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 錦 織 神 社
大阪府富田林市宮甲田町9-46
祭神--建速素盞雄命・品陀別命・菅原道真公
                                                      2019.07.12参詣

 近鉄長野線・川西駅の北西約400m、駅の北改札を出て、目の前の東西道路を左(西)へ約200mほど進んだ先にある信号(押ボタン式)の北側に鳥居が立ち、長い参道が北へ延びている。

※由緒
 頂いた「錦織神社 由緒略記」によれば、
 「当社の創建年代は詳かでないが、昭和10年(1935)国宝本殿大修理の際、本殿敷地の土中から古社殿に使用されていたと推定される鎌倉時代の古瓦・大獅々口一対、また藤原時代の物と推定される鎧瓦字瓦が多数出土したことによつて、藤原時代(9世紀後半から10世紀)以前の創建であることが裏付けられた。 
 又、出土した古瓦獅々口より創建当時の当社社殿は現社殿より大きい建造物であることも推定される。

 当地方は古来“錦部郡”と称し、大和朝廷に通ずる要路を締めていために、浪速京より水路を主とする交通の要点にもなって、早くから大陸文化が移入され、和名抄にみえる余戸郷・百済郷との称もあり、帰化人の群落をなしていた。
 又、『爾之古里』(ニシノコリ)とも称され、後に錦部郡となったものであるが、古代においては百済より帰化した諸藩(蕃の誤記か)が広く土着して綾錦織を朝廷に奉り、文化向上に貢献したことが伺われる。

 当社の鎮座地は、錦部郡の最北端に位置し、郡の咽喉を扼し、社殿は南面して全部を一望の内に睨せられる要所にあり、且つ郡内の水流も亦此処一所に集まる地であったので、古来から人呼んで水郡(ミズコオリ)の郷と称え、錦部の名に訓の通ずる所から、何時の頃からか水郡と変遷し、当社の社名も“水郡天王宮”と呼称されるようになった。
 又、この宮を錦部の一ノ宮とも、或は河内の三水分の一つとして“上の水分”と称えられたようである。即ち、美具久留御魂神社を下水分と、建水分神社を上水分と呼称されたことは古老の口碑に残っており、当社は往古からの大社であったことがうかがわれる。・・・中略・・・
 明治5年(1933)郷社に列し、同40年(1907)神饌幣帛料の共進神社に指定されたのを機会に、旧称錦織神社に復活した」
とある。(境内には簡単な由緒を記した案内板が数種立っている)

 当社は式外社のためか資料は少ないが、大阪府誌(1903)・大阪府全志(1922)・大阪府史蹟名勝天然記念物(1927)等の資料ををまとめると、
 ・当社は川西村大字甲田の西方字宮林にある
 ・石灯籠に水郡宮と刻したものがあるように“水郡神社”と称し、また“爾吾利宮天王”とも称した。水郡・爾吾利はニゴリと読むが、これはニシゴリの略であろう
 ・いまの主祭神は素盞雄命だが、古は牛頭天王を祀り、大字甲田・彼方・新家・廿山の産土神であった
 ・創建時期は不祥だが、社記によれば後村上天皇・正平18年の再建という(由緒略記には「正平18年12月創建」とある)
 ・社地は南北朝時代(1334--91)・寛正応仁時代(1460--77)に戦場となった廿山の一部だが、幸いにして社殿は兵火を免れて今に至っている
 ・明治5年(1872)に郷社となり、同40年(1907)7月、社名を爾吾利神社から錦織神社に変更した
となる。

 当社は、渡来系氏族・錦織氏一族に関係する神社のようで、日本の神々3(2000)には
 「書紀・仁徳天皇41年3月条に、『酒君 百済系の錦織首許呂斯の家に逃げ匿る。・・・』の記事があるが、この辺りにはおそらく5世紀頃から、百済系の錦織首が居住していたようである」
とある。
 なお、錦織氏は本来、錦の織物を織る技術を持って朝廷に仕えた渡来系氏族という。

 この錦織氏について、新撰姓氏録(815)には
 「河内国諸蕃(百済) 錦織連 三善宿禰同祖 百済国速古大王(13代近肖古王の別名)之後也」
とあり、9世紀前半頃まで、一族の人々が当地一帯に居住していたが、後半になると、一部の人々が平安京に移住したらしいという。
 なお国史上(書紀・続日本紀他)にも、錦織連○○として数人の名がみえている。


※祭神
 由緒略記には
  主神    品陀別命
     中央 建速素盞鳴命
         菅原道真公
  配祀  天照皇大神・伊弉冉尊(イザナミ)・倉稲魂神(ウカノミタマ・穀物神)・天之水分神(アメミクマリ・水神)・高龗神(タカオカミ・水神)
とある。

