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野 中 神 社
大阪府藤井寺市野中2-5
祭神--彦国牽命・素盞鳴命
                                                         2019.07.12参詣

 近鉄南大阪線・古市駅の北西約900m、駅北の国道170号線・白鳥北交差点から北西へ進み、野中東交差点を左折して県道31号線を西へ、野中交差点手前の道路南側にみえる小高い丘(野中宮山古墳)の上に鎮座する。 式外社

※由緒
 当社の由緒等を記した資料はないが、境内にある「改築記念碑」に
 「当社は、貞観17年(875)8月戌寅に従五位下を授けられた野中郷鎮守の神として住民の尊崇の厚いお宮で、祭神は彦国牽命と素盞鳴命であります。
 明治42年(1909)以来、辛国神社に合祀されて参りましたが、昭和25年(1950)に住民の強い要望と浄財によって現在地に複社されました。
 その後、老朽化したため、平成4年(1992)に改築されました。(以下略)
とあるのみで、創建由緒・時期等の記述はない。

 当社に関する古資料として
 ・河内志(1733)
   (丹南郡)貞観17年(875)8月従五位下を授く 野上村に在り 今亀池弁才天と称す

 ・大阪府名所旧跡天然記念物(1927)
   野中神社、もとは大字野中字足塚に鎮座せる国史に記載されたる旧社なり。
   その祭神に就いては、大日本史神祇志(1893)には『葛井・船・津氏の祖か』となせども、恐らくは地理志料(1902)記載の如く、野中氏の祖廟とする方近し。
   姓氏録(815)左京皇別に『彦国押人命之後也』とあり、
   神社は『清和天皇貞観17年8月27日に、授河内国正六位野中神従五位下』の記事見ゆ。
   その所在に関しては、古書多く丹南郡野上村亀池弁才天となせども、神祇志料(1871)には
    『按河内志に、丹南郡野中村の西、野上村にありといへども、今 本村の殿泉寺(現法泉寺・羽曳野市野々上3丁目、脇侍として弁才天像あり)の鎮守とし、寺内に仏像を安置せるのみにて、神社としてなし』
と之を駁(否定)せり。
   而して、明治5年(1872)仁賢天皇埴生坂本陵の外側字足塚と称する古墳上に在りし神社を村社野中神社となし、同41年(1908)大字岡の辛国神社に合祀せり。現今にては素盞鳴命を以て祭神となす。

 当社についての国史上での記録は、三代実録(901)に記す
  「貞観17年8月28日 河内国正六位上 野中神に従五位下を授く」
との記録で、10世紀以前からあったのは確かといえるが、その時点の当社が河内国の何処にあったのかは不明。

 今の当社は、藤井寺市野中2丁目にある野中宮山古墳(足塚ともいう)の後円部頂上に鎮座するが、此処には古く野中山満願寺との寺院(真言宗)があったといわれ(奈良時代の創建といわれ、明治初年の神仏分離により廃寺)、河内名所図会(1801)には
 「満願寺  野中村にあり 野中山と号す 真言宗 聖徳太子御建営の地なり。・・・鎮守・牛頭天王 此地の産土神なり」
とあり、当社は江戸時代には満願寺の鎮守として古墳上に鎮座し、当地の産土神として牛頭天王を祀っていたらしい。

 その後、明治5年(1872)に、古墳上にあった牛頭天王を祀る神社を野中神社に比定したのが当社だが、その比定根拠は不明。

 なお当社は、明治39年の神社統廃合令によって、同41年、近隣の辛国神社(藤井寺市藤井寺)に合祀されたが、その後昭和25年に旧社地(現在地)に複社したという。

 当社の辛国神社合祀時代の当社について、大阪府全志(1922)には
  「御陵の外に古墳多し。その最も大なるものは足塚及び挟山なり。両塚ともに前方後円にして濠池を繞らし雑木茂生せり、
   前者は九段四畝弐拾参歩の広さを有し、一に青山又は豆塚とも呼び、大字岡の辛国神社に合祀せられたる旧野中神社の旧地たると共に満願寺のありし所なり」
とある。


