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大神神社・摂社/率川神社
付−同摂社・率川阿波神社
奈良市本子守町
祭神−−媛蹈鞴五十鈴姫命・玉櫛姫命・狭井大神
                                                               2010.08.29参詣

 延喜式神名帳に、『大和国添上郡 率川坐大神御子神社三座』とある式内社で、境内に同じ式内社・『率川阿波神社』が鎮座する。両社ともに大神神社の境外摂社。なお社名は“イサカワニマス オオミワミコカミノヤシロ(またはオオミワミコジンジャ)”、“イサカワ アワジンジャ”と訓む。

 近鉄奈良駅の南南西約400m(JR奈良駅の東約650m)、近鉄奈良駅の西を南北に走るバス通り(愛称・やすらぎ通り)を南へ、東西道路・三条通りとの交差点(上三条町交差点)のすぐ南に鎮座する。奈良の中心市街地・通称“なら町”の西に当たる。

※祭神
 率川神社縁起には、
 「御祭神・媛蹈鞴五十鈴姫(ヒメタタライスズヒメ)は初代神武天皇の皇后様で・・・」
とあるが、日本書紀と古事記とでは、神武天皇正妃の名およびその出自に異同がある。
*日本書紀
 「コトシロヌシが大きな鰐となって三嶋の溝咋姫(ミゾクイヒメ)、あるいは玉櫛姫(タマクシヒメ)のところへ通われた。そして御子・ヒメタタライスズヒメが生まれた」(神代紀)
 「神武天皇が正妃を立てようとして、貴族の女子を探された。ある人が『コトシロヌシが三嶋溝咋耳神の女・タマクシヒメと結婚されて、生まれた子がヒメタタライスズヒメで、容色勝れた人です』と申し上げた。天皇は喜ばれ、姫を召して正妃とされた」(神武紀)

*古事記
 「神武天皇が大后とする媛女(オトメ)を求められたとき、大久米命が『神の御子と呼ばれる女性がおられる。その訳は、美和のオオモノヌシが三嶋溝咋の女(ムスメ)・勢夜陀多良比売(セヤタタラヒメ)を見初め、丹塗矢と化してヒメの許に通い生まれた姫だからで、名を富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライススキヒメ、別名・比売多多良伊須気余理比売-ヒメタタライスケヨリヒメ)という』と告げ、天皇は之を入れて正妃となされた」(神武記・所謂-丹塗矢伝承)

 これら記紀伝承をうけて、当社に伝わる率川神社御伝記(明12・1879、大神神社史料所載)には、
 「大和国添上郡率川坐御子神社三座また春日三枝神社(カスガサイグサ)とも申す。即ち大神神社の別宮にして大三輪氏の長世々奉祀すなり。
 推古天皇御宇大三輪君白堤(オオミワノキミ シラツツミ)勅を承け社を春日邑率川に立て、ヒメタタライスズヒメを奉斎す。是わがオオミワに坐すオオモノヌシ大神が、三嶋溝咋耳の女セヤタタラヒメに娶ひて生ませる御子なり。
 後に神武天皇の大后となりて、日子八井耳命・神八井耳命・神沼河耳命(綏靖天皇)の三子を生みたまへり。
   (中略)
 元正天皇養老年中(717--24)左大臣藤原朝臣不比等、子守神狭井神両神社を益造(マシツク)らる。子守神御名はタマクシヒメと申す。ヒメタタライスズヒメの御姨(ミオバ)にしてコトシロヌシの御妻に坐(マ)せり。狭井神はオオモノヌシの荒魂に坐せり」
とあり、日本書紀と古事記を混合した縁起となっている。

 なお、父神・狭井神をオオモノヌシの荒魂とするのは、神武記に
 「イスケヨリヒメの家が狭井川の上にあり、天皇がそこに幸行して一夜御寝られ、その後宮中に入れられた」(大意)
とあることから、狭井川の傍らにある摂社・狭井坐大神荒魂神社の祭神をこれに宛てたのであろう。

 なお、祭神については
 ・率川明神(東端御殿)・子守明神(中御殿)・住吉明神(西端御殿)−−率川御社御遷宮日記(1400・室町前期)
 ・開化天皇(東)・子守神(中)・住吉神(西)−−和州旧蹟幽考(1681・江戸前期)
 ・タマクシヒメ(東)・ヒメタタライスズヒメ(中)・狭井神(西)−−率川御子守本縁(1742・江戸中期)
 ・開化天皇(東)・伊邪那岐命(中)・住吉大社(西)−−明治7年明細帳(1874)
などがあり(式内社調査報告・1982)、率川御子守本縁を除いて、今の祭神とは異なっている。

 中世の頃から、当社が子守明神と呼ばれていたこと、曾て本殿の左右に住吉社(西)・春日社(東)が並んでいたことなどからの混乱と思われるが詳細不明。
 また開化天皇とは、天皇の宮廷を“率川宮”と呼ぶことから、“宮”を“神社”と誤認したものか。イザナギは不明。

