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白 鳥 神 社
大阪府羽曳野市古市
祭神--日本武尊・素盞鳴命・稲田姫命
付--白鳥陵
                                                    2019.07.12参詣

 近鉄南大阪線・古市駅の東約100m、駅南の道路を東へ、最初の辻を左(北)へ入った左側(西側)に鎮座する。式外社

※由緒
 境内に由緒等を記した案内なく、社務所も無人のため詳細不明。

 ネット資料によれば、
 「白鳥神社の社伝によりますと、寛永年間(1624--44)末期、軽墓(軽里)の伊岐谷(イキタニ)にあった伊岐宮(イキノミヤ)を、古市村の産土神として現在地に移築したとあります。
 伊岐宮には日本武尊が祭られていましたが、南北朝や戦国時代の兵火により焼失し、峯塚古墳にある小さな祠として存続していましたが、慶長の大地震(1596)で倒壊すると、そのまま放置されたといわれています。
 享和元年(1801)の河内名所図会には
  『伊岐宮 益田の南五町 古市村にあり 日本武尊の霊を祀って白鳥明神と称す 古は伊岐谷にあり 後世ここに勧請す 相殿 牛頭天王(ゴズテンノウ)・婆利賽女(ハリサイジョ)を併祭る 此所の土生神とす』
とあります」
という(名所図会にいう伊岐宮とは現白鳥神社の前身)

 当社は式外社のため関係資料は少ないが、大阪府史蹟名勝天然記念物(昭和2年・1927、以下「史蹟名勝」という)には、
 「古市町大字古市。古市停車場(現近鉄古市駅)より東北約1町(約100m)の老樹鬱蒼たる森林中に鎮座せる社之なり。
 社域は既に破壊せられて原形を確認し難けれども、大体円形封土の大古墳なり。
 社は一つに伊岐宮と称し、又古は白鳥大明神とも呼びて、日本武尊・素盞鳴命・稲田姫命を祀る。而して素盞鳴命と稲田姫命とは後の配祀に係わる。
 元此宮は今の地より十余町(1km強)西なる古市町大字軽墓、俗に伊岐谷(井喜谷)と呼べる現在の白鳥陵上にありしが、慶安元年(1648)震災に遭いて、廟は破壊したるを以て、天明4年(1784)現今の地に遷座せるなり」
とある。

 これらによれば、当社は日本武尊を主祭神とする神社で、西方の古墳上から現在地へ遷座したものだが、資料によっては、
 ・その旧社地を現軽里2丁目の峯ヶ塚古墳上とするもの、現軽里3丁目の白鳥陵(前の山古墳)上とするものがあり、
 ・又その遷座時期も寛永年間説(1624--44)・天明4年説(1784)があり、混乱している。

 当社本来の創建由緒・年代は一切不明だが、古代の当地一帯が河内文氏(カワチノフミ、王仁の子孫と称す)との渡来人の本拠であり、また百済系の古市村主(スグリ)の居住地でもあったというから(日本の神々3)、これら渡来人がその祖を祀ったのが当社の始まりとも推測され、そこに日本武尊及び牛頭天王(今は素盞鳴命)が加上されたのが現在の当社であろう。


※祭神
   祭神--日本武尊(ヤマトタケル)・素盞鳴命(スサノオ)・稲田姫命(イナタヒメ)

*日本武尊
 記紀における日本武尊は、12代景行天皇の皇子で、若いときから東奔西走して、まつろわぬ神々を討伐した英雄として記されているが(但し、古事記と書紀とではニュアンスが異なっている)、その実在性は疑問で、
 歴史学者・津田左右吉は
 ・概していうと、こういう英雄の説話は、それが よし多人数の力によって行われた歴史的事件があるにしろ、その事件をそのままに語るのではなく、それから離れて、何らかの構想のもとに一人の英雄の行動に託してつくるのが普通である
 ・クマソタケルがヤマトタケルの名を尊に奉ったというのもまた同様の説話であって、ヤマトタケルという語は「ヤマトの勇者」という意味であり一個人の名ではない
 ・それがヤマトの物語作者によって案出せられたものであることはいうまでもなく、ヤマトタケルが実在の人物の名とは考えられない
 ・だから、ヤマトタケルの物語は、決してそのままに歴史的事実として見ることはできない
として、日本武尊という英雄の実在を否定し、その熊襲・蝦夷討伐物語は作られた説話でしかないという(古事記及び日本書紀の研究・1940・大意、津田はこの論文により東大教授の職を追われている)

