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美具久留御魂神社
大阪府富田林市宮町
祭神--美具久留御魂大神(大国主神荒御魂神)・天水分神
    ・国水分神・弥都波廼売命・須勢理比売命
                                                       2019.07.12参詣

 延喜式神名帳に、『河内国石川郡 美具久留御魂神社』とある式内社。
 社名及び祭神名は、“ミグクルミタマ”と読む。

 近鉄長野線・喜志駅の南西約700m、駅西へ出て、鉄道と平行する国道170号線(外環状線)を南下、宮前交差点を西へ入った突き当たりにある小高い山(古墳あり)の東麓に鎮座する。

※由緒
 頂いた「美具久留御魂神社略記」には、
 「崇神天皇(人皇10代)の10年、この地に大蛇が多く出没し農民を悩ましたので、天皇は親しく妖蛇の巣窟を見られ、『これ大国主神の荒御魂の荒(スサ)ぶなり、宜しく祀るべし』と仰せられて、祀らしめられた。

 その後、同天皇の60年、丹波国氷上(ヒカミ)の人・氷香戸辺(ヒカトベ)の小児に『・・(神託・下記)・・』という神託があった。
 天皇はそれをお聞きになって、皇太子・活日入彦命(イクメイリヒコ・後の垂仁天皇)を遣わして河内国支子(キシ-当地一帯の古称)を遣わし当社を祀らせ、美具久留御魂神社と御名を称え祀られたのである。
 このお告げは、『出雲大神は大国主命であり、大国主命は山河を泳ぎ渡ってきた和爾神ワニノカミ・龍神)であり、水泳御魂大神(ミククルミタマノオオカミ)である』と、美具久留御魂大神のご神体を明らかにされたのである」
とある。


 前段の崇神10年の出来事(伝承)は古事記・日本書紀ともに記載なく(書紀--武埴安彦の反乱記事のみ)、この伝承の背景が如何なるものかは不明。

 後段・崇神紀60年の御神託とは、
 ・60年秋、天皇が「武日照命(タケヒナテル・天照大神の御子天穂日命の御子で、出雲臣等の遠祖という、建比良鳥命とも記す)が天から持参した出雲大社に収めてある神宝を見たい」と仰せられて、武諸隅(タケモロスミ)を出雲に遣わされた
 ・この時、神宝を管理していた出雲振根(イズモフルネ)が筑紫国に行っていたので、弟の飯入根(イイイリネ)が神宝を奉った
 ・筑紫から帰ってこれを知った振根は、自分の帰国をまたずに神宝を勝手に献上したとして弟を責めた
 ・その怒りは数年たっても収まらず、遂に謀略を以て弟を殺した
 ・それを知った朝廷は、吉備津彦・武渟河別(タケヌナカワワケ)を遣わして出雲振根を殺させたので、出雲臣たちは朝廷の怒りを恐れて出雲大神を祀らなくなった

 ・ところが、あるとき丹波の氷上(丹波国氷上郡氷上)の人・氷香戸辺(ヒカトベ)が皇太子・活目尊(イクメノミコト・後の垂仁天皇)に、
  「神が自分の子供に憑いて、
   『水草の中に沈んでいる玉のような石。出雲の人の祈り祭る見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡。
    水底の宝、宝の主、山河の水の洗う御魂(山河之水沐御霊)、沈んで掛かっている立派な御神の鏡、水底の宝、宝の主』
   と神託した」と報告してきた
 ・皇太子はこのことを天皇に申しあげ、天皇は勅して鏡の祭(出雲大神の祭)を再開させられた
という記録(書紀、大要)を指す。

 前段の出雲神宝献上の件は、出雲勢力のヤマト勢力への帰順・服属を示す話とも解され、振根による飯入根殺害は、帰順派と独立派との抗争を示唆するともとれる。

 また、後段の神託で、小児が“鏡が水底に沈んでいる”と詠うのは、出雲大神の祭祀を止まっていることへの人々の嘆きを、神託という形をとって語っていることともいえる。

 しかし、この一連の話は、いずれも出雲勢力圏での出来事であり、そこに当地との関係はみえない。

 上記由緒の内容はよくわからないが、大阪府史蹟名勝天然記念物(昭和2年・1927)には、
 ・伝説によれば、太古大国主命が天下を治められていたとき、この地に城があって、神武天皇の御代まで存続した。社は、その城の氏神であって出雲大社の創建より早かった
 ・この伝説はをそのまま信ずることはできないが、当社の創祀が遠く上古にあったことを想見できることである