※創建由緒
 当社の創建は、上記御伝書にあるように、
 「推古天皇御宇(元年-592-2月という)、大三輪君白堤(オオミワノキミ シラツツミ)が勅を奉じて、春日邑率川に社を立てた」
のが始まりで、当社縁起書は、これを以て“奈良市最古の神社”という。

 推古天皇元年創建の確証はないが、続日本紀・天平神護元年(765)8月条にある“従三位・和気王謀反”記事のなかに、
 「(謀反が発覚して逃げた和気王が)、率川社(大和国添上郡率川坐大神御子神社三座)に隠れているところを捕らえられ、・・・」
とあり、8世紀に存在していたことは確かといえる。

 創建以降の経緯については、率川社の名が古資料に幾つか散見するものの詳細は不明。
 平重衡の南都焼き打ち(1180)による東大寺・興福寺などと共に当社社殿も焼失したといわれ、その後の経緯は不明だが、13世紀末葉以降は春日若宮の神官あるいは興福寺の僧らによって管理され、近世には春日大社に属していたが、明治8年(1875)、その所属について大神神社と春日大社との間で論争が起こり、同10年(12年ともいう)、内務省達によって大神神社の摂社となり、今に至るという。

 なお率川(一名・子守川)は、春日山に発し猿沢池の南をめぐって市街地(なら町の辺り)を通り、当社の南を西流して佐保川に合流するというが、今、市街地部分は暗渠化されていて実見できない。
 また書紀(開化紀)には、「開化天皇は都を春日の地に移され、これを率川宮という」とあり、当社の北西約300mにある開化の陵墓が“春日率川坂本陵”と呼ばれるように、古くからの地名である。

※社殿等
 大通り沿いに東面して〆柱、すぐ奥に立つ朱色の鳥居(両部鳥居)をくぐり、境内に入った右手に、南面して現代風ガラス張り切妻造・瓦葺の拝殿(中に掲げる扁額には「子守明神」とある)が、その奥・築地塀に囲まれたなかに、一間社春日造・檜皮葺の本殿3社が並列し、中央にヒメタタライスズヒメ、右に母神・タマヨリヒメ、左に父神・狭井大神を祀る。
 本殿は近世初頭の形式を伝える建物として、県指定文化財となっており、平成19年、江戸末期・文久2年(1862)以来の本殿保存修理が竣工したという。

率川神社/正面鳥居
率川神社・鳥居
率川神社/拝殿
同・拝殿
率川神社/本殿
同・本殿

◎摂末社
 本殿の右手、朱塗りの木造瑞垣の中、中央に大神神社摂社・率川阿波神社、右(東)に当社末社・春日社(タケミカツチ・フツヌシ・アメノコヤネ・ヒメ神)、左に同・住吉社(住吉四神)が鎮座する。いずれも一間社春日造・檜皮葺。
 春日・住吉社の勧請時期・由緒など不詳だが、本社・率川神社は、13世紀末葉(鎌倉時代)以降、春日若宮社の管理下にあったというから、その縁で春日社が勧請されたと思われ、住吉社は室町以前から祀られていたらしい。
 率川阿波神社については下記。

率川神社/摂末社・正面鳥居
率川神社・摂末社・正面
率川神社/摂末社
同・摂末社
(左:住吉社・中:率川阿波神社・右:春日社


【率川阿波神社】
 率川神社縁起には
 「率川阿波神社は、率川坐大神御子神社と同じく延喜式に見える古社で、オオモノヌシ大神の御子神・コトシロヌシ神(エビス神)を祀る」
とあるが、
 奈良坊目拙解(1730・江戸中期)に引く社伝によれば、
 「宝亀2年(771・奈良時代)冬、大納言藤原是公(コレキミ・藤原南家・727--89)の夢にいう、『吾狭井御子神也。汝の氏神建布都神と共に阿波国に住む。今皇孫命の招集により建布都神とともに帝都に来臨す。建布都神は御笠山に、吾は率川の辺に住まんと思う。宜敷之を敬うべし』と。公この夢告により、神殿を造り、阿波より勧請し、阿波神と云う」(大意)
とあり、藤原氏特に南家との関係が深い。
 また阿波国からの勧請というが、阿波の何という神社から勧請したのかは不明。

 この伝承の真偽ははっきりしないが、文徳実録(876)によれば、“仁寿2年(852)11月従五位下授与”というから、8世紀末から9世紀中葉の間に創建されたと思われる。
大神神社・摂社/率川阿波神社

 今の祭神は、オオモノヌシの御子・コトシロヌシとするが、上記・奈良坊目拙解には
 「率川阿波神社コトシロヌシ一座、子守明神若宮也」
とある。子守明神の若宮を御子神とすれば、率川坐大神御子神社の配祀神・タマクシヒメの御子神となるが、コトシロヌシはタマクシヒメの夫神であり、若宮とする根拠など不明。
 他にも、天日方奇日方命(神名帳考証・1670頃)・天児屋根命(神祇宝典・1646)・天事代玉籤入彦命(大和志料・1914、コトシロヌシと同神か)などがみえる。