*素盞鳴命(スサノオ)・稲田姫命(イナダヒメ・素盞鳴の后)
 相殿のスサノオ・イナタヒメ(スサノオの妃)について、史蹟名勝は「後世の配祀」としているが、
 ・案内に、“牛頭天王(ゴズテンノウ)と婆利賽女(ハリサイジョ)を併せ祀り”とあり
 ・江戸後期はじめまでの当社が牛頭天王社であったことからみると
 ・明治初年の神仏分離に際して、仏教色が強いとして排斥されたゴズテンノウに代わって、同じ防疫神という神格をもつスサノオに変更したものであろう。
 ・ただ、牛頭天王は中世以降の流行神であって、当社本来の祭神とは見れない。


※社殿等
 近鉄・古市駅南の道路を東へ、最初の辻を左(北)へ曲がった左(西)に鳥居が立ち、表参道の石段を上って境内に入る。
 なお、南側道路の北側にも注連縄を張った〆鳥居(左柱に白鳥神社、右柱に伊岐宮とある)が立ち、民家横の参道を進めば境内南側に入れる。


白鳥神社・東の鳥居 
 
同・南の〆鳥居(左に小公園あり)

同・南参道 

 表参道を入った境内正面に、千鳥破風を有する入母屋造・瓦葺きの拝殿が東面して鎮座する。
 拝殿内陣には『伊岐宮』との扁額が掛かり、当社が嘗ての伊岐宮の後裔社、即ち白鳥神社であることを示している(扁額の文字は摩耗していて読みづらい)

 
白鳥神社・拝殿
 
同左(右端の鳥居は末社のもの)

同・「伊岐宮」の扁額 

 拝殿裏の瑞垣内に、弊殿を挟んで本殿が東面して鎮座するが(右写真・南側より)、高塀及び木立に阻まれて、屋根の一部が見えるだけで、本殿構造等は不詳。

 なお、拝殿右側(北側)には、朱色の鳥居が立ち(上中央写真)、前に白長大明神、背後に白龍大明神・白玉大明神の3祠が鎮座している。
 朱塗りの鳥居及び白狐の置物からみて稲荷社と思われるが、案内なく不明。



【白鳥陵】
 当社は日本武尊を主祭神とする神社で、それは尊の陵墓とされる白鳥陵と密接に関係する。

 白鳥陵について、日本書紀・景行天皇43年条には
 ・亡くなった日本武尊を伊勢国の能褒野(ノボノ・伊勢国鈴鹿郡)の陵に葬ったが、尊は白鳥となって陵から出て倭国(ヤマト)をさして飛び去り
 ・白鳥は倭の琴弾原(コトヒキノハラ・奈良県御所市富田に比定)に留まったので、そこに陵を造った(日本武尊琴引原白鳥陵)
 ・白鳥は、また飛んで河内に行き、古市邑(大阪府羽曳野市)に留まったので、そこにも陵を造った
 ・白鳥は、遂に高く飛んで天に上ったので、陵にはただ衣冠だけを葬った
 ・時の人は、この3つの陵を白鳥陵(シラトリノミサザキ)と名付けた
とあり(大意、古事記には能褒野から直接河内国志畿-八尾市の辺りに飛び来たったとある)、白鳥と化した日本武尊の霊が、能褒野から琴弾原を経て古市邑に飛来し、更に天上へと飛び去ったという。

 日本武尊が化した白鳥が最後に飛来した古市邑が当地とされるが、そこに造られた陵について、従来から、軽里2丁目の峯ヶ塚古墳・同3丁目の前の山古墳・古市の白鳥神社古墳の3ヶ所が議論されてきたが、明治13年(1880)以降、宮内庁によって軽里3丁目の前の山古墳を以て白鳥陵と治定されている。

◎峯ヶ塚古墳(旧伊岐宮鎮座地)--軽里2丁目
 上記社伝には、“当社の前身である伊岐宮は、軽墓(現軽里)の伊岐谷(井喜谷とも記す)の峯塚古墳上にあった”とあるが、今の羽曳野市に伊岐谷との地名はない。
 ただ、羽曳野市教育委員会発刊の羽曳野市遺跡調査報告書-平成21年度(2012、以下「遺跡調査報告書」という)所載の「羽曳野市域大字・小字図(軽里付近)」との古絵図に、戸刈池の西・現軽里2丁目の辺りに峯ケ塚との小字名、その南西に接して井喜谷との小字名がみえることから、当社は軽里2丁目(旧井喜谷)の峯ヶ塚古墳上からの遷座とみても間違いはないと思われる

