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大神神社・摂社/神坐日向神社・高宮神社
神坐日向神社−−奈良県櫻井市三輪字御子ノ森
高宮神社−−同 同三輪字神峯(三輪山山頂)
祭神−−神坐日向神社:櫛御方命・飯肩巣見命・建甕槌命
高宮神社 :日向御子神
(日向王子)

                                                             2010.07.26・09. 参詣

 神坐日向神社(ミワニマス ヒムカイ・以下「日向神社」という)は、延喜式神名帳に、『大和国城上郡 神坐日向神社 大 月次新嘗』とある式内社で、今、大神神社の摂社として三輪字御子ノ森に鎮座するが、本来の日向神社は三輪山山頂・即ち現高宮神社(コウノミヤ・大神神社末社)の地にあったのではないかという。

◎神坐日向神社
 大神神社の南約200m。山辺の道を南下、平等寺前四辻の少し手前(北)の西側、目立たない参道(地道)を入った奥にひっそりと鎮座する。参道入口に小さな表示はあるが、注意しないと見おとす。
◎高宮神社
 三輪山山頂に鎮座する摂社(H≒447m)で、すぐ上(東側・H≒467)杉木立の中に奥津磐座群(オクツイワクラ)がある。今、山麓にある摂社・狭井神社から登拝することができる(社務所に届け出、その許可が必要)

※祭神
◎神坐日向神社
 今の祭神:クシミカタ・イヒカタスミ・タケミカツチの3柱は、古事記・崇神記に、
 「河内国美努村から見いだされたオオタタネコに、天皇が『そなたは誰の子か』と尋ねたところ、オオタタネコが
   『吾は、オオモノヌシ大神の子・クシミカタの子・イヒカタスミの子・タケミカツチの子・オオタタネコなり』
  と答えた」
とある神々で、祟り神・オオモノヌシを奉祀したオオタタネコの曾祖父・祖父・父、即ち大神神社の祭祀を掌った大神氏(三輪氏・南北朝末期に“高宮”と改姓)の祖神を指す。

 しかし日本書紀・崇神紀には、“オオタタネコはオオモノヌシの子”とあり、上記3神は出ていない。また高宮氏系図によれば、
 “大国主命−八重事代主命−○−天日方奇日方命(アメノヒカタクシヒカタ=クシミカタ)−イヒカタスミ−建甕尻命(タケミカジリ=タケミカツチ)−○−○−オオタタネコ”
とある(先代旧事本紀では、オオクニヌシ−コトシロヌシ−アメノヒカタクシヒカタ−以下同じ)
 系譜に混乱があるにしろ、祭神から見るかぎり、御子の森にある当社は、大神神社の神主・高宮家(大神氏の直系後裔)がその祖神を祀った社と思われる。

◎高宮神社
 高宮社の祭神・日向御子神(日向王子)の“日向”(ヒムカ)とは、“日に向かう”・“日を迎える”・“日を拝する”を意味し、日向御子神とは日神(太陽神)信仰における“日神の御子(王子)”となる。
 しかし、鎌倉時代に伊勢外宮の神官が中心となってまとめた神道五部書の一・倭姫命世紀(鎌倉時代)によれば、崇神天皇6年、宮中から出されたアマテラスを倭笠縫邑に祀ったトヨスキイリヒメは、その後、アマテラスを奉じて丹波の吉佐宮など各地を巡った末に
 「崇神58年(辛巳)、倭美和乃御室嶺上宮(ヤマトミワノミムロミネカミノミヤ、美和之御諸宮ともいう)に還り、二年間奉斎・・・」
したという(この後、ヤマトヒメによる伊勢巡幸遷座に続く)
 この伝承の真偽は別として、ここでいう“御室嶺上宮”(御諸宮)を当社とみれば、その祭神は伊勢の地に鎮座する以前の日神であるプレ・アマテラス(通常、アマテルミタマ神)を指すとも解される。

 三輪山山頂から拝する冬至の朝日は、山頂から直視できる大和と伊勢の国境・高見山(1249m)の彼方、伊勢の方角から昇ることから、当山頂は冬至の朝日を拝する日向の地であったと解され、三輪祭祀の原点には日神信仰があったと推測される。

