起神道とは、神社(社家)に伝わる縁起・秘伝等を基に提唱された神道(伊勢神道など)で、
 ・両部習合神道とは、本地垂迹説(特に密教理論)に基づく神仏習合理論から神を説くもの(山王神道など)で、
 これに対する元本宗源神道について、兼倶は
 ・元とは、陰陽の働きの奥深くあって計り難いものである元々を明らかにすること
 ・本とは、一念が未だ起たぬその本元を明らかにすること
 ・宗とは、一気が未だ分かれない元神を明らかにすること
 ・源とは、智徳の光を和らげて、世俗の塵に混じわってくる神の働きを明らかにすることであって
 ・一切の衆生に恵みを与える本基をあきらかにすることであり
 ・吾国開闢以来の唯一神道といわれるものが是である
として、続けて
 ・吾神道は一陰一陽不測の元に国常立尊より天照大神に至るまで玄々相承せられ、その天照大神が天児屋根命に授けてより以来、濁世末代まの今日に至るまで、一気の元水を汲んで三教の一滴も嘗めぬ、純粋無垢なるものである
という(名法要集・漢文意訳、吉田神道の四百年・1997より)

 これによれば、元本宗源神道即ち唯一神道(吉田神道)とは、国常立神より伝えられた神道の根元となる教えということらしいが、中世神道独特の牽強付会的な表現が多く、その解説を読んでも、その論理にはついていけない。

 なお、兼倶は吉田神道こそ国常立尊から伝わる純粋無垢な神道だというが、資料によれば、その神道は古事記・日本書紀・先代旧事本紀などを基に、これに仏教・道教・儒教・陰陽道などを巧みに習合して組み立てた独自の神道理論という。

※社殿等
 東大路通・東山東一条交差点から京大キャンバス間の道(東一条通り)を東進した突き当たりに朱塗りの一の鳥居が立つ。

 境内は大きく二つに分かれ、北に吉田神社本宮が、南に大元宮が鎮座し、その間に攝末社数社が鎮座する。


案内図(左が北) 
 
吉田神社・一の鳥居

社殿配置図
(北:吉田神社・本宮区画、南:大元宮区画)

【吉田神社・本宮】
 一の鳥居から参道を進んだ先に朱塗りの二の鳥居が立ち、長い石段を登った上が境内。

 境内に入った左手(北側)が本宮区画で、朱塗り鳥居と木柵で区切られた中央に舞殿が、その奥、朱塗り・茅葺きの中門(四脚門)から左右に伸びる御廊(オロウ)で区画された奥に、春日造・朱塗りの本殿4棟が東西に並んで鎮座する。
 第一殿 健御賀豆知命(タケミカヅチ)
 第二殿 伊波比主命(イハイヌシ)
 第三殿 天之子八根命(アメノコヤネ) 
 第四殿 比売神(ヒメガミ)

 略記によれば、本殿は
 「応仁2年(1468)兵火にかかり、天文3年(1534)造営、慶安元年(1648)改造、明治44年修理、昭和11年・同52年改修」
というから、大元宮造営に遅れること約50年に再建されたことになる。

 由緒にいうように、当社は奈良・春日大社からの勧請であることから、祭神・社殿配置などは春日大社と略同じとなっている。
 (祭神の詳細は別稿・春日大社参照)

 
同・二ノ鳥居
 
本宮前の鳥居
 
同・舞殿
 
同・中門(左右に御廊が伸びる)

同・本殿(鳥居の奥に4棟が並ぶ) 

同・本殿(参詣の栞より) 

【斎場所大元宮】

 略記には、
 「由緒
 昔、左京区室町に在ったのを吉田兼倶が、後土御門天皇・文明16年(1484)に現地に造営、同年11月24日奏請のうえ遷座し、吉田神道の根元殿堂として道を説き教えを設けて神祇道の振興に多大の貢献をしたのである。
 又、後陽成天皇・天正18年(1590)勅により八神殿を社内後方に奉遷し、吉田兼見奉仕して鎮魂祭を行い、慶長14年(1609)更に勅をうけて神祇官代として伊勢例弊使の儀礼を修め、明治4年迄継続したが翌5年八神殿の神霊を宮中神殿へ鎮座した。
 彼の有名な宗源宣旨並に裁許状を発行し神職界の宗家と仰がれ神道の中心地でもあった」
とある。