 その伊岐宮の当地への遷座について、社伝は“慶長の大地震で伊岐宮が崩壊したまま放置され、その後現在地に遷座した”というが、慶長の大地震とは、豊臣末期の慶長元年(1596)7月に京都を襲った所謂・慶長伏見地震のことで、加藤清正が謹慎中だったにも係わらず、伏見城に居て被災した秀吉のもとに、いの一番に駆けつけたと伝わる大地震であろう(これにより清正は地震加藤とも呼ばれた)
 なお、史蹟名勝他の資料には、慶安元年(1648)の地震で崩壊し天明4年(1784)に遷座したとあるが、地震記録資料(ネット資料)によれば、慶安元年の地震は江戸・相模地方を襲ったものとあり、この時期、近畿地方に建物が崩壊するような大地震があったとの記録はみえない。

 その遷座時期について、遺跡調査報告は
 ・白鳥神社明細帳(1944)に、明正天皇の時代(1629--43)に遷座したと伝え
 ・寛永14年(1637)の造宮奉納札(森田家文書)に、「当社 牛頭天王造営之奉行 寛永十四年丁丑」とあり、これから、日本武尊遷座以前、当地には牛頭天王を祀る社があり(18世紀前半頃までは牛頭天王社と呼ばれていたらしい)、日本武尊を合祀するにあたり宮を新築した可能性が考えられる
 ・現在のところ、寛永14年以前に現在地に遷座したことは間違いないだろう、という。

*古墳への経路
 古市駅南の道路を西へ進み、戸刈池のある軽里北交差点を過ぎた左(南側)に建つ「時とみどりの交流館」の南に位置し、交流館横の公園から古墳北側の全景(下写真・中央)が眺められる。
 古墳の西側と南側には周濠が残り、南側の堤の上から周濠の向こうに前方部と後円部との接点・くびれ部をみることができる。

 当古墳の規模について、北側に立つ案内には
 ・墳丘全長:96m、後円部径:56m、高さ:9m、 前方部幅:74.4m、高さ:10.5m・2段構成 
 ・墳丘の周囲には内濠と堤が巡り、南を除いて三方には外堀もある 
 ・築造時期は5世紀末頃と考えられる
とあるが、日本古代遺跡事典(1995)には
 ・出土遺物やレーダー調査からみて、6世紀前半から中葉頃の築造と考えられる、とある。

 
峯ヶ塚古墳・航空写真
 
同・北側全景
(右が前方部)
 
同・南側 くびれ部付近

 なお峯ヶ塚古墳は、日本武尊ではなく允恭天皇(19代天皇)の皇子・木梨軽皇子の墓とする説もあったが、
 河内名所図会に
 「白鳥陵  軽墓村にあり、軽皇子墓といふ。地名も軽墓村と名付く。此義いかに。駒ケ谷覚峯師答曰く、此陵は日本武尊にして、伊岐谷也。軽皇子は安康天皇に殺され玉ふ、豈墓を築かんや」

 大阪府全志(大正11・1922)も、
 「白鳥陵(軽里3丁目)の西方に峯塚といへる前方後円の荒陵あり。高さ三丈・周囲三町にして西南に池あり。
 允恭天皇の皇子・木梨軽皇子(キナシノカルノミコ)の墓なりと伝ふれども、同皇子は罪ありて大前宿禰の家に自殺し給うひしといひ、或は伊予国に流され給へりともいひ、薨所不明なるを以て、同皇子の墓なりとは俄に信ずべからされども、軽墓の村名は之れより知れりとの俚伝もあれば、なほ後考を俟つになん」
とあり、木梨軽皇子墓所説を否定している。

 因みに木梨軽皇子とは、允恭天皇(19代・5世紀中頃)の第一皇子で、一旦は立太子したが、同母妹の軽大娘皇女(カルノオオイラツメ)と通じたことから廃され、伊予国に流される途中で、後を追ってきた皇女とともに自死したという(古事記)
 ただ、日本武尊が神話上・伝説上の人物であるのに対して、木梨軽皇子は実在した可能性の高い人物であり、土地の古地名を軽墓と称したことから、一概には否定できないであろう(ただ、古墳の築造年代とはズレがある)


◎前の山古墳(現白鳥陵)--軽里3丁目
 この前の山古墳(現白鳥陵)とは、応神天皇陵(誉田古墳・誉た御陵山古墳)に代表される古市古墳群に属する前方後円墳で、考古学上では「前の山古墳」あるいは「軽里大塚古墳」と呼ばれる。
 その規模は
 ・全長:190m、後円部径:106m、高さ:20.5m、前方部幅:165m、高さ:23.3m、馬蹄型周濠あり、
 ・日本武尊陵とされることから学術的な調査はされておらず、埋葬施設等は不明だが、昭和56年の宮内庁調査で、後円部に約10cm間隔でめぐる円筒埴輪が確認されたというから(天皇陵総覧・1994)、古墳であることは間違いない。
 ・その築造時期は古墳時代中期の5世紀後半(遅ければ6世紀初頭)頃と推測されているが、確たる時期は不詳。

