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河内(丹比郡)の式内社/大津神社
大阪府羽曳野市高鷲8丁目
祭神−−素盞鳴尊・奇稲田姫命・天日鷲命
                                                            2011.04.07参詣

 延喜式神名帳に、『河内国丹比郡 大津神社三座 鍬靫』とある式内社。

 近鉄南大阪線・高鷲駅の南約200m、駅の西側を走る府道191号線(島泉伊賀線)を南下、二つ目の交差点(信号あり)の南西部に鎮座する。

※由緒
 当社由緒略記によれば、
 「応神天皇の頃(4末〜5世紀初か)、この地方には、百済貴須王(近仇首王)の子孫といわれる“葛井氏・船氏・津氏”の3氏が勢力を張っていた。この3氏のうち津氏一族がこの地を卜して“大宮山”と称し、自分たちの守護神を奉斎したことが大津神社の発祥だろうというのが古来からの定説である」
とある。

 葛井・船・津氏とは、応神朝に来朝したと伝えられる百済辰孫王の後裔氏族で、続日本紀・桓武天皇延歴9年(790)7月17日条に記す、津連真道らの上表文に
 「真道らの本来の系統は百済王・貴須王(キス・近仇首王ともいう)より出ている。・・・・応神天皇のとき、貴須王が天皇からの有識者招聘をうけて、孫の辰孫王(シンソン)を入朝させた。天皇はこれを喜び、皇太子の師とされた。仁徳天皇は長男・太阿郎王(タアラ)を近侍とされ、・・・その孫・午定君の3人の子・味沙・辰爾・麻呂のとき別れて3姓となり、各々その所職に因りて氏をなした。葛井・船・津等即ち是なり。・・・」(大意)
とある。
 この上表文によれば、その系譜は
   始祖・都慕王(ツモ・百済王)・・・貴須王−辰斯王−辰孫王(知宗王)−太阿郎王−玄陽君−
                              −塩君(午定君)−|−味散(味沙君)−膽津(白猪史)→葛井氏
                                         |−王辰爾(智仁君)→船史→船氏
                                         |−麻呂(牛)→津史→津氏→菅野氏
となるが、3姓に別れたのは6世紀後半とされ、その後、それぞれが史部(フヒトベ−書記官)として朝廷に仕えたという。

 正史上における津史(ツノフヒト)の初見は、書紀・敏達3年(573)に記す、
  「冬十月十一日、船史王辰爾の弟、牛に詔して、姓を賜って津史とされた」
の記事で、その後、淳仁朝・天平法字2年(758)に連(ムラジ)の姓を賜り、桓武朝・延歴9年(790)、勅により菅野朝臣の姓を賜っている(続日本紀)
 新撰姓氏禄には、これら3氏について、
 ・右京諸蕃(百済) 葛井宿禰  菅野朝臣同祖  塩君男味散君之後也
 ・右京諸蕃(百済) 船連     菅野朝臣同祖  大阿郎王三世孫智仁君之後也
 ・右京諸蕃(百済) 津宿禰    菅野朝臣同祖  塩君男麻呂君之後也
とある。なお、本貫が右京諸蕃となっているのは、清和天皇・貞観5年(863)、その本拠を河内国から右京に移したことによる(三代実録)

 これら3氏が当地一帯に勢力を張っていたことは、日本後紀(841)・延歴18年(799)3月条に記す、菅野朝臣真道等から出された
 「己等の先祖、葛井・船・津3氏の墓地は、河内国丹比郡の野中寺の南にありて寺山と曰ふ。・・・」
との上表文からみて確かのようで(野中寺とは、当社の南東約1.3kmにある古寺で、聖徳太子の命を受けて蘇我馬子が建立したとの伝承をもつ)、日本の神々3(大津神社の項・2000)には、
 「当社の創建年代は不明であるが、津連(菅野朝臣と改姓)の氏神として、古くから丹比郡丹下郷の台地上に存在していたものと考えられる」
とあり、諸資料とも異論はみえない。