 今は吉田神社の末社との位置づけだが、江戸時代までは大元宮を以て吉田神社と目されていたようで、都名所図会(1780)の神楽岡吉田社の絵図では、中央に大元宮の本殿が大きく描かれ、肝心の吉田神社は図の左下に「春日四神」と記された屋根のみが描かれている(右図・赤丸部分)。 

都名所図会・神楽岡吉田社の絵図

 本宮区画の南に立つ2基の鳥居の右側の鳥居を入って長い参道に沿って南に回り込んだ所に位置する。
 社頭に朱塗りの鳥居が立ち、参道の先、低い石段基壇の上に中門が建ち、左右に御廊(廻廊)が伸び、中門を入った先が境内で、大元宮本殿以下の諸社殿が建つ。


大元宮・社頭 

同・鳥居 

同・中門 

◎大元宮本殿--国指定重要文化財(旧国宝)
 大元宮本殿は茅葺き屋根・朱塗りの八角形社殿という特異な形で、背後に六角形の後房が付いている。
 現在の社殿は、昭和14年改修、同55年に修理されたという(略記)


大元宮本殿・正面 
 
同・西側面
 
同・東背面
(右の突出部が六角形の後房)

 屋根の上にあがる千木(チギ)・勝男木(カツオギ)も特異な形で、略記には
 「千木は南方(前方)が内削(ウチソギ、尖端を水平に切る)、北方(後方)が外削(ソトソギ、尖端を垂直に切る)に、勝男木(カツオギ)は南方が丸三個重ね三ヶ所に北方は角二個宛二ヶ所に、又棟の中央七角の台に八咫璽(ヤタノミタマ)が置かれ七本の火炎型の金具を取り付けてある等、(本殿を含めて)この特殊なる形体は総て吉田神道の原理により表現された社殿である」
とある。
 通常、内削千木は祭神が女神であることを外削千木は男神であることを示し、勝魚木も偶数は女神社、奇数は男神社に用いられるといわれ(例外もある)、当本殿のそれらが混在していることは、当社祭神が男女神を問わず祀られていることを示しているのであろう。

 また、本殿正面に掲げる扁額には、「日本国中三千余社 天神地祇八百万神」とある。大元宮遷座にあたって後土御門天皇から下賜されたという扁額(上記)のレプリカであろう。


千 木 
 
勝男木

扁額 

*八角形ということ
 大元宮本殿は八角形という特異な形をしている。
 八角ということについて、井本栄一氏は
 ・八角表象の起源として、まず考えられるのは東西南北とその中間の方位を含めた八方位を指し、宇宙の全方位を象徴する
 ・八角形は古今東西を問わず数多くみられる形で、わが国でも牽午子塚古墳(斉明天皇陵)・大内山古墳(天武・持統天皇陵)・天智陵古墳といった天皇陵、あるいは法隆寺夢殿・西円堂や興福寺北円堂・同南円堂の基壇等に用いられ、京都御所の高御座も八角であり、それらは再生のための八角形であったともいえる
 ・また、八には古い暦の上での宇宙観があったと考えられ、金枝篇によれば、古代ギリシャで、太陽暦8年の96月は、太陰暦の99月、つまり太陰暦8年に3っつの閏月を足したものとほとんど重なることから、宇宙の周期は8年毎に更新されると考えたという
 ・8年たって日月が元の秩序へ回帰するという不思議が古代人によって発見されたとき、八という数字は神聖なものとなり、神の属性とされ、
 ・そこから、八という数字は完数であり多数であり、且つ聖数であるとの観念が生まれたという
 ・また、八角が表象するものは鬼道つまり異界の神の道に通じるものでもあったようで、そこでの八角も極めて神聖なもので、八角形をしたものは聖性をともなっているといえる
という(王権の神話・1990、大略)
 兼倶が如何なる理念から大元宮本殿を八角形に象ったのかは不詳だが、八という数字が神聖なものであり、八角形が宇宙の全方位を象徴するものであることから、宗源神道(唯一神道)である吉田神道の根本斎場として採用したのかもしれない。

