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河内(安宿郡)の式内社/飛鳥戸神社
大阪府羽曳野市飛鳥
祭神--琨伎王
                                                           2011.06.05参詣

 延喜式神名帳に、『河内国安宿郡 飛鳥戸神社 名神大 月次新嘗』とある式内社。郡名・社名ともに“アスカベ”と読む。

 近鉄南大阪線・上ノ太子駅の北約300m、葡萄畑に囲まれた高台(飛鳥上の段)に鎮座する。
 駅前の旧竹内街道の右(南東)約100mほどにある三叉路を左(北)へ、葡萄畑に夾まれた小道(途中にワイン工場あり)を進んだ左手に数本の高木と小さな社殿(右に数軒の民家あり)が見える。社頭へは路を北側に回りこんで至る。

 当社の周辺一帯には“飛鳥千塚”と呼ばれる古墳群(6世紀~8世紀頃)が散在し、いずれも飛鳥戸造一族の墳墓の地という。なお当社の北約200mに国指定史跡の観音塚古墳(円墳・径12m、7世紀中頃)があるという(未見)
飛鳥戸神社/遠望
飛鳥戸神社・遠望(南から)

※由緒
 社頭に掲げる案内には、
 「飛鳥戸神社は、飛鳥上の段の一角に鎮座する延喜式内の名神大社であり、雄略朝に渡来伝承をもつ百済系飛鳥戸造一族の祖神である飛鳥大神(百済の琨伎王-コンキオウ)を祭っている。
 平安時代初期には、百済琨伎王の子孫にあたる百済宿禰や御春朝臣たちの働きかけにより、貞観元年(859)8月に無位から正四位下を授けられ、翌2年10月に官社に列し、・・・」
とある。

 飛鳥戸造(アスカベノミヤツコ)について、新撰姓氏禄には
 ・右京諸蕃(百済)   飛鳥戸造 百済国比有王より出る也
 ・河内国諸蕃(百済) 飛鳥戸造 百済国主比有王男琨伎王より出る也
 ・河内国諸蕃(百済) 飛鳥戸造 百済国末多王之後也
の3系統がみえるが、これらは同じ一族で、百済王統譜によれば、当社の祭神・琨伎王(コンキオウ)は比有王(ヒユウオウ=琨有王・8代)の子で、末多王(マタオウ=東城王・12代)は琨伎王の子という。

 琨伎王の来朝について、書紀・雄略5年条によれば
 「夏四月、百済の加須利君(カスリノキミ=蓋歯王・9代)が、弟の軍君(コニキシ=琨伎王)に『日本に行って天皇に仕えよ』といった。軍君は『君命には背けません。願わくば君の婦を賜って出立したい』と答えた。加須利君は妊娠していた妃を与え、『わが孕める婦は臨月になっている。もし途中で出産したら、母子ともに同じ船に乗せて国に送るように』といって、共に日本に遣わされた。
 6月1日、身ごもっていた妃が筑紫の加羅島で出産したので、軍君は母子を船に乗せて国に送った。この子・嶋君(シマノキミ)が武寧王(13代)である。秋7月、軍君は京に入った。すでに5人の子があった。
 (注記--百済新撰::6世紀頃の百済史書-には、「辛丑年(461か)に蓋歯王が弟の琨伎君を遣わし、大倭に参向させ、天皇にお仕えさせた」とある)(大意)
との伝承があり、また同23年条には
 「夏四月、百済の文斤王(モクコンオウ・11代)が亡くなった。天皇は琨伎王の五人の子の中で末多王が若いのに聡明なので、これに兵器と筑紫国の兵士五百人を与えて国に送り届け、百済の王とされた。これが東城王(トウセイオウ)である」(大意)
とある。

 この軍君(琨伎王)の一族で当地に土着したのが飛鳥戸造氏で、正倉院文書・写経所解・天平20年(748)4月条にある、
 「無身安宿戸造(飛鳥戸造)黒万呂 年三十 河内国安宿郡奈加郷・・・」
を初見とし、続日本紀(797)にも“外従五位下飛鳥戸造弟見”(延歴2年-783条)の名が見えることから(三代実録-901-にも散見するという)、安宿郡内に飛鳥戸造一族が居たことが確認されるという。
 なお飛鳥戸造氏から、後世になって御春朝臣(続日本後紀・承和6年-834条)・百済宿禰(三代実録・貞観4年-862条)らが出ている。

 河内国高安郡・安宿郡には、飛鳥戸・春日戸・橘戸・八戸・史戸など“○○戸”(○○ベ)と呼ばれる渡来系氏族が多いという。この“戸”(ベ)とは渡来系氏族に与えられた特別の氏族名で、「大和朝廷が朝鮮から渡来した集団を○○戸と称して、この地域に定住させ、従来の部民制とは異なる編戸制を施行したらしい」(岸俊男)という。

 当社の創建年代ははっきりしないが、三代実録(901)
 ・貞観元年(859)8月条--河内国無位・飛鳥戸神に正四位下の位を授く
 ・貞観2年(860)10月条--河内国正四位下・飛鳥戸神を官社に列す
とあり、また当社付近から8世紀末から9世紀初期の祭祀土器が出土していることから、遅くとも平安初期の頃には存在していたと推定される、という(日本の神々3所載・飛鳥戸神社・2000)

 平安時代以降の経緯ははっきりしないが、
 ・南北朝から戦国末期にかけての戦乱に巻き込まれ、社殿焼失・衰微
 ・織田信長の河内攻め(天正3年・1575頃か)に際して社領没収 
 ・江戸時代には、参道をへだてた反対側(小字・新宮・ニイミヤ)に小社として存続(但し小字新宮の場所不明)
 ・明治初年、現在地に再建、村社に列す
 ・明治40年(1907)、大字壺井の壺井八幡宮に合祀さる
 ・昭和27年(1962)、住民の希望により旧社地(現在地)に復社
という(日本の神々3)

※祭神
 社頭に掲げる由緒には、「飛鳥大神(百済の琨伎王)を祀る」とあるが、以下の異説がある。
 ・河内名所図会(1801)--牛頭天王
   疫病除け・災害除けの神・ゴズテンノウを祀るとしたもので、江戸時代の流行によるものであろう。
   明治の神仏分離に際して同じ神格をもつスサノオ命と改名されているが、今、その痕跡はない。
 ・河内国式神私考(昭和初期か)--安宿王
   安宿王(アスカベノキミ)とは天武天皇の後裔・長屋王の五男。母が藤原不比等の娘だったため長屋王の変に連座せず、
   臣籍降下して高階真人と称した人物だが、この安宿王と当地との関係はみえず、安宿王・安宿郡の類似からの説であろう。
 ・河内国式内社目録稿本(?)--百済氏祖神 俗称少彦名命
   百済氏祖神には異論はないが、それをスクナヒコナとする理由は不明。海の彼方から来た神ということか。
 ・神社覈録(1871)--百済氏祖神を祀るが其の名詳ならず

※社殿
 神社北側の小広場の先に社殿への鳥居が立ち、石段を登った上・狭い境内に拝殿が、その奥・ブロック塀に囲まれた中に本殿が鎮座する。いずれも昭和40年(1965)建造という。
 ・本殿--一間社流造・銅板葺
 ・拝殿--切妻造・瓦葺、間口三間・奥行一間半


飛鳥戸神社・社頭(北側)
(石段の上に社殿が建つ)

同・拝殿

同・本殿

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