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松 虫 塚
大阪市阿倍野区松虫通1-10
                                                     21020.08.05

 JR天王寺駅の南南西約1.5km、駅前から阿倍野筋を南下、松虫交差点を右折(西へ)、阪堺電軌上町線を越えてすぐの北側にあり、歩道上の殆どを占めている。

 1980年代の道路拡幅工事の際に道路内に入り邪魔として撤去されそうになったが、地元住民の熱心な存置運動により、今の形で残されたという。

※由緒
 社頭に掲げる由緒には、
 「松虫塚には古来数々の伝説がありますが、この地が松虫(今日の鈴虫)の名所であったところから松虫の音にまつわる風流優雅な言い伝えが多く、七不思議の神木とともに尊崇されてきました。
 昔は、琴謡曲や舞楽などを修める人々の参詣で賑わったと伝えられていますが、近年は芸能全般、技術関係などすべての習いごとの習得を願う方たちから崇敬されています」

 境内入ってすぐ右手の石柱には、
 「昔から上町台地の上には古墳や塚がつくられることが多かったが、この松虫塚は通り係の旅人が松虫の声に聞き入り、命絶えたことをあわれんで供養されたものである」
とある。

 また、摂津名所図会(1798)には
 「松虫塚 阿部野村より二町許り西北にあり。むかしの官女塚なるべし、菅草官女に相通ず。松虫は官女の名なるべし」
とあり、この頃、松虫塚の由来は不祥だったらしい。

※現地
 現地は、コンクリート柱で区画された松虫塚が歩道(幅員:4~5m)の殆ど全幅を占め、車道側に幅1m未満の歩道が通っているのみ。
 南側入口を入ってすぐの右手に高い石柱(無銘)が、その下に「松虫塚」との石柱(上記案内を刻す)が、
 奥の北側柴塀沿いに「松蟲塚」と刻した古い石碑2基と、
 「秋の野に 人まつ虫の声すなり われかとゆきて いざとむらわん」との歌碑(下記伝説①関連)が並び立つ。

 また、北側西の石碑の後ろに大きな切り株があり、伐り口はまだ新しい。由緒にいう「七不思議のご神木」だが(写真には大樹・H=10mほどかみえる)、2019年10月12日の台風19号で倒れ道路を塞いだため伐採されたという。


松虫塚・全景(東より) 

同・境内(正面より) 
 
同・境内(西より)
 
入った右手の石柱

北側石碑1(後ろに切り株がある) 

北側石碑2 

北側歌碑 

 松虫塚には幾つかの伝説が伝わっており、「松虫塚の伝説」との案内には次のようにある。(『 』内:案内原文)

①『二人の親友が月の光さわやかな夜 麗しい松虫の音をめでながら逍遙するうち、虫の音に聞き惚れた一人が草むらに分け入ったまま 草のしとねに伏して死んでいたので、残った友が泣く泣くここに埋葬した。
 松虫の音に友を偲び
  秋の野に 人まつ虫の声すなり われかとゆきて いざとむらわん (読み人しらず)』 (古今集)

 これに関連して、摂陽群談(1916)には
 「東生郡阿部野村にあり。所伝云、古或人二人伴て、此野を過、折節秋も半ばにて、月の清なるに、(一人は)松虫の声面白き方を慕ふ。一人は跡に残りて、草の筵にぞ臥ぬ。
 暫の間も帰来ざりければ、又一人も跡を尋て、爰に来り見れば、草に伏て死ぬ、泣き泣き土中に埋みて、松虫塚と号て、世に之を伝ふ。
 松虫の音に寄こと古今集の序にたよりて、謡に作たるに因れるか」
とある。

 また謡曲に、これを題材とした「松虫」(伝世阿弥作)があり、その粗筋は
 ・津の国阿部野あたりの市で酒を売る男がいた
 ・その店には、いつも数人の男達が連れ立ってきて酒宴を催すので、その素性を尋ねようと思っていた
 ・そこへ男達がやってきて酒を飲み詩句などに興じていたが、ひとりが「松虫の音に友を偲ぶ」と口走ったので、主人がその意味を問うと
 ・「昔、この辺りを仲のよい二人連れが通りかかったとき、一人が松虫の音にひかれて草原に入ったまま不慮の死を遂げた」と語り、自分は、その時残された友だと明かし、今も死んだ友を偲んで松虫の音に誘われて来るのだと告げた
 ・それを聞いた酒屋の主人が哀れんで弔っていると、死んだ男の亡霊が現れて昔のことを物語り、明け方の鐘につれて姿を消し、後には虫の音ばかりが寂しく残った
という。