 今の祭神は三座となっているが、延喜式には祭神一座とあり、中央に祀るスサノオがこれに当たるのだろうが、当社が嘗て「水郡天王宮」との呼称からみて、防疫神・牛頭天王(ゴズテンノウ)を祀っていたが、明治初年の神仏分離によって牛頭天王が仏教色が強いとして排斥されたことから、同じ神格をもつとされるスサノオに変えられたものであろう。
 品陀別命(応神天皇・八幡神)・菅原道真の二座は、後年、これらの神が流行としたのに合わせて勧請されたと思われるが、その経緯・時期等は不明。

 ただ、このゴズテンノウが当社本来の祭神かといえば、大いに疑問があり、
 ・当地に居住していた渡来系氏族・錦織氏がその祖神を祀ったのが当社の始まり
 ・或いは、当社が嘗て水郡神社と称していたこと、今の配祀神に、水神である天之水分神あるいは高龗神が祀られていることからみて、本来は当地一帯の生活・農耕に必要な水を司る水神を祀ったが、牛頭天王を祀るに際して之を配祀神へとおとしめた
 ・或いは、当初は錦織氏の祖神を祀っていたが、これに水神信仰が加上され、更に牛頭天王へと変化し、更に明治に入って素盞鳴命へと変遷した
とも考えられる。


※社殿等
 押ボタン式信号のある交差点の北東角、樹木に囲まれて鳥居が立ち、その左前に「郷社 錦織神社」との石標が立つ。
 鳥居を入ると、両側に灯籠が並んだ長い参道が北へ向かって延びる(約200m)


錦織神社・参道入口
(右に鳥居がみえる) 
 
同・鳥居
 
同・参道

 参道を過ぎた正面に、横に長い入母屋造・瓦葺きの割拝殿(通り抜け可能な土間がある拝殿)が建ち、拝殿の奥に境内が広がる。
 境内正面、中央の神門(薬医門)から左右に延びる朱塗りの塀の中が本殿域で、その中央に朱塗りの本殿が鎮座し、その右(東)に春日社が、左(西)に天神社の小祠が鎮座する。

 
社殿配置図
 
同・拝殿

同・本殿域社殿
(由緒略記から転写)

 本殿域中央に南面して鎮座する本殿(国重要文化財)について、由緒略記には
 「桁行三間 梁間二間 入母屋造 正面千鳥破風付 向拝三間 軒唐破風付 桧皮葺き」
とあり、境内の案内には
 「本殿は入母屋造りとなっており、軒唐破風に千鳥破風を乗せた造形美に富んだ屋根は、室町時代を代表する建物として希少価値が高く、後に国宝日光東照宮の拝殿にも採り入れられています。
 本社殿は明治45年特別保護建造物、昭和8年に国宝の指定を受け、戦後の昭和25年8月、国宝査定基準の変更に伴い、本殿と両摂社が重要文化財となり、現在に至っています」
とある。

 
本殿域・前面
 
本殿域・正面

本殿・正面
(神門より) 

 本殿の左右には摂社2社(国重要文化財)が鎮座する。
  左(西)--天神社
   祭神--火産霊神(ホムスヒ)・大国主神・事代主神(惠比寿神として)
   二間社流造・檜皮葺き
  右(東)--春日社
   祭神--春日大明神・熊野速玉神
   二間社流造・檜皮葺き
 また、境内の案内には、
  「現在の摂社は、平成修理の際に発見された棟札により、文明12年(1480・室町中期)の建物であることが判明した」
とあるが、これらの諸神が、如何なる由緒を以て勧請されたのかは不明。

 なお、境内西側に末社2社、弁天社・金刀比羅宮の小祠が鎮座するが、勧請由緒等詳細不明


摂社・天神社(本殿の左) 
 
摂社・春日社(本殿の右)

末社(左:弁才天社、右:金刀比羅宮) 

 なお、境内右手には、樹木に囲まれて遙拝所がありその南に御輿舎がある。

*付記
 当社付近には、昔の東高野街道が通っていたようで、鳥居前交差点の角に、
 「東高野街道は、かつて京の都から高野山までの参詣の陸路として利用されました、
 京都府を出発し、大阪府に入ると生駒山地の西側の麓を南進し、大和川を渡り、柏原市や羽曳野市を経て富田林市に入り、富田林市を南北に縦断した後、河内長野市にて西高野街道と合流しています」
との案内板があるが、この辺りの細道路は輻輳していて、どの道が東高野街道の跡かはわからない(図面なし)

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