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河内(古市郡)の式内社/高屋神社
大阪府羽曳野市古市6丁目
祭神--饒速日命・広国押武金日命(安閑天皇)
                                                       2011.06.05参詣

 延喜式神名帳に、『河内国古市郡 高屋神社』とある式内社。

 近鉄南大阪線・古市駅の南約1.1km、駅西側から国道170号線を南下、跨線橋を越えた城山交差点の南、東へ斜行する細路(旧東高野街道)を進んだ右側に鎮座する。

※由緒
 当社の創建年代について、当社社頭に掲げる案内には
 「宣化天皇(安閑の次代天皇)3年(538)、勅命iによってこの地に創建されたと伝えられている」
とあるが、その真偽は不明。

 今は古市6丁目内に鎮座しているが、これは氏子住民の希望によって昭和29年(1954)に合祀先から復帰・再建されたもので、それ以前(明治41年-1908)以降)は、古市駅のすぐ東に鎮座する白鳥神社に合祀されていたという(今も相殿として祀られているというが、詳細不明)

 白鳥神社合祀前の鎮座地ははっきりしない。
 江戸時代の史料には
 ・古市古屋敷邑に在り、今山王と称す--河内志(1733)
 ・古市古屋敷邑にあり、今八幡山といふ--河内名所図会(1801)
とあり、両書とも、古屋敷邑すなわち今の古市6丁目辺りにあったというが、明治後期の史料・大阪府誌(1903)には
 ・古市村の西南高屋城趾の辺りにあり、社域八幡山と称し云々
とある。
 八幡山と称することでは河内名所図会と同じだが、高屋城趾が古市5丁目か6丁目の何れを指すのかは不詳(古市5丁目付近-高屋城二の丸、6丁目付近-同三ノ丸があったという-下記)。これを古市6丁目とすれば、何れの史料においても、現高屋神社の鎮座地近傍にあったこととなる。

 これに対して、式内社調査報告(1979)
 「白鳥神社に合祀されるまでの村社・高屋神社は、羽曳野市古市5丁目8番(堺県管下河内国古市郡古市村字城)にあった」
として、国道・城山北交差点を東へ入ったすぐ右(南)にある“姥不動明王”を祀る祠堂(境内東隅に高屋城趾の石標あり)の辺りとし、また山稜志(1801)
 「安閑春日皇后高屋墓、・・・今祀八幡之神是也」
とあることから、江戸時代中期頃、安閑天皇皇后墓址とおぼしき丘に祀られていた八幡神が当社ではないかという。


高屋城趾
(玉垣内に高屋城趾の石碑あり)

姥不動明王舎
(左隅に高屋城趾石碑あり)

◎高屋城

 高屋城とは、応仁の乱後の文明11年(1479)に、当地の守護職・畠山氏が伝安閑陵(古市築山古墳・前方後円墳L=121m・後期古墳、古市城山古墳・古市築山古墳ともいう)を本丸とし、南に二の丸・三ノ丸と連ねた連郭式城塞(南北800m・東西450m)で、室町末期の戦乱のなか、天正3年(1575)織田信長の攻撃をうけて落城し廃毀されている。

 この二の丸郭(主として上級武士の居住区-現古市5丁目付近)の中央部やや東寄りに八幡山古墳(安閑皇后:春日山田皇女陵・前方後円墳・L=90m推定)があったが、築城に際し墳丘・濠などは毀されたという。(以上、羽曳野市史・1997)
 上記・姥不動明王祠堂(高屋城趾石標)は、右図・中央左の道路屈曲部付近に相当する。

 略下半分にあたる三ノ丸郭(下級武士の居住区)の中央やや左(西)を南下する路沿いにあったのが古屋敷邑(現古市6丁目)で、現高屋神社鎮座地は二の丸から路沿いに三の丸に入ったすぐの辺りに相当する。
 (城内を東高野街道が南下していた-右図・東北方から“くの字”形に南下する細い実線)
高屋城縄張図
高屋城縄張図
(羽曳野市史図面を一部改変)

※祭神
 今の祭神は、饒速日命(ニギハヤヒ)・広国押武金日命(ヒロクニオシタケカナヒ・安閑天皇)の二座とあるが、本来のそれはニギハヤヒで、古代豪族・物部氏に連なる“高屋連”(タカヤノムラジ)がその祖神を祀ったものという。

 高屋連とは、新撰姓氏禄に
 「河内国神別(天神) 高屋連 饒速日命十世孫伊己止足尼(イコトノスクネ)大連之後也」
とある物部氏系氏族で、正史上では、続日本紀・文武天皇慶雲元年(704)6月11日条にある、
 「河内国古市郡の人、高屋連薬女が男の三つ子を生んだので、絁二疋・真綿二屯・麻布四端を賜った」
が初見。その後の史料にも古市郡高屋連○○との氏名を散見することから当地に居住していたことは確かで、各地の地方官として活躍した氏族という。

 なお、高屋連の直接の祖神・イコトノスクネが祭神ともいう。
 イコトノスクネについて、先代旧事本紀(9世紀後半・物部氏系史書)には、
 「物部五十琴宿禰連(モノノベイコトノスクネノムラジ) (9世の孫)胆咋宿禰の子
  この連公は、神功皇后摂政の御代、はじめ大連となり、ついで宿禰となって石上神社をお祀りした」
とある。ニギハヤヒ・イコトノスクネいずれにしろ、物部氏の祖神を祀ることでは同じといえる。

 安閑天皇の合祀時期は不明。当地が安閑天皇陵に近接することからの合祀と思われるが、詳細不明。
 安閑天皇については、継体天皇の崩御記録(継体25年・辛亥年)に続いて、百済本紀(朝鮮半島・三国時代の歴史書・1145頃)の引用という形で、
 「また聞く、日本の天皇および皇太子・皇子、倶に崩御されたという」
との注記があり(書紀)、また、古事記・書紀に記す継体崩御年・安閑宣化欽明の即位年などに混乱・不整合があることから、継体の死後、安閑・宣化天皇の勢力と欽明天皇を擁する勢力との間で抗争があったとして、安閑・宣化天皇の即位を疑問視する説もある。

※社殿
 三方を民家に囲まれた狭い境内の北寄りに神明型鳥居と拝殿(入母屋造・瓦葺)、その奥、板塀に囲まれた中に本殿(一間社流造・銅板葺)が何れも南面して建つ。
 社殿の左に末社(祭神不明)、境内南隅に稲荷社が鎮座する。

高屋神社/拝殿
高屋神社・拝殿
高屋神社/本殿
同・本殿

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