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河内(志紀郡)の式内社/當宗神社
大阪府羽曳野市誉田
祭神−−素盞鳴命(又は當宗氏祖神)
                                                    2011.06.05参詣

 延喜式神名帳に、『河内国志紀郡 當宗神社三座 並大 月次新嘗』とある式内社だが、今は誉田八幡宮の境内社として同社拝殿右手の植え込み内に祀られている。社名は“マサムネ”と読む。

 誉田八幡宮は、近鉄南大阪線・古市駅の北約400に鎮座し、伝応神天皇陵(恵我藻伏岡陵)のすぐ南にあたる。

※由緒
 当社の創建時期は不明だが、当地に居住していた渡来系・當宗氏がその祖神を祀ったのがはじまりという。

 今、誉田八幡宮の境内社となっているが、合祀以前の当社について、河内志(1733・江戸中期)には、
 「並大月次新嘗、誉田村の北・王水町・當宗垣内(マサムネカイト)に在り」
とあるが、この当時、どの程度の社だったかは不明。
 大阪府誌(1903・明治後期)には
 「古市村大字誉田の北方當宗垣内にあり、人家の間に夾まれたる一小祠にして社域また掌大、一株の胡枝子の社と境とを覆ふ状況なれど、宇多天皇外祖母の氏神として昔時は崇敬篤く、勅使参向して神事を行い、延喜式内の旧社なり」
として、衰頽した様が記されている。
 
 その後、明治40年(1907)11月、誉田神社(現誉田八幡宮)へ合祀されたが、それは明治末期に強行された弱小神社の統合整理政策によるものであろう。

 曾ての鎮座地・當宗垣内とは、誉田八幡宮の東約100mほどの処といわれ、社頭の案内には
 「旧地は、放生川(碓井川)と東高野街道(京街道)との交差点の北東に8uほど残存している」
とあるが、未確認。

 当社が式内・名神大社とされた由緒について、羽曳野市史(1997)には、
 「本社が名神大社としての扱いを受けることになったのは、寛平元年(889・平安前期)の宇多天皇(在位887--97)の命によってである。
 桓武天皇の第12子・仲野親王が當宗忌寸(イミキ)出身の女性との間にもうけた班子(ハンシ)女王が、光孝天皇(884--87)の後宮に入って宇多天皇を生んでいることから、宇多天皇にとって當宗氏は母方の外祖母の出身氏族にあたる。こうしたことから當宗神社は特別な扱いをうけることになった。
 當宗神社に関しては、寛平元年以前について全く史料が残されていないところからみて、官弊をうける式内社としては寛平元年からはじまったものとみてよいと思われる」
とあり、宇多天皇との血縁関係から延喜式内の名神大社に列し、勅使を派遣しての丁重な祭祀をうけるようになったという。

 その後、中世以降衰頽したため、明治末期の神社統廃合政策に際して、独立社としての存続不能として誉田八幡宮に合祀されたのであろう。

※祭神
 社頭の案内には、
 「当社の祭神は、現在、素盞鳴命であるが、当初は中部朝鮮の楽浪郡から渡来した“當宗忌寸”の祖神である山陽公を祀っていたようである」
とあるが、大阪府誌は
 「宇多天皇外祖母の氏神で延喜式に三座とあるが、祭神詳ならず。今雑社たり」(大意)
という。

 當宗忌寸とは、新撰姓氏禄に
 「河内国諸蕃(漢) 當宗忌寸 後漢献帝四世孫山陽公より出る也」
とある渡来系氏族だが、中部朝鮮の楽浪郡からの渡来だろうという。
 献帝とは後漢最後の皇帝(劉協)で、後漢滅亡後(220)、魏の文帝から山陽王に封じられ、4代目山陽王・劉秋が家族とともに殺害されて(309)嫡流は途絶えたという。末裔不詳ということから、献帝の後裔と称する渡来氏族は多いという。

 なお延喜式には三座とある、一座は山陽公としても残る二座は不明。

 今、素盞鳴命を祭神とするが、その由緒は不明。江戸時代に流行した牛頭天王を祀っていたものが、明治の神仏分離によって同じ神格をもつとされる素盞鳴命と祭神名を換えたのであろう。

當宗神社/社標
當宗神社・社標
當宗神社/全景
同・全景
當宗神社/社殿
同・社殿

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