◎東西諸神社
 本殿の左右(東西)に、朱塗り長棟の社殿2棟(東・西諸神社)が本殿を左右から抱きかかえるように伸びている。
 延喜式神名帳に列する全国68国の式内社の神々を勧請した社殿で、吉田神道がいう、“大元宮には全国総ての神々が祀られる”というのを視覚化したものといえる。
 社殿は68ヶ所に区画され、それぞれの上に“山城国中一百二十二神”等、国名と祭神数を記した扁額が掲げられている(総数:3,132座)

 
西諸神社
 
東諸神社
 
扁 額(山城国・大和国)

◎東西神明社と八神殿跡
 本殿の背後に“神祇官 八神殿跡”が、その右に東神明社(鳥居神額には内宮源とある)が、左に西神明社(鳥居神額には外宮宗とある)が鎮座する。

*八神殿跡
 嘗て当地にあったという“神祇官・八神殿”とは、古代から中世初期まで宮中の神祇官西院に祀られていた神々で、延喜式神名帳の筆頭にみえる「御巫祭神八座 並大 月次新嘗」が之にあたる。
 祭神8座とは、神産日神(カミムスヒ)・高御産日神(タカミムスヒ)・玉積産日神(タマツミムスヒ)・生産日神(イクムスヒ)・足産日神(タルムスヒ)・大宮売神(オオミヤノメ)・御食津神(ミケツ)・事代主神(コトシロヌシ)で、いずれも天皇の守護神という(新嘗祭前日におこなわれる鎮魂祭で祀られる神々という)

 宮中の八神殿は応神の乱での内裏炎上とともに焼失したといわれ、その後の経緯ははっきりしない。
 当社に祀られた経緯について、略記には
 「後陽成天皇・天正18年(1590)勅によりて八神殿を社内後方に奉遷し、吉田兼見が奉仕して鎮魂祭を行い、慶長14年(1609)更に勅をうけて神祇官代として伊勢例弊使の儀礼を修め、明治4年(1871)迄継続したが、翌5年八神殿の神璽を宮中神殿へ鎮座した」
とあり、この八神殿を境内に祀ることが、吉田家が神祇官代(焼失した神祇官の代替)として中世以降の神道界に君臨する根拠となったという。
 (八神殿の当地遷座については、旧社地が豊臣秀吉の聚楽第造営・1587に際して邪魔になったので遷したとの説、慶長2年・1597遷座との説などがある)

 江戸中期の都名所図会には、8棟の小祠が並んでいる様が描かれているが、今は低い石積み基壇の上に磐境らしい石組みと数本の樹木があるだけで、嘗てあった神殿の痕跡は見えない。

*東西神明社
  東神明社--天照皇大神(内宮祭神)
  西神明社--豊受比売神(外宮祭神)
 八神殿の左右に鎮座する東西神明社とは、吉田兼倶が、延徳元年(1489)伊勢の大神(ご神体)が吉田の地へ飛び遷られたとして勅許をえて祀ったもので(上記)、当地に伊勢の大神を祀ることで、大元宮を天照大神・豊受大神以下の天神地祇総てを祀る最高の神社と格付けし、それが吉田家が神道界に君臨する一つの理由でもあったという。

 両社の前には、それぞれ白木造の鳥居が立ち、内宮源・外宮宗との神額が掛かっている。
 ここにある“宗”・“源”が何を意味するのか不詳。吉田神道の根元を表す“宗源”の2文字を分割したものらしいが、外宮が宗で、内宮が源である理由は不詳。


西神明社(外宮) 

八神殿跡 
 
東神明社(内宮)

