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河内(志紀郡)の式内社/志貴県主神社
大阪府藤井寺市惣社1丁目
祭神−−神八井耳命
配祀神−−天照大神・春日四神・住吉四神
                                                          2011.04.07参詣

 延喜式神名帳に、『河内国志紀郡 志貴県主神社 大 月次新嘗』とある式内社。社名はシキアガタヌシと訓む。

 近鉄南大阪線・土師ノ里駅の北北東約600m。駅の西端を南北に走る国道170号線を北へ、3ッ目の信号を東へ約300m進んだ北側の住宅地内に鎮座する。允恭天皇陵のすぐ北に当たる。

 大和川と石川の合流点西側の当地一帯は、南から延びる羽曳野丘陵の北東端部にあたり(標高20〜25m)、当社の東約300mにある国府遺跡(コウイセキ)は、縄文・弥生時代を中心に石器時代から室町時代にかけての複合集落遺跡として知られ、石器・縄文土器・弥生土器をはじめとして100体近くの埋葬人骨が出土している。

 また律令時代には、当地付近に河内国国府が置かれたことから、鳥居右側の社標脇に「河内国府址」と刻した石標が立っている(河内国設置は7世紀)


志貴県主神社/河内国府址の石碑

※由緒
 社頭に掲げる縁起によれば、
 「大和時代の初期の頃、柏原付近から南の道明寺付近にかけての肥沃な水田地帯は、大和朝廷の直轄地として“志貴の県”(シキノアガタ)といわれ、これを管理する豪族は神武の長子・神八井耳命(カムヤイミミ)を始祖とする志貴県主(シキノアガタヌシ)及びその同族である志貴首(シキノオビト)であったため、これらの豪族たちが本貴地に祖神を祭る氏神として創建したものが、この神社であると考えられている」
とあり、諸資料とも異論はみえない。

 志貴県主とは、新撰姓氏禄(815)に、
 「河内国皇別  志貴県主  多同祖  神八井耳命之後也」
 「河内国皇別  志貴首   志貴県主同祖  神八井耳命之後也」
とある氏族で、古事記・雄略記に
 「天皇が生駒山を越えて日下へ来られたとき、山の上から国内をご覧になると、屋根に堅魚木(カツオギ)をつけた“志貴の大県主”の大きな屋敷が見えたので、“天皇の宮殿に似せて造っている”と怒って家を焼こうとされた。それを見た大県主は恐れ謹んで贈り物を献上し詫びたので、天皇は焼くのを止められた」(大意)
との伝承があることから、5世紀後半頃(雄略は、478年宋に遣使した倭王・武に比定されている)には志貴県主一族が当地を支配していたことが窺われる。
 当社もその頃から存在したのかもしれないが、その創建年代は不詳。
(姓氏禄には、上記氏族とは別に、大和国神別に志貴連が、和泉国神別に志貴県主が見えるが、両氏ともニギハヤヒを遠祖とする物部氏系氏族で、カムヤイミミを祀る当社とは関係ないらしい)
 また三代実録(901)・清和天皇・貞観4年(862)条には、
 「河内国志紀郡の人で、外従五位下であった志貴県主貞成・福依等3人が宿禰の姓(カバネ)を賜り、本居(本貫地)を当地から左京職(平安京の左京)に移した」(大意)
と記されている。

 その後、村上天皇・天歴年間(947--57)には河内国の“惣社”(総社とも記す)に指定され、“春日明神”・“惣社明神”と呼ばれたとという。大阪府誌(1903)
 「一に総社と称す。蓋、国府を置きし時の創立なるに因り・・・」
というが、当社の創建を河内国設立(7世紀)と結びつけるのは疑問。なお、今、当地の町名を惣社と呼ぶのもこれによる。
 惣社とは、国府近くにある有名な神社に国内の著名な神々を勧請合祀した総合神社といったもので、国司が自国内の神社を巡拝してまわるのを一ヶ所で済まそうとする経費節減策という。

 その後、楠木正成が国司兼守護だった南北朝初期の頃には、その祈願所として社殿も再建され隆盛だったようだが、楠木氏の衰亡とともに衰微し、降って、戦国期・大坂夏の陣などの兵火により社殿焼失、江戸期に再建されるものの往時の観には復さなかったという。明治5年(1872)村社に指定され、本殿・拝殿を再建して現在に至る。

※祭神
 当社主祭神・神八井耳命(カムヤイミミ)は、書紀では神武と皇后・媛蹈鞴五十鈴媛との間に生まれた長子となっているが、古事記では3人兄弟の次子とある。
 古事記には
 「神武が逝去した後、異母兄・当芸志美々命(タギシミミ)が皇位を狙って自分らを殺そうとしたとき、弟・建沼河耳(タケヌナカハミミ・2代目天皇綏靖)とともに討伐に向かったが、手足がわなないて打つことができず、弟がこれを殺した。
 為に、自分は上に立つ器ではないとして、弟に天皇の位を譲り、自分は忌人(イハヒビト)となって祭事を司り天皇を助けた」(大意)
とある。祭政一致であったマツリゴトのうちの祭事を司ったということで(祭政分離)、大和の多(オオ)氏をはじめ多くの氏族の祖先という。志貴県主が多氏と同祖であることから、祖神として祀ったものであろう。

 配祀神として、天照大神の他に春日四神(春日大神・武甕槌命・天児屋根命・比淘蜷_)と住吉四神(表筒男・中筒男・底筒男・神功皇后)を合祀しているが、これは惣社として河内各地の神社を合祀したものであって、惣社創立時点では春日・住吉以外の祭神も祀られていたと思われる。

※社殿等
 道路脇に立つ朱塗りの明神型鳥居を入り、参道を過ぎた境内正面に拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥・白塀に囲まれた神域内に本殿(千鳥破風・唐風破風向拝をもつ一間社流造・銅板葺)が鎮座する。縁起では明治5年(1872)の再建というが、一見して百年以上経過した建物とは見えない。


志貴県主神社・鳥居

同・拝殿

同・本殿

 社殿右手に朱塗り鳥居をもつ小祠が鎮座する。祠前には「式下大神」と記した石標が立っているが、その出自・神格など不明。

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