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河内(志紀郡)の式内社/辛国神社
付−−式内・長野神社
大阪府藤井寺市藤井寺1丁目
祭神−−饒速日命・天児屋根命・素盞鳴命
                                                       2011.04.07参詣

 延喜式神名帳に、『河内国志紀郡 辛国神社』とある式内社。辛国とは韓国(又は唐国)の転訛で、いずれも“カラクニ”と訓む。また明治41年(1908)、丹南郡藤井寺村字長野にあった同じ式内社『河内国志紀郡 長野神社 鍬』を合祀している。

 近鉄南大阪線・藤井寺駅の南約300m。駅東の商店街を南へ約250mほど行った右手(西)に参道入口がある。商店街の東側にある葛井寺(フジイデラ)略南端にあたる。

※由緒
 当社は今、藤井寺1丁目に鎮座するが、地元の伝承によれば、旧藤井寺球場(現四天王寺学院小学校)の北にある恵美坂団地の一角の小字・“神殿”(コウドノ)が旧地であったという(日本の神々3所載・辛国神社2000)。今、神殿との小字名はなくなっているが、当社の北西約500mの恵美坂1丁目辺り(近鉄線の北側)かと思われる。
 その後、足利幕府の河内守護として赴任した畠山基国(在任1382--1406)が、に奈良から春日神(アメノコヤネ)を勧請して、現在地に新社殿を造営したという15世紀初頭か)。河内志(1733)などに「今春日と称す」とあるのは、この春日神勧請によるものという。

 社頭に掲げる由緒によれば、
 「当社の創設は古く、今から約千五百年前の雄略天皇の時代に創設された式内社である。
 日本書紀に、『雄略13年春3月、餌香長野邑(エガノナガノムラ)を物部目大連(モノノベメノオオムラジ)に賜ふ』とあり、この地方を治めることになった物部氏が、その祖神・饒速日命を祀り神社を創設したのが当社の始まりです。
 社名の由来は異説種々あるが、物部氏の没後、同氏一族の辛国連が、当社に深くかかわることになり、辛国神社と称するようになったと伝えられている」
とある。

 辛国連とは、新撰姓氏禄に
 「和泉国神別(天神) 韓国連 神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也 武烈天皇御世被遣韓国 復命之日賜姓韓国連」
とある氏族で、上記由緒書によれば、その韓国連(辛国連・カラクニノムラジ)が物部宗家の没落後に当社の祭祀を司ったことから、辛国神社と称した、ということになる。
 雄略紀の記述からみて、物部本宗家が雄略13年(5世紀後半)以降用明朝末(587)に没落するまで当地を統治していた可能性は強いが、物部目大連が祖神を祀る神社を創建したとする確たる史料はなく、またニギハヤヒと社名・辛国とを直接繋ぐ接点もない。

 一方、社名・辛国が韓国(カラクニ・朝鮮半島)あるいは唐国(カラクニ・中国大陸)に起因するとみて、当地付近に居住していた渡来系氏族が関係するともいわれ、大阪府全志(1922)には、
 「社名の辛国は唐国にして、大陸の神を祀れるに起因せりとの説あり。・・・大陸の神なりとせば、長野連の其の祖を祀りしより此の社名を為せしものか」
とある。
 長野連とは、新撰姓氏禄に
   「河内国諸蕃(漢) 長野連 山田宿禰同祖 忠意之後也」
   (河内国諸蕃(漢) 山田宿禰 出自魏司空王昶-ギシクウオウエイ-也)
とある渡来系氏族で、この氏族が当社に関係するとする資料は多い。
 ただ、長野連が当地(志紀郡長野郷)に居住していた確たる史料がみえず、同祖とされる山田宿禰一族が河内長野(当地の南方約15・6km)を本拠としていたことから、長野連もまた“河内長野に居たとするのが有力か”ともいう(日本の神々3)。とすれば、当社に長野連がかかわるとするのは志紀郡・長野郷という地名による付会、あるいは、当社に長野連創建とされる長野神社が合祀されていることからの混乱かとも思われる。
 