②『後鳥羽上皇に仕えていた松虫・鈴虫の姉妹官女が、法然上人の念仏宗に感銘して出家したが、松虫の局が老後この地に来て草庵を結んで余生を送ったという。
  経よみて そのあととふは松虫の 塚のほとりに ちりりんの声 藤原言因』 (芦分船)

 この伝説は、浄土宗の開祖・法然一門に課せられた建永・承元の法難(1207、10月改元)の発端ともいうべき事件で、親鸞聖人の歎異抄の末尾に、
 「後鳥羽天皇御宇法然聖人他力本願念仏宗を興行す。時に興福寺僧侶敵奏の上、御弟子中に狼藉子細ある由 無実風聞によりて 罪科に処せらるる人数の事
 法然上人幷御弟子七人流罪、又御弟子四人死罪におこなわるるなり
  上人は土佐国番田へ流罪、親鸞は越後国・・・
 死罪を行われる人々は、西意善綽房・性願房・住連房・安楽房(以下略)
とあり、この法難は事実無根の風聞により起こったものという。

 その住連・安楽両房が開いたという京都左京区鹿ヶ谷の住連山安楽寺の由来によれば、
 ・安楽寺は法然上人の弟子・住連上人と安楽上人を開基とします。
 ・この両上人が、現在地より東1kmあたりに「鹿ヶ谷草庵」を結び、布教活動の拠点をもたれたのがこの寺のはじまりです
 ・両上人が称える浄土礼賛は素晴らしく、両上人の前で出家を希望する人々が数多あり、その中に、後鳥羽上皇の女官、松虫姫と鈴虫姫があった
 ・両姫は、法然上人や開山両上人から念仏の教えを拝聴して感銘をうけ、仏門に入りたいと思うようになった
 ・建永元年12月、後鳥羽上皇が熊野詣でにいかれた留守中、両姫は、夜中密かに京都小御所を忍び出て鹿ヶ谷草庵を訪れ剃髪出家を乞い
 ・松虫姫(19歳)は住連上人から、鈴虫姫(17歳)は安楽上人から剃髪をうけ出家してしまう
 ・このことを知った上皇は激怒し、法然一門に弾圧を加え、
 ・翌年2月9日に住連上人を近江国馬淵で、安楽上人を京都六条河原で斬首の刑に処した
 ・更に、法然上人を讃岐国に、親鸞上人を越後国への流罪に処した。これを建永(承元)の法難という。
 ・その後、両姫は瀬戸内海に浮かぶ生口島の光明坊で常連・安楽両上人の菩提を弔って念仏三昧の余年を送り、松虫姫は35歳、鈴虫姫は45歳で往生をとげたという
とあり(概略)、これによれば松虫姫が阿部野の当地で余生を送ったとは有りえないことになる。

 この建永の法難とは、法然の専修念仏集団に対して、既成の仏教集団から出された念仏を停止し法然を処分せよとの奏状(興福寺奏状他)によるもので、そんな中で、上皇不在時に宮中の官女が法然門下に走って出家した(僧侶と官女の間に破戒の行為があったともいう)との風聞が流布し、これを信じた上皇が法然一門を弾圧したともいわれ、その官女の中に松虫・鈴虫両人が居たかどうかは不明という。(歎異抄にみるように、安楽寺系以外の古文書に松虫・鈴虫の名は一切みえないという)

③『才色兼備琴の名手といわれた美女が この地に住んでいたが、一夕秘技を尽くした琴の音が 松虫の自然の声に及ばないのを歎き 次の詩を吟じて琴を捨てたという。
  虫声喞々満荒野 闇醸恋情琴瑟抛 (虫声喞々(ソクソク)荒野に満つ 恋情を闇にかもして琴瑟を抛つ)』 (出典不明)

④『松虫の名所であるこの地に 松虫の次郎右衛門という人が住み、松虫の音を好することすこぶる深く 終生虫の音を友とし、老いてのち
  尽きせじな めでたき心しるならば こけの下にも ともや松虫
の辞世の歌を残して没したという』 (出典不明)

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