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大神神社・摂社/檜原神社
奈良県櫻井市三輪字桧原
祭神−−天照若御魂神・伊奘諾尊・伊奘冉尊
                                                                2010.07.26参詣

 延喜式神名帳に、『大和国城上郡 巻向坐若御魂神社 大 月次相嘗新嘗』とある式内社が当社というが、論社として「穴師坐兵主神社」(桜井市穴師町)があり、当社が式内社かどうかは不詳。祭神・鎮座由緒などからみて、当社を式内社とするには無理があるらしい。

 大神神社から北へ約1.5km、山辺の道を進んだ右手に鎮座する。同じ三輪山山麓に鎮座するとはいえ、創建由緒・祭神ともに大神神社との直接的な関係は薄く、摂社とされる由縁は不明。

※祭神
 主祭神・天照若御魂神(アマテラス ワカミタマ)とはアマテラス大神を指し、当社でも
 「崇神天皇の御代、はじめて皇祖・アマテラス大神を宮中から遷して祀り、・・・」
と記す(大神神社・1971)。下記の創建由緒からのものだが、“天照”の次ぎに“若御魂”と加わるのは不可解。

 近畿以西に“天照御魂”を名乗る式内社が数社あるが、そこでは“アマテルミタマ”と訓み、皇祖神・アマテラス大神誕生以前から、大王家を含めて各地の豪族によって祀られていた“日神”(太陽神)をいう。

 皇祖神・アマテラスの原点もまた大王家が奉祀する日神(アマテルミタマ)であり、大王家が奉ずる日神の国家最高神化という過程のなかで、日神に仕えるヒメコ(巫女・神の妻→オオヒルメ)が日神と一体化してアマテラスという人格神・皇祖神が誕生したというのが有力である。

 当社が、伊勢におけるアマテラス大神鎮座以前の姿だとすれば、その祭神もまた日神・アマテルミタマと思われ、若御魂とはプレ・アマテラス=アマテルミタマを意味するのだろう。
 わが国の日神・アマテラスは女神とされるが、世界の日神は男神というのが通常であることからみると、皇祖神・アマテラスが誕生する以前の日神・アマテルミタマは男神だった可能性が高い。

 なお、イザナギ・イザナミ両神を合祀するのは、アマテラスの親神だからだろうが、合祀時期など詳細不明。

※創建由緒
 当社の創建時期は不詳だが、社頭に掲げる由緒によれば、
 「第10代崇神天皇の御代まで、天照大御神は宮中にて“同床共殿”でお祀りしていた。同天皇6年、初めて豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)に托され宮中を離れ、この“倭笠縫邑”(ヤマト カサヌイムラ)に“磯城神籬”(シキ ヒモロギ)を立ててお祀りされた。
 その神蹟は、この桧原の地であり、大御神の伊勢遷幸の後も、その御蹟を尊崇し、桧原神社として大御神を引き続きお祀りしてきた。そのことより、この地を今に“元伊勢”と呼んでいる」
と、垂仁朝の創建を示唆し、社頭の〆柱脇には
 「(表面)大神神社摂社桧原神社、(横面)皇大神宮聖跡 倭笠縫邑」
との社標柱が立っている。

 この創建由緒は、 日本書紀・崇神紀6年条に記す、
 「これより先、天照大神・倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)の二神を、天皇の御殿の内にお祀りしていた。ところが、その神の勢いを畏れ、共に住むことには不安があった。そこで天照大神をトヨスキイリヒメ命に托し、大和の笠縫邑に祀った。よって堅固な石の神籬(ヒモロギ・神の降臨される聖地)を造った。また倭大国魂神は、渟名城入姫命(ヌナキイリヒメ)に預けて祀られた」

 同・垂仁紀25年条に記す、
 「天照大神をトヨスキイリヒメ命からはなして、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に托された。ヤマトヒメは大神を鎮座申し上げる所を探して、宇多の篠幡から近江・美濃をめぐって伊勢国に至った。云々」
との記述をうけたものだが、これらは伝承であって史実ではない。
(古事記・崇神記−−「トヨスキヒメ命は伊勢の大御神を齋き祀った」、同・垂仁記−−「ヤマトヒメ命は斎王として伊勢大神宮をお祀りになった」とある)

◎斎王(斎宮)
 当社由緒には、トヨスキイリヒメを“初代斎王”と注記するが、“斎王”(サイオウ)とは伊勢のアマテラス大神に仕える女性で、天皇の皇女(時には皇族の王女)を以てこれに当てるのが通常であった。
 (なお、平安初期・嵯峨朝以降、上賀茂神社にも斎王が遣わされたことから、それと区別して、伊勢斎王を“斎宮”とも呼ぶ)

 斎王の任命は伊勢神宮の創建と係わることだが、栲幡皇女(タクハタ)の斎王叙任記事のほか伊勢に関する伝承が雄略朝に集中している(書紀)ことから、雄略朝頃には日神・アマテルミタマの皇祖神・アマテラス化が図られていたのではないか、という。なお、皇祖神・アマテラスの伊勢鎮座の確実な時期は、天武朝(673--86)以降というのが有力。