※祭神
  彦国牽命(ヒコクニクル)・素盞鳴命(スサノオ)

 彦国牽命とは、第8代孝元天皇(大日本根古彦国牽天皇・オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)を指すと思われるが、その実在性は疑問とされる天皇で、当社が祭神とする所以は不明。また改築記念碑以外にこれを祭神とする資料はない。

 大阪府史蹟名勝天然記念物は「現今は素盞鳴命を以て祭神となす」というが、これは江戸時代に疫病除けの神として流行した牛頭天王を祀っていたが(河内名所図会)、明治初年の神仏分離によって牛頭天王が仏教色が強いして排斥されたことから、同じ神格をもつ素盞鳴命に変えられたもので、当社本来の祭神ではない。

 資料によれば、
 ・葛井氏・船氏・津氏の祖神説--大日本史神祇志
  この3氏は、応神天皇16年に百済の学者・王仁(ワニ)とともに論語・千字文を伝えたという辰孫王(百済王の一族)の後裔で、辰孫王の3代後になって葛井氏・船氏・津氏の3氏に別れたという。
  日本後紀(841)桓武天皇・延暦18年(799)3月条の菅野朝臣真道等の上奏文に、
  「私たちの先祖である葛井・船・津三氏の墓地は、河内国丹比郡の野中寺以南にあります。・・・」
とあるように、この3氏・特に船氏は当地一帯に居住していたといわれ、その船氏がその祖神を祀ったのが当社というもの。

 ・野中氏の祖神説--地理志料
  野中氏とは、新撰姓氏録に
  「右京皇別 野中 天足彦国押人命之後也」
とある氏族で、天足彦国押人命(アメノタラシヒコ クニオシヒト)とは孝昭天皇(5代)の御子で孝安天皇(6代)の兄、和爾氏らの先祖という。
 ただ、この野中氏と当地との関係を示唆する資料はなく、地名と氏名との一致から、野中氏がその祖を祀ったとしたのかもしれない。

 ただ、この両説共にその根拠となる史料はなく、当社祭神は何れとも決めがたい。


※社殿等
 当社は野中宮山古墳の後円部に鎮座するが、社殿へは、古墳南側の野中宮山児童公園から入る。

 公園の西寄りに当社鎮座地である墳丘への入口があり、緩やかな坂を上った右側(東側)、木立の中に鳥居が立つ。

 
野中宮山公園入口
 
古墳墳丘への入口
 
野中神社・鳥居

 鳥居をくぐり石段を上った上に、唐破風付き向拝を有する切妻造・瓦葺きの拝殿が、その奥、簡単な瑞籬に囲まれて一間社流造・銅板葺きの本殿が、西面して鎮座する。

 
野中神社・拝殿
 
同・本殿
 
同・本殿側面


 因みに、当社が鎮座する野中宮山古墳は
  全長:154m  前方部幅:90m  高さ:10.1m 後円部径:100m 高さ:14.1m 周濠あり(北側のみが現存)
 前方部を西に向けた前方後円墳で、埴輪等の出土状況から5世紀前半の築造(前期古墳)と推測されている。

 傍らの案内には、
 「古市古墳群のほぼ中央、洪積段丘面に造られた古墳で、前方部は西を向いており、周濠は墳丘に沿って前方後円形に巡っています。墳丘のくびれ部には張り出しがあり、また葺石と円筒埴輪・鶏形埴輪が認められます。
 埋葬施設は不明ですが、後円部頂上に板状割石が散乱することから、竪穴式石槨の可能性があります」
とある。
 削平された前方部の西端には藤井寺南幼稚園分園があり、周囲には民家が密集していて、全容を見ることは困難。


野中宮山古墳・航空写真
(後円部の林の中に神社が鎮座する) 
 
同・前方部南側(児童公園から)

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