 ・社伝によれば、太古この地は支子の茅原と呼ばれる草原で、巨蛇が多く棲息して農民を悩ませていた
 ・これを悩んだ崇神天皇は、10年幣帛を捧げて支子(キシ)の茅原に分け入り、妖蛇の住む霊窟を見て、『是れ大国主命荒魂のすさぶる所なり、宜しく祀るべし』と勅して祭祀を行わせられた

 ・崇神天皇60年、天皇は出雲大社の神宝を見たいと思し召して、使いを遣わして献上させた
   ・・・(中略・書紀崇神60年条を略記)・・・
 ・このご神託を知った天皇は、武渟河別命を出雲に、活彦命を河内の当社に遣わして祀らさせた
 ・この神託を大国主命の荒魂がなしたこととして、同72年に官祭を行い、自ら宣われた水沐御霊(ミズクルミタマ・水の恵みをうけている御魂か?)によって美具久留御霊の御名を奉った
とあり(大意、大阪府誌・大阪府全志にも同文あり)、ご神託を受け、活彦命(イクメノミコト、活目入彦命・後の垂仁天皇)を遣わして大国主命の荒魂を祀らせたのが当社の始まりというが、書紀には活彦命派遣の記述はない。

 その後の経緯として、大阪府全志には
 ・垂仁天皇11年7月 黒楯を納められた
 ・応神天皇20年 初めて社殿を修理した
 ・仁徳天皇13年 和邇池開鑿にあたり勅祭を催され 和邇大神の号を奉った(これにより、当社は「和邇の宮」とも呼ばれたという)
 ・桓武天皇・延暦7年(788) 神田として石川・古市二郡を奉った
とあるが、何れも国史等にはみえず、和邇池開鑿以外の出典資料は不明。


 この由緒に関連して、時代は下るが、書紀・仁徳天皇13年条に、「冬10月 和珥池(ワニイケ・和邇池)を造った」とあり、この和邇池は、河内名所図会(1801)に「美具久留御魂神社は喜志村和爾の池の西にあり、一名・和爾神社 今下水分神社と称す」とあるように、当社の東(近鉄線の東)にある“栗ヶ池”に比定されている(ただ発掘調査等によれば、築造は奈良時代の可能性が強いといわれ、とすれば年代的には整合しない)

 これらから推測すれば、由緒がいう“茅原の草原に巨蛇がいて農民を困らせた”というのは、当地一帯が水の少ない荒野であって、為に農民が農耕に必要な水の確保に困っていたので、ここに池・溝を掘って水利の便を図り水神を祀ったことを指すのかもしれず、仁徳朝での事蹟を神マツリの創始者とされる崇神天皇に仮託したのが上記由緒かもしれない(崇神紀にも、62年に依網池-大阪市住吉区内に比定-を造ったとある)

 これらは施政者として行うべき当然のことではあるが、そこに何故出雲の神・大国主命が登場するのかはわからない(地元には、出雲系氏族が居たとの言い伝えがあるらしいが、確証はない)
 また、式内社調査報告(1979)は、「(この由緒は)当社と出雲大社の関係が深いことを強調している」というが、それが如何なる関係かは記していない。


 当社の創建時期は、上記由緒によれば崇神天皇60年となるが、これは当社を太古からの古社とするために作られた伝承であって、これを以て創建時期とすることはできない。

 これに関連して、日本の神々3は
 ・当地から東方にかけての喜志台地上には、弥生時代中期から後期にかけての遺跡が多々あり、当社の北約2kmからは弥生末期の銅鐸も出土しており、この付近一帯には弥生時代の先住支配者(地元では出雲系氏族という)が居住していたと考えられる
 ・当社本殿の裏山には、古墳時代前期の喜志宮裏山古墳があり、嘗ては、すぐ南方の台地上には真名井原古群(前期古墳群)があった
 ・これらのことを考え合わせると、当社は弥生期から古墳初期にかけて石川流域を支配した氏族が、その祖神を祀ったのが始まりと考えられる
という。
 なお、当社裏山にある喜志宮裏山古墳とは、前方後円墳1基・円墳4基からなる古墳群の一つで、前方後円墳は
   全長:約58m 後円部径:約30m 前方部幅:約24m 円筒埴輪片出土 内部構造不明
といわれ、地元では古墳群のある裏山(旭ヶ岡とも称したという)を神体山として崇めていたという。