 これに対応するように、書紀には、斎王として
 ・“栲幡皇女”(稚足姫ワカタラシヒメともいう・雄略朝-456--79)
 ・“荳角皇女”(ササゲ・継体朝-507--31)
 ・“磐隈皇女”(イワクマ・欽明朝-539--71)
 ・菟道皇女(ウジ・敏達朝-572--85)
 ・須加手姫皇女(スカテヒメ・酢香手姫とも記す・用明朝〜推古朝-585--628)
の名を記すが、その任命が断続的であること、これらの斎王が伊勢に行ったとの確証がないことなどから、斎王制が定着していたとは思われず、よしんば、斎王が任じられたとしても、大和にあって日神・アマテルミタマに奉祀していたのではないかともいう。

 天武天皇2年条(674)・3年条に次の記述がある。
 「大来皇女を伊勢神宮の斎王とするため、まず泊瀬の斎宮に住まわせた。ここはまず身を潔めて、次第に神に近づくための処である」(2年・4月14日)
 「大来皇女は泊瀬の斎宮から、伊勢神宮に移られた」(3年・10月9日)
 この記述から、大来皇女が斎王として伊勢におもむいたことは史実であり(673--86)、この時期、伊勢神宮があったことは確実とされる。

 その後、何故か持統朝での斎王叙任はなく、続く文武天皇2年(698)の当耆皇女(698--701)以降、後醍醐天皇・祥子内親王(1333--34)まで66代の斎王が叙任されている。

◎倭笠縫邑
 当社が鎮座する“桧原”の地について、大神神社(1971)
 @桧原岡は、明治維新までは神体山三輪山のうちに属し、大和の国中(クンナカ)を望む絶景の台地で、麓の橋中・芝・茅原のあたりの古称が即ち笠縫である。
 A崇神天皇が八十万神を祀った“神浅茅原”(カムアサジガハラ)もこの地、桧原・茅原と考証されている。
 B日本書紀・神代巻には、「オオモノヌシの国避の際、とくに天上の勅錠をもって作笠者(カサヌイ)を定められ、大神の祭祀を始められたことを明記する」。これは注目すべきで、笠縫はもとから三輪大神に属して存在していたことが知られる。
と記し(いずれも大意)、書紀にいう“倭笠縫邑”とは当地だという。

 しかし、@を実証する確たる証はないし、
 Aにいう神浅茅原を当地とするのも、崇神の磯城瑞垣宮を大神神社の南に鎮座する磯城御県主神社の辺りとすることから、その近くにあったと推測するもので、これも確証はない。

 またBの作笠者(カサヌイ)云々は、日本書紀・神代紀(第9段)にある、
 「帰順してきたオオモノヌシに対して、タカミムスヒ尊が『汝は、八十万の神たちを引き連れて、永く皇孫を護り奉れ』と告げて、紀国の忌部の遠祖である手置帆負神を“笠造り”の役目とされた。・・・太玉命を天孫の代理として、オオナムチを祀らせるのは、ここから始まった」(大意)
との記述を受けたものらしいが、
 伊勢神宮に伝わる“皇大神宮儀式帳”に
 「4月14日は、アマテラスに新しい着物を差しあげる祀りの日で、この日、御笠縫内人(ミカサヌイノウチビト)との神官が、蓑と笠を22張りずつ作って神に差しあげる」(意訳)
とあるように、笠造り(笠縫)はオオモノヌシのみにかかわるものではなく、各地での日祀りに際して笠が造られ供えられたと思われる。
 古代にあって、蓑笠を身につけることは神の証であり、丸い形をした笠は太陽のシンボルとして“日祈(ヒノミ)の祀り”(太陽祭祀)に欠くことができない呪具だったという。

 伝承にいう笠縫邑の比定地としては、当社の西方に鎮座する
 ・多神社(式内・多坐弥志理都比古神社−田原本町)
 ・姫皇子命神社(多神社境外摂社)
 ・笠縫神社(田原本町)
 ・志貴御県坐神社(三輪)
など8・9社ほどがあがっているが、いずれも確証はない。

 これら比定地の内、今は当社・桧原神社が有力とされるが、元々笠縫邑は多(オオ)の地であり(多神社の北に笠縫邑跡地がある)、後に桧原の地に遷ったとの伝承があるように、戦前までは多神社が有力視されていたという。
 その理由として、三輪山の真西に当たる多神社の地が、春分秋分の日に三輪山頂から昇る朝日を拝する“日読み”の地であることが挙げられるが、

 この日読みの地という立地は、三輪山頂と多神社を結ぶ線上のやや北に位置する当社にもいえることで、当地にアマテラス(日神・アマテルミタマ)を奉斎したというのは、三輪山頂から昇る春秋分の朝日を拝する地との立地環境からであろう。