※その他の攝末社(「 」内は参詣の栞記載の案内)
[摂社]
*神楽岡社
 境内右手(東側)、石段を登った上に鎮座する小祠
 「祭神 大山祇神(オオヤマツミ)・高龗神(タカオカミ)
  鎮座の年代は詳らかでないが、延喜式に“霹靂神(ヘキレキシン、ハタタガミとも称する激しく鳴り轟く雷神)、神楽岡に坐す”とあり、神楽岡地主の神、又雷除けの神として崇敬厚い同町の氏神で、明治10年摂社に定められた」

*若宮社
 神楽岡社右隣(南側)の石段上に鎮座する小祠(石段上の社地は神楽岡社と繋がっている)
 「祭神 天忍雲根命(アメノオシクモネ)
  天之子八根命(天児屋根命)の御子で、天孫のために天二上(アメノフタガミ)に上りまして御膳水(ミケツミヅ)を請うて奉り給うた水徳の神で、初め本社の第二殿と第三殿の間に無社殿で祭られてあったのを、後醍醐天皇・延元元年(1336)、吉田兼煕が社殿を建て、慶安元年(1648)現地に造営、明治10年摂社に定められた」

 若宮とは主祭神の御子神をいう場合が多いが、民俗学では、神がもつ一面である“荒々しく・祟りやすい”神格をもつ神ともいう。

 
神楽岡社への石段

神楽岡社 

若宮社への石段 
 
若宮社

[末社]
*神龍社
 境内右手の山麓、神龍社との案内脇の石段を登った上に鎮座する小祠。
 「祭神 従二位卜部兼倶朝臣
  卜部(吉田)兼倶朝臣は大元宮の創始者で、後柏原天皇・永正8年2月19日(1511)77才で死去、同10年2月鎮祭、
  明治13年末社に定められた」
 吉田神道を大成し大元宮を創建した吉田兼倶を祀る社。

*菓祖神社
 境内右手、菓祖神社との鳥居を入り緩やかな坂道を上った左手に鎮座する小祠。
 「祭神 田道間守命(タジマモリ)・林浄因命(ハヤシジョウイン)
  京都菓子業界の総意により菓祖神社創建奉賛会を結成、昭和32年11月11日兵庫県中島神社、和歌山県橘本神社、奈良県林神社の祭神を勧請。
 尚、詳議により、菓子関係功労者の霊を逐次相殿神として奉斎」

 田道間守とは、垂仁天皇の命を受けて常世国(トコヨノクニ)に“非時の香菓”(トキジクノカグノミ)を求めて出立、10年経って香菓(橘の実という)を得て帰朝したが、天皇は既に逝去されていたので香菓を陵に供え、泣き叫んで死んだとの伝承がある人物(書紀)

 林浄因(リンジョウインとも呼ぶ)とは、室町初期頃の渡来人で、和漢三才図会(1712)
 「建仁寺の竜山禅師入唐の折、浄因と交流があり、歴応4年(1339)の禅師帰朝に従って渡来して奈良・二条に居住し、饅頭を作るのを業とした。後に塩瀬を名乗る」
とある人物で、わが国饅頭製造の祖とされる。
 案内にいう奈良県林神社とは、奈良・漢国神社(漢国町)の末社・林神社を指す。


神龍社への石段 

神龍社 
 
菓祖神社・鳥居
 
菓祖神社(右の小祠は何か不明)

*山蔭神社
 境内南から大元宮へ至る小道の途中にある小社。
 「祭神 藤原山蔭卿 相殿 恵比寿神
  山蔭卿は、清和天皇・貞観元年(859)奈良春日の大神を勧請し、平安京鎮護の神として吉田神社を創建され、又、わが国に於いてあらゆる食物を始めて調理調味づけた始祖であり、古来包丁の神、料理、飲食の祖神として崇敬厚き神である。
 昭和32年、吉田神社鎮座千百年大祭を機に全国料理関係者が創建に協賛、同34年5月鎮祭」

