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河内(志紀郡)の式内社/志疑神社
大阪府藤井寺市大井3丁目
祭神−−素盞鳴命
                                                          2011.04.07参詣

 延喜式神名帳に、『河内国志紀郡 志疑神社』とある式内社。

 近鉄南大阪線・土師ノ里駅の北西約1.1km。同駅から国道170号線を北上、大和川に架かる河内橋南詰めより西へ約600mの住宅地内に鎮座する。

※由緒
 当社にかかわる資料は皆無に近く、境内にも何らの案内もなく創建由緒・年代など不詳だが、式内社調査報告(1979)によれば、
 「大阪府神社明細帳(1971)によれば、創立平安時代の初期、由緒詳かならずと雖も、式内の旧社にて、河内名所絵図に『大井村にあり。延喜式に出て、今天王と称す。此の地の産土神なり』いう。又、大阪府誌等にも記載せらる。明治5年村社に列し、明治40年10月黒田神社に合併せらる、としている」
とある。
 その後、昭和21年6月に旧社地に帰り、宗教法人として分離独立して今に至る、という。 

※祭神
 今の祭神は素盞鳴命(スサノヲ)となっているが、江戸時代の河内志(1733・江戸中期)及び河内名所図会(1801・江戸後期)には、
   「大井村に在り。今、天王と称す」
とある。
 江戸時代までは防疫神・牛頭天王(ゴズテンノウ・防疫神)を祭神としていたものが、明治の神仏分離により、ゴズテンノウが邪神として排除されたため、蘇民将来伝承(備後国風土記)で同一神とされる素盞鳴命に変更され、現在に至るものと思われる。

 祭神がゴズテンノウとされる以前、当社本来の祭神に関する資料はないが、社名の志疑が郡名・志紀に由来するとすれば、この辺りに居住していた志紀氏にかかわる祭神と考えられ、河内国式神私考(発刊時期不明)には
  『神八井耳命』
とあるという(式内社調査報告・1979)
 これは新撰姓氏禄にある、
  「和泉国皇別 志紀県主 神八井耳命之後也」
を受けたものだが、志紀氏には、
  「和泉国神別(天神) 志紀県主 饒速日命七世孫大売布之後也」
とする系列もあり、当地に関係する志紀氏を神別・皇別2氏いずれとみるかによって、祭神もニギハヤヒ・カムヤイミミのどちらかとなる。同報告は、“郡名を冠した社名から推考してカムヤイミミが有力”とみているが、社名・志疑を郡名・志紀と同じとみたものだろうが、よくわからない。

 これに対して、
 「7世紀から8世紀にかけての辺りに有力氏族が見当たらないが、当地は渡来系の技術者集団が居住していた地域の一つに考えられており、当社は渡来系の人々が祀った神社である可能性が大きい」
ともいう(日本の神々3所載・志疑神社・2000)

 いずれも根拠薄弱で、当社本来の祭神は不明とするのが妥当であろう。

※社殿等
 境内東の鳥居をくぐると、境内右手(北側)に拝殿(入母屋造・瓦葺)、その奥、白塀に囲まれた神域内に本殿が、いずれも南面して鎮座するが、塀が高く且つ樹木に囲まれていて本殿の詳細は不明。

志疑神社/鳥居
志疑神社・鳥居
志疑神社/拝殿
同・拝殿
志疑神社/本殿
同・本殿

◎末社
 社殿の左手(西側)に稲荷社と薬師堂が並ぶ。
 稲荷社・朱塗りの鳥居には「正一位 天社相殿稲荷大明神」とある。2社を合祀するらしいが、天社が何を意味するのかは不明。

 境内南西にある「常楽山薬師堂」(俗称・“大井のおやくっさん”)の堂前案内には、今から約350年前(江戸中期)の建立とある。
 この薬師堂と当社との関係、境内にある由緒など不明だが、当地の古地名を“大井村字薬師”とするのは、この薬師堂の存在からか。 

末社・天社相殿稲荷大明神

常楽山薬師堂

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