 美具久留御魂神社の名は国史にはみえず、文献上から創建時期を推定するのは難しいが、
 文徳実録(879)の仁明天皇・嘉祥3年(850)12月条に
  「癸酉(ミズノトトリ) 河内国和邇神の神階を進めて 従五位上を加ふ」
とあり、この和爾神が当社を指すということから(当社は和爾宮とも呼ばれた)、9世紀(平安前期)にはあったと思われる。
 なお、元弘元年(1331)正一位の極位まで上ったというが、これは南北朝の争乱で焼失した当社を楠木正成が勅命により再建し、南朝方の勅願所にしたことに伴う綬叙であろう。


 当社は、古くは喜志宮・和爾宮・下水分神社(シモミクマリ)などとも呼ばれたという。
 ・喜志宮--当地一帯の地名からくるもの(支子・キシとも記す)
 ・和爾宮--当社東に開鑿された和邇池からくるもので、当社が水に関係することを示唆する
 ・下水分神社--当社と同じ天水分神・国水分神を祀る建水分神社(タテミクマリ・千早赤坂村)を上水分神社と呼ぶのに対して、当社を下水分神社と呼んだもので、両社ともに水にかかわる神社であることを示す

 なお社伝によれば、南北朝時代、北条方の河内赤坂城攻め(1330頃)の兵火によって社殿等消失し、その後、楠木正成が勅命により再建して崇敬したといわれ、正成が千早赤坂の建水分神社(上水分神社ともいう)を氏神としていたことから、それに対して当社を下水分神社と呼んだと思われる。


※祭神
 今の当社本殿は社殿3宇から成っており、略記には
  中央社殿--美具久留御魂大神(大国主命荒御魂神)
  左社殿---天水分大神(アメノミクマリ)・水波廼米大神(ミズハノメ)
  右社殿---国水分大神(クニリミクマリ)・須勢理比売大神(スセリヒメ)
となっている。

 ただ延喜式によれば、当社の祭神は一座とあり、中央社殿に鎮座する美具久留御魂神が本来の祭神かと思われる。

 *美具久留御魂大神
 由緒に、“ご神託にいう水沐御魂(水の恵みをうける御魂)に因んで美具久留御魂との御名を奉り”というように、美具久留御魂の“ミズクル”が水に因んだ呼称であり、当社が下水分神社と呼ばれたことから、当地一帯の水を司る神として祀られたと思われるが、それが大国主命荒魂とされる所以は不明。

 *天水分大神・国水分大神
  古事記・神生み段に、
   「イザナギ・イザナミ 国生みを終へて更に神を生みき。・・次に水戸(ミナト)の神、名は速秋津日子神(ハヤアキツヒコ)・速秋津姫神(ハヤアキツヒメ)。この神、河海によりて生みし神の名は、・・・天水分神・国水分神・・・」
とある神。
 水分(ミクマリ)とは水配り(ミズクバリ)の意で、分水嶺にあって農業用水の配分を司る神ということで、旱天に降雨を祈る祈雨の神ともされる。

 *水波廼米大神
  古事記・神生み段に、火の神・カグツチを生んで病んだとき、
   「次に尿(ユマリ)に成りし神の名は弥都波能売神・・・」
とある神で、農業に必要な灌漑用水を司る神という。

 *須勢理比売大神
  素盞鳴命の娘で大国主の后という女神で、当社との接点はないが、美具久留御魂神が大国主の荒御魂とされることから、その后神を併せ祀ったと思われる。


※社殿等
 宮前交差点から西へ向かう道路の突き当たりに 注連縄を渡した〆鳥居が、その右前に美具久留御魂神社との石標が立つ。


美具久留御魂神社・〆鳥居 
 
同・鳥居(奥に下拝殿がみえる)
 

 当社の拝殿は、下拝殿・上拝殿の二つがあり、
 参道を進み、最初の石段を上った処に下拝殿(入母屋造・瓦葺)が、
 更に長い石段(途中の踊り場に鳥居が立つ)の上に上拝殿(唐破風向拝を有する切妻造平入り・瓦葺・四方吹き通し)が建つ。