 その日向の地に坐す神を日向御子神(あるいはアマテルミタマ)とするのは順当といえるが、別に式内・神坐日向神社(三輪に鎮座する日向神社)があるにもかかわらず、これを高宮神主家の祖神を祀ると思われる高宮神社とするのは解せない。

 なお、平安後期の史書には、当社祭神を“日本大国主命”(ヒノモトノオオクニヌシorヤマトノオオクニヌシ−大神崇秘書・1119)あるいは“天日方奇日方命”(アメノヒカタクシヒカタ・前記−元要記)とする書がある。

 記紀伝承が“海を光して依り来る神”というオオモノヌシ=日本大国主には、海から昇る朝日のイメージがあり、日神とみることもできる。日神が伊勢のアマテラス(天つ神)に集約されて皇祖神化し、オオモノヌシ(国つ神)から日神的神格が払拭された後の祭神であろう。

※神坐日向神社と高宮神社との関係
 今、日向神社は三輪字御子の森に鎮座し、三輪山山頂には高宮神社が鎮座するが、明治初頭になって両社の間で神社名を取り違えられたとする説がある(反論もある)

 この社名錯誤に関して、明治18年(1885)、時の大神神社宮司から明治政府に対して、
 「現高宮社に、弘仁3年(1846・江戸末期)付けの“神ノ峯殿内峯遷坐神坐日向神社幸魂奇魂神霊”と記した標札があるのを証拠に、式内・神坐日向神社は古来から三輪山頂にあったが、維新後、これを高宮神社としたのは誤りだから、訂正してほしい」(大意)
との願いが出されたが、政府から
 「(それを証する)旧記確書等が無いから、従前の通りとする」(大意)
として却下された、という。

 明治政府の裁可書には「旧記確書なし・・・」というが、実際には
 ・大神崇秘書(1119・平安末期)
  日向神社−−高宮亦上宮(いずれもコウノミヤ)と曰ふ。三輪山峯青垣山に在り。神殿無く神杉有り、奥杉と称するは是也。
           神名帳に云ふ大神坐日向神社一座、一所日本大国主命(ヒノモトノオオクニヌシ)也。
 ・大神分身類社鈔(1265・足利時代)
  三輪上神社一座−−神名帳に云ふ神坐日向神社一座、大、月次新嘗
               日本大国主命 神体杉木
などの古史料があり、他の中世から江戸時代にかけての史料・絵図にも、三輪山山頂に鎮座するのは日向神社で、高宮・上宮ともいった、とするものが多く、
 また、大神崇秘書は、
 「(日向神社は)孝昭天皇(第5代天皇)御宇の御鎮座也。天皇元年4月上卯日前夜半、峯の古大杉の上に日輪の如き火気があり、光を放って山を照らす。その暁に神が天降り官女に託宣して、『我は日本大国主命也、今此の国に還り来たれり也。山田吉川比古をして我が広前を崇秘奉れ』と謂った。天皇、この御託宣により、吉川比古命(クエヒコ命8世の後、川辺足尼の子也)に勅して高宮神主と定めた」(大意)
との鎮座伝承を伝えている。
 この伝承は、鎮座時期を、実在が疑問視されている孝昭天皇の御宇とすること、祭祀氏族・高宮神主をクエヒコの後裔とするなど、今の定説とは異なる記述が見える(高宮神主家は大神氏の後裔という)ことから、後世の創作であろうが、その内容は、日向神社の祭神が日神的神格をもった神(=日向御子神)であることを示唆している。

 加えて、明治になっても、大神神社摂末社御由緒調査書(明治6年・1873)には、高宮神社について、社伝を引用して
  「祭神は日向御子神なり。本社境内神峯に鎮坐す。
   旧平等寺所蔵の古絵図に神坐日向神社と見え、又当社所蔵の古絵図には神上ノ宮(ミワコウノミヤ)と見えたり」
とあり、これらを提示すれば、結論も替わったのかもしれない。