 これに対して、当地一帯に勢力を張っていた渡来系氏族として百済辰孫王一族があり、これが関係するともいう。
 辰孫王一族について、続日本紀・桓武天皇延歴9年(790)7月17日条に記す、津連真道らの上表文に
 「真道らの本来の系統は百済王・貴須王(キス・近仇首王ともいう)より出ている。・・・・応神天皇のとき、貴須王が天皇からの有識者招聘をうけて、孫の辰孫王(シンソン)を入朝させた。天皇はこれを喜び、皇太子の師とされた。仁徳天皇は長男・太阿郎王(タアラ)を近侍とされ、・・・その孫・午定君の3人の子・味沙・辰爾・麻呂のとき別れて3姓となり、各々その所職に因りて氏をなした。葛井・船・津等是なり。・・・」(大意)
とある一族で、この上表文によれば、その系譜は
  始祖・都慕王(ツモ)・・・貴須王−辰斯王−辰孫王(知宗王)−太阿郎王−玄陽君−
                              −塩君(午定君)−|−味散(味沙君)−膽津(白猪史)→葛井氏
                                         |−王辰爾(智仁君)→船史→船氏
                                         |−麻呂(牛)→津史→津氏→菅野氏
となり、3氏に別れたのは6世紀後半とされ、その後、それぞれが中堅官僚・史部(フヒトベ・書記官)として朝廷に仕えたという。
 新撰姓氏禄には、これら3氏について
 ・右京諸蕃(百済) 葛井宿禰  菅野朝臣同祖  塩君男味散君之後也
 ・右京諸蕃(百済) 船連     菅野朝臣同祖  大阿郎王三世孫智仁君之後也
 ・右京諸蕃(百済) 津宿禰    菅野朝臣同祖  塩君男麻呂君之後也
とある。なお、本貫が右京諸蕃となっているのは、清和天皇・貞観5年(863)、その本拠を河内国から右京に移したことによる(三代実録)

 これら3氏のうち、当社にかかわったのは葛井氏(フジイ)ではないかという。
 葛井氏とは、塩君(午定王)の長子・味散君(味沙君)の後裔氏族で、書紀によれば、味散君の子・膽津(イツ)が白猪屯倉(シライノミヤケ・吉備国北部に置かれた朝廷直轄領)の戸籍を確定した功により“白猪史”(シライノフヒト)の姓を賜り(書紀・欽明30年条・6世紀)、続日本紀によれば、元正天皇・養老4年(720)には改めて葛井連(フジイムラジ)の姓を賜ったという。

 これら3氏が当地一帯に勢力を張っていたのを示唆する史料として、日本後紀(841)・延歴18年(799)3月条に記す、菅野朝臣真道等から出された
 「己等の先祖、葛井・船・津3氏の墓地は、河内国丹比郡の野中寺の南にありて寺山と曰ふ。・・・」
との上表文があり(野中寺とは、当社の南約1.2kmにある古寺で、聖徳太子の命を受けて蘇我馬子が建立したとの伝承をもつ)、また葛井氏については、三代実録・貞観5年条に、当地のすぐ西隣の河内国丹比郡の人として葛井連宗之・同居都人の名があること、当社のすぐ東に隣接する葛井寺(フジイデラ)が葛井氏の氏寺として建立されている(神亀2年・725)ことからみて、葛井連が当地に居たことは確かだろうといわれ、これらのことから、当社は「葛井氏を主体とする渡来系氏族にかかわる社とみてよいだろう」という(日本の神々3)

※祭神
 今の祭神は、饒速日命・天児屋根命・素盞鳴命の三神とするが、以下のような諸説がある。
 ・新羅国祖神−−神祇宝典(1646)
 ・韓国連祖神か−−神社覈録(1870)
 ・長野連祖神−−大日本地名辞典(1907)
 ・伊香々色雄命・天児屋根命−−特選神名牒(1925)・大阪府神社明細帳(1971)
 ・饒速日命・天児屋根命・素盞鳴命−−大阪府神社名鑑(1971)・当社
 ・葛井連祖神−−日本の神々3(2000)

 これらの祭神は、
 ・物部氏祖神−−当社由緒にいう書紀の「餌香長野邑を物部目大連に賜る」によるもの
 ・渡来系氏族祖神−−社名・辛国を韓国(唐国)の転訛とみて、渡来系氏族が関係するとみるもの
に大別されるが、延喜式には祭神一座とあることから、本来の祭神は物部氏の祖神・ニギハヤヒ一座であって、アメノコヤネは畠山基国による春日神勧請によるもの(上記)、スサノヲは合祀されている長野神社の祭神であろう。

 なお相殿祭神として、品陀別命(ホムダワケ=応神天皇)・市杵島姫命(イチキシマヒメ=弁天さん)を祀るが、曾ては境内社として祀られていたらしい。

※社殿等
 駅前商店街から西へ少し入って一の鳥居(木造・両部鳥居)、参道途中に二の鳥居(石造・明神鳥居)が立ち、境内正面に拝殿(入母屋造・千鳥破風唐破風向拝付・銅板葺)が、その奥、白壁に囲まれた神域内に本殿(三間社流造・銅板葺)が建つ。