 
同・下拝殿前の石段

同・下拝殿(正面) 

同・下拝殿 

同・上拝殿への石段 

同・上拝殿(正面) 
 
同・上拝殿

 上拝殿に接するように、南北に長い塀が延び(中央に神門がある)、塀に区画された背後が本殿域で、その中央に本殿が東面して鎮座する。
 本殿は、塀の格子の間から覗いたところでは、唐破風・千鳥破風を有する切妻造(桁行:五間、梁間:二間)・平入りのようだが、木々に邪魔されて全貌はみえない。

 
同・本殿域正面(北側部分)
(中央、木の右下の屋根が本殿、その右の屋根は皇大神社)
 
同・神門

同・本殿
 

◎攝末社
 本殿域内、本殿の右(北側)に3社(本殿側より、皇大神社・郡天神社・利雁神社)、左(南側)に2社(本殿側より、南木神社・熊野貴平神社)が鎮座する。(説明は式内社調査報告による)
 ・皇大神社(コウタイ)--天照皇大神・大物主太神
   別名・支子大神宮・河内大神宮・支子神明宮ともいう。嘗ては本殿後ろの山に鎮座していたという

 ・郡天神社(グンテン)--菅原道真
   明治40年、神社統廃合令によって西浦村の村社・郡天神社(菅原道真・大国主命・事代主命)を合祀したもの

 ・利雁神社(トカリ)--天児屋根大神・八幡大神
   明治40年、神社統廃合令により、西浦村大字尺度の式内・利雁神社を合祀したもの
   戦後、旧鎮座地住民の要請により旧社地に複社している(別稿・利雁神社参照)

 
皇大神社
 
郡天神社
 
利雁神社

 ・南木神社(クスノキ)--楠木正成公・楠木正儀公(正成の3男、正成・正行亡き後の楠木氏頭領)
   応永11年(1404)楠木正秀(正儀の次男・正成の孫)が創立したもので、天文10年(1541)楠木正儀を合祀したという
 上記略記に、「南北朝時代には南朝歴代のご信仰も厚く、また楠木氏は上水分社(建水分神社)と共に当社を下水分社と称し、氏神として信仰したので、戦乱の間にも朝廷は神社に屡々参詣されたり、社殿を造営しなさって治世の安泰をお祈りなされた」とあり、
 当社が南朝の崇敬篤く、また楠木氏と関係が深かったことから、南北朝争乱終結後、楠木氏が祀ったものと思われる。

 ・熊野貴平神社(クマノキヒラ)--伊邪那美大神・須佐之男太神
   古くは熊野神社・貴平神社の2社別々の社だったようで、
   熊野神社(伊弉諾命・素盞鳴命)ーー大宝元年(701)勅により行基が創立したとも、天平年間の創立ともいう
   貴平神社(須佐之男神・宇迦之御魂神)--文徳天皇嘉祥3年(850)創立という 


 左:熊野貴平神社
 右:南木神社

 ・白雲宮(シラクモ)--神武天皇・媛多々良五十鈴姫皇后・後醍醐天皇・同中宮禧子・同後中宮珣子
              ・後村上天皇・同嘉吉門勝子皇后・長慶天皇・同待春院美子皇后・後亀山天皇・同中宮信子
  本殿域の右外に鎮座する小祠(参詣時気づかず写真なし)
  応永8年(1401)北山宮の令旨をうけて楠木正秀の創立で、南朝の霊廟として歴代皇室から崇敬をうけ、天文8年(1536)には後奈良天皇の行幸があったという

 ・支子稲荷神社(キシイナリ)--宇迦御魂大神
  正面石段を下りずに、境内右手からの緩やかな坂道を下った途中にある稲荷社で、朱塗り鳥居奥の高所の覆屋の中に小祠が鎮座する


支子稲荷社・鳥居 
 
同・社殿 


 式内社調査報告によれば、上記以外に次の小社があったというが、今はみえない。

 ・青箭宮(アオヤ)--大国主命・瑞眞髪高鈴彦命・尊泰親王・尊秀王・忠尊王・忠裕王・忠禛王・橘諸兄・青谷正祐・楠正虎(南朝系の皇子を中心とする社)
 ・紫天神社--菅原道真
 ・富栄神社(俗称・恵比須社)--事代主命
 ・旭岡神社(俗称・子安神)

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