 当社創建後の経緯ははっきりしないが、資料(式内社調査報告など)を勘案すれば、15世紀頃までは現西城戸町内(現在地の南約200m附近)に鎮座したが、天文元年(1532・室町末期)の土一揆兵火によって被災・衰微し、享保年間(1716--36・江戸中期)には、個人の宅地に紛れてあるかなきかの有様だったらしい(江戸中期の古絵図には、率川子守社から率川を越えた東南に、“阿波社古跡”とあるという)
 それが何時の頃に再建されたかは不明だが、明治7年(1874)および同24年(1891)の神名帳には、“社殿・桁行一尺・梁行一尺”とあるというから、西城戸町内に小さな祠があったと思われる。

 その小祠が、大正9年(1920)に率川神社拝殿の西側に遷座し、さらに昭和34年(1979)の率川神社境内整備によって、現在地に遷座したという。

※三枝祭(サイクサ マツリ、「ゆり祭」ともいう)
 毎年6月17日に行われる伝統神事で、当社縁起によれば、
 「黒酒(クロキ−濁酒)・白酒(シロキ−清酒)の神酒を入れた缶(ホトギ)(ソン)と称する酒垂フ周りを、三輪山に咲き匂う山百合の花で豊かに飾り、古式に則った折櫃に納められた神饌と共に神前に供える」(大意)
とあり、山百合(笹百合)の花を多く用いることから別名・“百合祭”ともいう。

 この祭は、令義解(833撰上・養老令-717-の官選注釈書)
 「率川社の祭也。三枝花を以て酒垂飾る祭。故に三枝と曰ふ也。釈に云く、伊謝川社(イサカワ)の祭也。大神(オオミワ)氏の宗、日を定めて祭る」
とあるように、養老令あるいはそれ以前の大宝令(701)の頃からの官祭で、祭祀そのものは大神宗家が携わったが、平安時代には勅使派遣・幣帛奉献などがあり重視されたという。

 ここでいう三枝花とは“山百合”(笹百合)を指すが、これは古事記(神武記)
 「イスケヨリヒメ(=ヒメタタライスズヒメ)の家、狭井川の辺にありき。その河を佐韋河(サイカワ)と謂う由は、その河の辺に山ゆり草多(サワ)にありき。故、その山ゆり草の名をとりて、佐韋河と号(ナヅ)けき。山ゆり草の本の名は佐韋と云ひき」
と記すように、当社祭神・ヒメタタライスズヒメが狭井川を介して山百合と関係が深いことから、この祭を、百合の古名・サイをとってサイクサ祭という。

 このヒメと狭井川・山百合との関係から、本来は狭井川の辺に鎮座する狭井神社(狭井坐大神荒御魂神社)の神事だったが、大神・狭井両神社で行われる鎮花祭(ハナシズメノマツリ)に吸収されたため、大神神社の分社でありヒメタタライスズヒメを主祭神とする当社に移したのではないか、ともいう(神奈備・大神・三輪明神-1997)。この祭が、狭井川から離れた当社で行われることに対する一つの解釈であろう。

 この祭は、中世になって、率川神社が春日大社・興福寺の支配下に置かれるようになると、藤原南家と関係が深い率川阿波神社の“率川祭”(春日系の祭・2月11月執行)と混同・同一視されて衰微・中断したが、明治14年(1881)に古式に則って復興され、現在に至るという。

 なお、今の三枝祭は、初夏の奈良を彩る華やかな祭となっているが、当祭の本旨は、令集解(養老令の私撰注釈書)に、「此を麁霊和霊祭(アラミタマニギミタマサイ)と云う」とあるように、初夏の頃から猖獗を極める疫病の退散を祈ったもので、その本旨からすれば、大神・狭井両社の鎮花祭と同じといえる。

(追記)
 鎮花祭について、
 ・ここでいう“花”とは“桜の花”を指し、桜の花が散るとき(季節の変わり目)疫神もまた分散浮遊するので、桜花が散らないように鎮め、それによって疫癘(エキレイ・流行病)が流行しないことを願った祭(一般の解釈)
 令義解には、「鎮花祭 謂く 大神と狭井の二祭也。春の花飛散する時、疫神分散して癘(レイ)を行ふ。其の鎮遏(チンアツ)の為必ず此の祭有り」とある。
 ・桜の花が散るのは稲の花が散ることの予兆だから、“花よ 早々と散るな”と祈る(豊饒祈願)のがこの祭(折口信夫)
 ・春の終わりといった季節の変わり目には、満たされない霊や疫神が分散浮遊して疫病が流行するから、これら疫神を花に招き寄せて鎮まってもらう祭で、率川社の祭神・オオモノヌシは“物の怪(モノノケ)の主”であり疫神でもあるから、これを鎮めるために始められたのがこの祭(五来重)
などの解釈がある(宗教歳時記・五来重・1982)

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