辛国神社/一の鳥居
辛国神社・一の鳥居
辛国神社/拝殿
同・拝殿
辛国神社/本殿
同・本殿

◎末社
 境内には、末社・春日天満宮(菅原道真、平成5年・北野天満宮より勧請)と春日稲荷神社(ウカノミタマ)がある。

◎二の鳥居
 参道途中に立つ二の鳥居(石造)は、合祀された長野神社のそれを移設したもので、「元禄十七年(1704) 牛頭天王」との刻銘があるというが(式内社調査報告)、今、鳥居の両側の柱には、「長野神社」・「明治廿七年(1894)九月再建」とあり、牛頭天王の文字はみえない。


末社・春日天満宮拝殿

二の鳥居(旧長野神社より移設)

 

【長野神社】
 延喜式神名帳に、『河内国志紀郡 長野神社』とある式内社だが、明治の初めに村社に列せられ、同末期の神社統廃合により式内・辛国神社の本殿に合祀されている(明治41年・1908)

※由緒
 当社に関する資料は皆無で創建由緒・年代ともに不明だが、大阪府史蹟名勝天然記念物(1927)には、
 「長野神社は藤井寺長野に在り、延喜式内社にして今は素盞鳴命を祀る。
  その昔は、姓氏禄右京諸蕃及び河内諸蕃に收むるが如く長野連、山田宿禰同祖、巍国人忠意之後也と在り、帰化人にして其の祖神を祀れるより創まりしが如し」
とあり、渡来人・長野連の創建という。神社名・氏族名・地名が同じ長野であることからの推測と思われるが、上記のように、長野連が当地に居住していた確証はないとして、これを否定する説もある。

 しかし、辛国神社への合祀以前の当社が、下記するように、同神社に隣接する葛井寺の境内の一画に鎮座していたことから、同じ渡来人(百済系)で葛井寺を建立したと伝えられる葛井氏も候補に挙がる(ただ、葛井氏とする資料はみえない)

※祭神
 諸資料ともに祭神は素盞鳴命とするが、江戸時代までは防疫神・牛頭天王だったと思われ、明治初年の神仏分離によってゴズテンノウが邪神として排除されたため、同じ神格をもつスサノオに変更されたものであろう。
 ゴズテンノウは、防疫理論が未知・未確立だった江戸時代に、疫病の流行を防ぐ強力な防疫神として勧請されたもので、当社本来の祭神ではない。
 当社本来の祭神として、神社覈録(1870)・大日本神祇志(1873)他の諸資料は「長野連祖神か」として、長野連がその祖神を祀ったと推測している。
 長野連・葛井連いずれかは不明ながら、当社創建に関わりをもつ渡来系氏族が、その祖神を祀ったというのがのが実体で、その立地位置からみて葛井氏とするのも棄てがたい。

◎旧社地
 式内社調査報告(昭和54年・1979)によれば、当社は、
 「葛井寺の南西隅の空地、約72坪ほどの所にあった。今、遊戯具などを備えた子供の遊び場のような場所になっている」
とあるが、報告書刊行から30余年経った今、寺の西南隅には、楠巨木の下に数基の石仏龕が並び、観世音菩薩と記した赤い幡がはためいていて、子供の遊び場らしい区画はみえない。
 ただ、石仏龕の前に、砂庭跡とみればそう見えるような一画があり、ここらに遊具などがあったのかもしれない。
伝・長野神社/旧社地
 なお、葛井寺境内に掲げる案内板に描く“葛井寺参詣曼荼羅”(室町時代)の左下(境内南西部に充る)に鳥居が見えることから、寺の南西部に当社があったことは確かのようで、その立地位置からみて、葛井寺の鎮守社であったとも思われる。

◎葛井寺(フジイデラ)
 葛井寺縁起によれば、当寺は7世紀代(後半か)に百済系渡来氏族の葛井氏が氏寺として建立したと伝えられる古寺で、聖武天皇の命により造立され、神亀2年(724)天皇臨席のもと僧行基を導師として開眼法要がなされたといわれ、この時を以て寺の創始とされるともいう。
 本尊は十一面千手観音坐像(H=1.5m、脱活乾漆造)で国宝。

 今は商店・民家などに囲まれ、境内も狭くなっているが、古絵図などによれば、東西に塔をもつ薬師寺様式の伽藍配置をもった2km四方ほどの大寺だったという。
葛井寺/本堂
葛井寺・本堂

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