 しかし、日神・アマテラスを伊勢皇大神宮に集約して皇祖神とする明治政府にとって、国つ神の代表としてのオオモノヌシを祀る大神神社に日神的神格があったとするのは認めがたいことであり、たとえ上記諸史料が提示されていたとしても、大神神社の山宮(元宮)的存在である三輪山上の神社を式内・神坐日向神社とは認めなかったのではないか、ともいう(大和岩雄説)

 ただ、諸史料がいう“高宮あるいは上宮”(コウノミヤ)が、当社の立地状況すなわち“高所(山頂)に坐す宮”を意味するとすれば、山上にある社(山宮)を高宮神社と呼ぶのも間違いとはいえない。

◎山宮と里宮
 日向神社と高宮神社の関係を山宮・里宮とする見方がある。

 わが国の古代信仰は、里近くの秀麗な山をカミの山・神奈備山(カンナビ)として仰ぎ見、山頂あるいは山腹にある巨石(磐座)あるいは巨木をカミが降臨する聖地・神木とした、カミ祀りからはじまるという。
 その山頂(あるいは山腹)にあるカミ祀りの場を“山宮”と称し、この山宮を麓から遙拝する場(カミ祀りの場)として設けられた社を“里宮”という。

 三輪の古代信仰について、柳田国男は
 「三輪山の絶頂には大神神社の末社高峯神社(現高宮神社)、一に高宮または上宮、また神峰社ともいう社が今でもある。・・・
大和志料には、大神崇秘書を引いて、三輪山の峯青垣山にあり、神殿なし、神杉あり、奥の杉と称すると述べている。この霊山の上方、名木の杉のある処が祭場だったのである。・・・
 神を平地の里宮でお祭り申す以前に、まず山頂の清浄なる地において、お迎えする形は多くの社に伝わり、民間の春秋の行事にも残っている。正月には松迎え、盆には盆花採り、いつでも高い処に行って植物によって神を迎えるのが常の習いである。それを三輪の御社ではもう罷めているだけではないか。・・・」(山宮考・1947)
と記し、山頂の現高宮神社(元日向神社)を神がはじめて降臨した聖地=山宮とみている。

 この三輪山頂を山宮とする見方は、上記・大神崇秘書にいう、「神(日本大国主)が、峯の古大杉に降臨した」とする伝承、すぐ奥にオオモノヌシが鎮まる奥津磐座群があることからも妥当な見方といえる。

 ただ柳田が、里宮としてどの神社を念頭においていたのかは不明だが、麓にある大神神社ではないかと想像できる。それは、大神神社の社殿構成などからみて当然といえるが、麓から山宮を遙拝する里宮は各処にあってもいいわけで、現日向神社を里宮とみてもおかしくはない。

◎現日向神社(元高宮神社)
 現日向神社の鎮座地を“御子ノ森”という。この字名は、山頂に祀る日向御子神を招き降ろした里宮が鎮座することからの地名とも解され、その意味では里宮としての日向神社と称してもおかしくはない。

 しかし、そこに祀られる祭神が大神氏の祖神・櫛御方命以下の3座であること、境内入口の左に高宮神主家の家宅があること、当地のすぐ西が高宮区と呼ばれること、などから、大神氏の後裔・高宮神主家が、その屋敷内に祀った氏神社が原点ではないかといわれ、その意味では高宮神社とするのが妥当と思われる。

 現高宮神社を式内・神坐日向神社とすることには、明治政府の裁定を是とするなど異論もあるが、素直に、社名と祭神・鎮座地などを勘案すれば、両社の社名は入れ替えられるべきであろう。

※社殿等
◎日向神社
 目立たない地道の参道を入った先、樹木が生い茂った境内左手に木製鳥居(明神型)が立ち、その奥・低い石垣の上・瑞垣の中に北面して、春日造一間社の小祠が建つ。建造時期など不明で、だいぶ古くなっている。

◎高宮神社
 三輪山頂上の少し手前・標高447m附近に鎮座する。古史料には杉木をご神木とし社殿なしとあるが、今は一間社春日造の小祠が祀られているという(下の写真は、大神神社-刊-よりの転写)

神坐日向神社
神坐日向神社
神坐日向神社/社殿
同・社殿

高宮神社(資料転写)

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