 その後の経緯として、由緒略記には、
 「大津神社は津氏一族の守護神として創祀されたが、津氏一族が朝廷に召されて大和に移住し、また時代の推移に伴って氏族制度が衰退していくと、中世以降には、この地方9ヶ村の人々の氏神として受け継がれ、“河内の大宮”と称えられた」
とある。“大和に移住した”とあるが、姓氏禄には“右京諸蕃”とあり(大和諸蕃にはみえない)、9世紀(中葉頃か)に本拠を平安・右京に移したというから、誤記かもしれない。

※祭神
 当社の由緒からみて、その祭神は津氏一族あるいは葛井・船・津3氏共通の祖神を祀るというのが自然で、
 ・辰孫王の後裔が、その祖神を祀る−−大阪府史蹟名勝天然記念物(1927)
 ・辰孫王の曾孫・牛定君の三子・味沙・辰爾・麻呂を祀る−−神祇志料(1871)・日本地理志料(1966)
 ・塩君・津連祖神−−神名帳考証(1733)
 ・大津乃命か−−神社覈録(1870)
などがみえる。神名帳に三座とあることからみて、辰孫王の後裔である味沙・辰爾・麻呂とみるべきか。

 今の祭神は、素盞鳴尊(スサノヲ)・奇稲田姫命(クシイナダヒメ−スサノヲの正妃)・天日鷲命(アメノヒワシ)とし、大山咋命(オオヤマクイ)・菅原道真を配祀している。

 スサノヲについて由緒略記には、御神徳として記紀によるスサノヲの事績を略記し、疫病災難の鎮圧・農耕殖産などの神で、その妃・クシイナダヒメは稲作を司る女神・夫婦和合・子宝安産の神などととしているが、一方、由緒の項には
 「その後、仏教の隆盛に伴い、本地垂迹説に基づいて“牛頭天王社”(ゴズテンノウシャ)と称し、・・・広く世の人々から『北宮の牛頭(ゴズ)さん』と称えられ、親しまれた」(大意)
とある。
 ゴズテンノウとは、インドの祇園精舎の守護神との伝承はあるものの、その本姿は強烈な疫病神とされるが、逆に、これを祀ることで疫病除け・災難除けに験があるとして、病理理論・衛生観念などが未発達だった江戸時代(あるいはそれ以前から)に疫病などを除けてくれる流行神(祇園信仰の原点)として広く信仰され、各地にこれを祀る神社は多い。
 しかし、明治初年の神仏分離に際して邪神として排斥されたため、蘇民将来伝承(備後国風土記)などで同じ防疫神とされるスサノヲに祭神名を変えられている。当社もその一つで、今のスサノヲおよびその妃・クシイナダヒメになったものであろう(曾てはゴズテンノとその妃・ハリサイジョ及びその御子神を祀って三座としていたかもしれない)

 アメノヒワシとは、記紀の天の岩屋戸神話のなかに神事に用いる和弊(ニギテ)を作った神で、その孫が阿波国に渡ったことから阿波の忌部氏の祖神とされる神で、当社とは係わりはなく、日本の神々3には、
  「丹比高鷲原の古名に因んで天日鷲命を配祀したらしい」
とある。祭神を三座とするため、古地名との類似を理由に持ちこまれた神であろう。

 配祀の2座は、明治末期の神社統廃合により、明治40年に近傍各処から合祀されたもので、
  ・オオヤマクイ−−大字丹下・日吉神社の祭神
  ・菅原道真−−大字東大塚天神山の菅原神社の祭神
という。他にも合祀された神社があったが、戦後、分離して旧地に戻ったという。

※社殿等
 当社東側を南北に走る大通りに面して鳥居が立ち、参道の奥、境内西寄りに拝殿(入母屋造・瓦葺)、その奥に本殿が建つ。資料によれば、本殿は中山造・檜皮葺という(式内社調査報告)。中山造とは入母屋造妻入で唐破風付きの向拝を有する神殿様式というが、周りを樹木に覆われていてよく見えない。

大津神社/鳥居
大津神社・鳥居
大津神社/拝殿
同・拝殿

 境内には、末社として
社殿左に大宮戎社、右手奥に大宮稲荷社、境内右手に大宮弁天宮(八角堂)・平和之宮(戦没者を祀る)がある。

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