 以上のこと、あるいは三輪山上に日神祭祀にかかわる神坐日向神社が鎮座することなどから、当社は、三輪山に昇る太陽の遙拝所として、何時の頃かに創建されたものであろう。

【追記】2015.07
 笠縫邑の比定地について、続秦氏の研究(大和岩雄・2013)は次のようにいう(概要)
 ・小学館版・日本書紀一(1994)の頭注は
   奈良県磯城郡田原本町 秦庄(岩波文庫版は田原本町新木とするが、新木は秦庄に隣接している)
   桜井市笠の笠山荒神境内(三輪山の北約4km付近)
   桜井市三原の檜原神社境内
を挙げている、として
*檜原神社説
 ・三輪神社略縁起並独案内(刊行時期不明)
  「日原社(檜原社) 慶長年中(1596--1615)に天照皇太神宮此処に御鎮座ありし所なり」
との記述があり、この記述を、大和志料(1914・大正3)
  「天照大神を境内に勧請せしは、此地古の笠縫邑なりと云へる伝説に本(モト)づけるならん」
として取りあげたことから、明治後半から大正時代に入って有力な候補地になったが、慶長年間の文書に記す伝承を唯一の理由とするもので根拠としては弱い
 ・皇太神宮儀式帳に
  「天照大神を美和の御諸原に斎宮を造り出で奉りて、斎き始め奉りき」
とあり(その後各地を廻って伊勢に落ちついたという)、この斎宮が笠縫邑の宮だというが、檜原神社の地は三輪山の山腹であって、御諸というには似つかわしくない
*田原本・秦庄説
 ・秦庄は多神社の北東約500m付近にあって、古くは多郷の大字名で、秦庄の人々は多神社の氏子であった
 ・多神社の大鳥居は神社正面ではなく、三輪山を正面から拝する場所に立っており、古くは多神社には三輪山から昇る春分・秋分の日の出遙拝神事があった事実が証される
 (多神社は三輪山山頂の真西に位置し、今も、多神社南側の道路を東進した所に一の鳥居−大鳥居−が立ち、鳥居の中に三輪山がすっぽり入っている)
 ・多神社境内とその周辺から出土する弥生から古墳時代にかけての祭祀遺物の様子から見て、この地が古くからの祭祀場であったことは確かで、この考古事例は記紀の伝える多氏の始祖伝承と一致する
 (多氏の始祖・神八井耳命は神武天皇の長子で、本来皇位を継ぐべき所を弟に譲り、自らは神事のマツリゴトに専念したという)
 ・これらから、多氏は三輪氏以前の三輪山の日神祭祀を掌る氏族であったと思われ、日神・アマテラスの鎮座地としての笠縫邑は当地付近にあったとみるのが妥当と考えられる
 (三輪山頂上には東方伊勢方面から昇る朝日を拝する神坐日向神社−ミワニイマスヒムカ、式内社−があり、これが三輪山信仰の原点と思われる)
*桜井・笠説
 ・この地が候補地となったのは、地名・笠からくるものだろうが
 ・この地は多氏と祖を同じくするツゲ国造の地であり、オホの地で三輪山から昇る朝日を拝すると、笠の地辺りから昇ることから、伝承地となったのではなかろうか
 (日神信仰には笠は付きもので、笠の形から太陽の象徴とされたという)
という。

※社殿等
 東側、山辺の道脇に〆柱が立ち、白い小石を敷きつめた境内の東寄り・桧原峯麓近くに設けられた瑞垣の中に、大神本社と同じく三ッ鳥居が立つのみで、社殿等はない。
 三ッ鳥居の奥に神籬・磐座があり、当社から三輪山山上にかけて8群の磐座(オオカミ谷磐座群)があるという(ネット資料)が、未確認。

 ただ、古書・大神社覚書(時期不明)には、「桧原神社拝殿 表行五間奥行二間瓦葺、但鳥居有之」と、拝殿があったと記し、江戸時代の古絵図(右図)によれば、石垣の上に拝殿が建ち、その背後に桧原峯を背にして三ッ鳥居と瑞垣がある。
 また、石垣前の両側に末社2社(皇大神社・春日神社)が見え、遠く上津街道近くに一の鳥居、参道途中に二の鳥居が立つなど、それ相応の社殿結構だったことが窺われるが、これらの社殿が何時頃の造営かは不明。 
大神神社・摂社/桧原神社・〆柱
古絵図−江戸時代(部分)
 大神神社(1971刊)によれば、
  「寛政年間(1789--1800)の大風によって建物は倒壊し、その後は復興もされず、昭和になるまで、僅かに残った礎石・石壇などで祭祀が続けられてきたが、伊勢神宮第59回式年遷宮(昭和28年)後、当社鳥居用材として内宮外玉垣東御門を賜り、これを芯として三ッ鳥居の再建や、神域・瑞垣の整備などをおこない、昭和41年11月に竣工した」(大意)
とある。その後も随時整備されたようで、瑞垣などはまだ新しくみえる。

桧原神社・〆柱
大神神社・摂社/桧原神社
同・神域
大神神社・摂社/桧原神社・三ッ鳥居
同・三ツ鳥居

◎豊鍬入姫宮
 瑞垣内の左手に鎮座する小祠で、倭笠縫邑でアマテラスに奉祀したトヨスキイリヒメを祀るが、この宮は、昭和61年、新たに創建されたもので、古くからのものではない。 桧原神社/豊鍬入姫宮
豊鍬入姫宮

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