 朱塗り鳥居2基が立ち、朱塗り瑞垣に囲まれた中に朱塗り春日造の社殿という結構は、他の末社にみない規模で、吉田神社創始者を祀る神社として相応しい。

 
山蔭神社・二ノ鳥居
 
同・社殿

*竹中稲荷社
 大元宮右手、稲荷社とある鳥居を入り、小道を進んだ先の左に朱塗りの鳥居が立ち、朱塗り鳥居列からなる参道の先に鎮座する。
 「祭神 宇賀御魂神(ウガノミタマ)・猿田彦神・天鈿女神(アメノウズメ)
  竹仲稲荷と称し、鎮座由緒は余り明らかでないが、古記に『在原業平の居を神楽岡稲荷神社の傍らに卜す云々』とあり、天長年間(824--34)既に社殿があったことが知られ、又古伝に『天保年間に京師幾万の子女群詣し、昼夜の別なく満山に踊躍す。是を蝶々踊と云い、その後数千の鳥居参道に樹立し、雨雪為に傘を要せず』などとある。
 現在の地には天保11年(1840)信徒の寄付金で造営されたもので、頗る旺盛を極めたものである。
 明治5年末社に定められた」

 なお、稲荷社殿の左手・崖の上に“稲荷小社”と称する小祠があり(間に天満宮あり)
 「吉田山の東麓にあったのを、明治5年稲荷社境内に遷座し末社に定められた」
という。

 両社とも吉田神社の末社というが、位置も離れており、本来は無関係の社だったと思われる。


竹仲稲荷社・入口鳥居 
 
同・社殿前の鳥居
 
同・舞殿

同・拝殿 

同・本殿
 
稲荷小社

*天満宮
 竹仲稲荷社境内の左に建つ小祠だが、稲荷社との関係はないらしい。
 「祭神 菅原道真公
  智福院に奉祀されてあったのを、嘉永5年(1852)、信徒の誓願により卜部良好が現地に勧請、明治5年末社に定められた」


天満社・鳥居 
 
同・社殿

*今宮社
 吉田神社二ノ鳥居を入った左・石段下にある小社。 
 「祭神 大己貴神(オオナムチ)・大雷神(オオイカヅチ)・健速須佐之男命(タケハヤスサノオ)
  鎮座の年代は詳らかでないが、順徳天皇・建保3年(1215)、吉田小神社註進状にその名が既に明らかで、光格天皇・文化13年(1816)現地に造営され、古くから木瓜大明神(キウリダイミョウジン)と称し吉田町の産土神である」


今宮社・鳥居 
 
同・舞殿
 
同・二ノ鳥居
 
同・本殿

 本殿区画の三隅に「今宮社四神石」なる石(磐座)がある。
 「今宮社に四神石あり。本殿の東南に青龍石、西南に白虎石、西北に玄武石(亀石)があり、東北の朱雀石は内陣にあると伝えられている」
 聖域の四方を護る四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)を磐座として視覚化したものであろう。


青龍石(東南隅) 

白虎石(西南隅) 
 
玄武石(西北隅)

 資料によれば、上記以外に、大元宮社頭の南側に“三社社”(祭神:多紀理毘売命・狭依毘売命・多岐津毘売命・金山毘古命・金山毘売命・菅原神)との末社があるというが、現地にそれらしい社は見かけなかった。

 また、当社二ノ鳥居前の左側(北側)に『祖霊社』との社があり、社頭の案内には
 「本祖霊は、宗教法人大元講社社員の祖先の各霊位を奉祀し、各霊の年祭ならびに毎年春秋の二回大祭を執行し、霊魂を慰め奉らんとため、明治16年4月現在地にこの霊社が創立された」
とある。
 略記に記載がないことから攝末社ではなく、大元講の講員によって祀られているものであろう。


祖霊社・鳥居 
 
同・社殿 

 参考資料
 ・日本の神々5 谷川健一編 1986
 ・吉田神道の四百年 井上智勝 2013
 ・吉田神道の基礎的研究 出村勝明 1997

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