 古市駅南を東西に走る道路の南側に位置するが、周濠の際まで民家が密集していて陵の全容が見える場所はなく、陵北側周濠脇の小道を西へ行った先から かろうじて前方部西北角付近を見ることができた。

 
白鳥陵(航空写真)
 
同・模式図
(今、周囲には民家が密宗している)
 
同・前方部北西角付近

 陵前方部を西側に回り込んだ処に、民家に挟まれて“拝所”があり、傍らに「景行天皇皇子 日本武尊 白鳥陵 宮内庁」との表示が立つ。
 ただ、陵周囲の細道路が輻輳しており、且つ案内表示等見当たらず、陵に近づくのは容易ではない。


白鳥陵・拝所への入口 
 
白鳥陵・拝所


 ただ、この地は江戸時代までは民有地だったようで、史蹟名勝には、
 ・本陵は久しく民有地で、周濠は共有の灌漑用溜め池として利用され、何時の頃からか頂上に白鳥神社(伊岐宮)があったが、慶安元年の地震で倒壊、大字古市の地にあった古墳上に遷座した
 ・以来、遷座先の古墳を白鳥陵と称していたが、明治13年改めて本陵を白鳥陵と治定し
 ・同16年に民有地を買収し、覆っていた櫟・竹林を伐採し松林に植え替えた
 ・その後、同24年に拝所・陵標・鳥居等を建設修復し、大正14年に車寄せ・広場・陵道等を建設して現状に至った
とあり(大意)、当陵が白鳥陵として治定されたのは明治13年(1880)のことで、その後、明治から大正にかけて修復造営がなされ現在の姿になったという。

 今、日本武尊の実在性は疑問視されているが、よしんば実在したとしても、その年代は4世紀後半(景行天皇朝)と思われ、対して前の山古墳・峯の塚古墳は一世紀から一世紀半後の築造ということから、日本武尊の陵墓とするには時代が合わず、現白鳥陵は書紀にいう白鳥伝承にもとずいての比定であって、その信憑性はない。


◎白鳥神社古墳(白鳥神社鎮座地)--古市
 白鳥神社の鎮座地にあったとされる古墳で(日本古代遺跡事典にはみえない)、日本の神々3(2000)には
 「白鳥神社が鎮座する小円丘は、6世紀後半頃に築造された白鳥神社古墳の後円部である」
とあり、大阪府全志(1922)以下の諸資料にも同様のことが記されている。

 当古墳の規模は、全長:約195m・後円部径:約80m・前方部幅:約65mの前方後円墳といわれ(古資料からの推測で、現地発掘調査によるものではないらしい)、明治32年に前方部と後円部のくびれ部に鉄道(現近鉄南大阪線)が敷説されたことから前方部が破壊されたという。

 確かに、白鳥神社本殿横をみると、土砂の高まり・小円丘があり、周りは緩やかな斜面となっており、本殿はその高まりの一部を削平して造営したようにもみえる。


本殿南の小円丘 
 
同左(左写真の右に続く本殿横部分) 

 当社鎮座地を古墳上というのは、この小円丘を古墳後円部とみてのことだろうが、上記遺跡調査報告書にいう鎮座地周辺の発掘調査(昭和54年以降数次にわたって行われている)によれば
 ・埴輪片の出土量が極めて少なく、それらが小円丘部から離れた地点で見つかっていること
 ・外表施設の一つとされる葺石が検出されていないこと
 ・外周施設である周濠が見つかっていないこと
 ・古墳の墳丘と考えられている高まりは、奈良時代以降の包含層により形成されていること
 ・その下層の地山面には、古墳~奈良時代を中心とした掘立柱建物の柱穴が広がっていること
などから、
 ・一時は陵墓とまで考えられていた白鳥神社古墳は、前方後円墳どころか古墳そのものの事実を否定せざるを得ない結果となった
として、古墳の存在そのものを否定し、
 ・江戸時代初期に峯ヶ塚古墳の頂上にあった小さな祠が現在の場所に移されたとき、以前から牛頭天王を祀る小社がこの小円丘に存在していたこともあって、この小社に日本武尊を合祀したものと考えられ、
 ・そのなかで、伊岐宮→日本武尊→白鳥大明神→白鳥陵という構図が徐々に作られた可能性が指摘できる
という

 この古墳を白鳥陵とするのは、書紀の白鳥伝説でいう白鳥の飛来地・古市邑を当地(古市)としてのことと思われ、よしんばそうであり、且つ当地が古墳であったとしても、その築造が6世紀後半であれば日本武尊とは時代的に合わない。

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